大戦の始まり
ハイネ城市の北側に緩やかな丘陵地帯が広がり深い森に覆われ、木々の隙間から豪華な邸宅の屋根が頭をのぞかせている。
丘の谷間の底を蛇の様に走る細い道の上を蟻のように荷馬車がうごめく、戦火が近づき城壁の内側に御主人達の財産を避難させようと忙しく働く無数の使用人達の姿がそこにあった。
もともとこの地域はハイネの最終防衛ラインだ、だが二十年に渡り北方からの脅威がなかったせいで、いつの頃からか別荘地帯に変わっていた、今になって彼らはそれを深く後悔している。
そして丘陵地帯は北に一時間も進むと終わる、その先はテレーゼの国境のグリティン山脈まで広大な平原が続く、途中に敵をさえぎる事のできる地形はほとんど無い。
緑の大波の様な丘の上には豪壮な邸宅が幾つも築かれ、主人のように周囲を睥睨している、そんな豪邸の一つに一際瀟洒な赤レンガ造りのコステロ商会の別邸の姿がった。
住人の気配が絶えた邸宅の屋根の上から西を眺めると、新市街の空が黒く染まっている、製鉄所と北の職人街から立ち昇る黒煙が大火の様に西の空を染めていた。
その新市街のはるか北西になだらかな裾野を持つ雄大なマイン山の姿が見える、この山はテレーゼ平原で最も高い巨大な独立峰でハイネに鉄鉱石を供給する鉱山村がある。
その裾野を割る細い灰色の線が見える、線は裾野を下り陸橋に繋がりハイネ城を囲む城壁に接続していた。
これは二百年前の帝都建設と共に築かれた水道設備で市内に水を導く最重要施設だ、この水道橋の下にハイネの国境に向かう大街道が通っている。
そして東を見ると、ハイネの東側に南北に走る低い丘が見える、そこには先日の大爆発の爪痕が残っていた、丘がえぐれ大きな穴が不気味な口を開けている。
そして東の新市街の一部が破壊され無惨な姿を晒していた、未だに残骸の除去が進んでいない、その丘の東にリネイン、ラーゼ、グディムカルに通ずる街道の分岐点があるはずだがここからは見えなかった。
虫の羽音が鳴ると避雷針の一番高いところに留まっていた黄金虫が南の空に向かって飛び去つ。
その頃ハイネの遥か北方、テレーゼとグディムカル帝国の国境をなすグリティン山脈の山中ですでに戦いは始まっていた。
盾を並べた軽装歩兵に護られながら、街道を塞ぐ岩や倒木を除去しようと苦闘する帝国軍先遣隊の工兵達が進路の開削に死力を尽くしていた。
若い士官の叫びが森の中を突いた。
「そこの岩をここに動かす、ベッグおまえは部下を連れて鉄棒をもってこい、テコで動かすぞ!丸太を持ってこい」
工兵隊の指揮官は街道を塞ぐ大岩の除去に取り掛かるところだ、そこに矢がパラパラと降り注ぎ喚声が上がった。
「敵襲です!!」
護衛隊の誰かが叫ぶ、その直後ハイネ警備隊の軍装を纏った兵が襲いかかってくる。
ハイネ警備隊は森深き山中を蛇行する街道を岩や倒木で塞いで帝国軍の進軍を妨害し時間稼ぎを計っていた、障害物の排除を計る帝国軍の先遣隊と戦いが始まっていた。
部隊はここ数日に渡り何度かハイネ軍の攻撃を受けたが敵の戦意は低い、一通り作業妨害を行うとあっさりと引いてしまう。
だがこの日は様子が違っていた、敵はなかなか引かなかった、それどころか増援が山を登り襲いかかってくる。
「迎撃せよ!!これは何時もと違うな、おい伝令!!」
指揮官は異変を察し伝令を呼びつける、若い伝令兵が慌てて駆けつけてきた。
「大隊司令部に『敵の攻勢、至急増援を求む』だ!!」
命を受けた若い伝令兵は道を慌てて駆け昇り去って行く。
そこに敵の新手が現れ護衛隊に襲いかかる、だが工兵達も戦闘訓練を受けていた、下士官達はすでに敵の迎撃に応じていた。
隊長は指揮をしながらも敵の行動の変化の理由を考えた、敵の最終防衛ラインが近いのかだろうかと。
「さては撤退を考えておるのか?」
指揮官の呟きを聞いた副官が上官を見つめた、アラティア王国かセクサルド王国の援軍が近づきつつある。
指揮官は大きな戦いの予感を感じ思わず身震いした。
戦場から南に徒歩で二日程の場所にマルセランの街がある、街の北西にマルセラン要塞が築かれたのは古テレーゼ王国時代だ、築かれたのは今から三百年も昔の事で低い丘を利用して要塞は建設された。
だが王国崩壊後は地方領主が管理するには巨大すぎ持て余したあげく放棄されてしまった、マルセランの領主は街道を取り込む様に街を整備し城郭を築いた、その材料に要塞の石材を流用してしまった。
今は完全に要塞は廃墟となり森に埋もれている、遺構だけがかつてそこに巨大な要塞があった事を教えてくれていた。
そのマルセランの街に東方から赤い軍装の数十騎の騎兵が接近してくる、ついにアラティア軍の先遣隊がその姿を現した。
だがアラティア軍の本隊はいまだ遥か後方を進んでいる、全軍がここに集結するのにまだ三日以上かかるだろう。