ブーケの宿から
アウデンリートの遥か西にブーケの街がある、公都アウデンリートと港町リエカを結ぶ街道のほぼ真ん中にある宿場街だ。
その郊外に馬車停め付きの宿屋が集まる一角があるが、金を払えば馬の世話もしてもらえる便利な宿屋だ。
そんな一軒の宿屋の馬車停めにジンバー商会のローワン=アトキンソンが率いる通称雑用係の馬車が繋がれていた。
すぐ安宿の隣の品の良くない酒場から下品な笑い声が聞こえてくる、だが曳き馬のロバも慣れたもので今は箍から外されてのんびりと飼い葉を食べている。
だがその宿屋の下品で活気に満ちた酒場にローワン達の姿は無い、彼らは一つの大部屋に集まっていた。
部屋の空気は重く部屋の真ん中のテーブルの上で灯された獣脂ロウソクの明かりの様に暗い。
彼らは昨晩の夜と嵐を突いて漂着した未知の難破船を観察しようとした、だが意図せず内部に侵入する事になってしまったのだ。
そこで理解しがたい驚異に遭遇し、活動を開始した難破船から脱出を図るが仲間のデミトリーを失ってしまった。
彼の死を確認したわけではない、だが彼を閉じ込めたまま難破船は飛ぶように東の海の彼方に走り去ってしまった。
メンバーはそれぞれのベツドの上に腰掛けていたが、いつものように軽口を叩かなかった、それぞれ自分の考えに浸りきっている。
「俺たちは任務を果たさなければならない、それはいかなる手段を持ってしても、いかなる犠牲を払ってでも」
外見は剽軽な二枚目男のローワンが見慣れない厳粛な顔でつぶやくように口を開いた、もしかしたら自分自身に言い聞かせてたのかもしれない。
だがジムがそれに納得できるわけがなかった、デミトリーが喪われた事を悔む気持ち以上に自分はこの仕事を望んだわけではない。
だが同時に彼らに協力を拒否したらとうの昔に消されていただろうと内心では思っていた。
ローワンはそんなジムの心の内を知っているかの様にこちらを見たのでジムは慌てた。
「お前も長生きしたければ逃げようとしない事だ、お前も見てはいけない物を見すぎた」
ローワンの貌が出会った事の無い男の様に感じられる、薄暗い獣脂ロウソクのせいだけでは無い。
そして見てはいけない物とはあの恐ろしい金髪の小女や黒い長髪の女の事に間違いなかった、ジムは生まれて始めて人を越える存在と初めて遭遇したのだ。
いつの間にか当たり前の事の様に慣れてしまったが、自分の経験にどれほどの価値が在るか今更の様に自覚させられた。
だがジムの口から出た言葉は話題をそらすかの様だ。
「今までもデミトリーさんの様な人がいたんですかローワンさん」
だがそれに答えたのはベッドに腰掛けてロウソクの炎を見つめたままじっとしていたラミラだった。
「初めてじゃないよ、詳しくは教えられないけどね」
ジムは驚いて彼女を見た、ラミラの赤みがかかった金髪がロウソクの灯りを受けて幻想的に浮かび上がる。
「俺たちの仕事は危険だ」
ローワンの言葉はどこか乾いた無機的な響きを帯びていた、だが彼の貌からはその内心は伺えない、ジムは初めてローワン=アトキンソンと言う男を恐ろしいと感じた。
突然部屋の中が魔術道具の光で照らされる、ジムも驚いてそちらを見ると天才写生家のバートがベッドをテーブル代わりに石版を広げ白墨で何かを書き込み始めるところだ。
「何とかなりそうか?」
ローワンがベッドに近づくとバートの作業を見守り始めた。
「スケッチがなくなりましたが、何とか記憶をもとにやりますよ」
難破船からの脱出時に彼らは荷物を幾つか無くしてしまったが、その中にバートが描いた難破船の素描が含まれていた、油紙で包まれ革袋で保護されていたが革袋ごと失われたのだ。
「気になるので覗かないでくださいよ」
バートの苦情にローワンが苦笑いを浮かべた。
「すまんすまん」
ローワンが快活に謝罪した、だが一転して声を低める。
「明日の夜までにアウデンリートに着く、ジンバー商会の連絡事務所からハイネに緊急便を出す、それに間に合うようにしてくれよ」
「えー、また徹夜ですか?」
「馬車の中でもいいぞ」
ローワンが笑い声を立てた、その時には何時ものローワンに戻っていた。
「あたしにはデミトリーが生きている様な気がするんだ」
ラミラの小さな言葉にその場にいた者たち皆凍りつき、怖れるような視線をラミラに集めた。
バートすら白墨を握る手を止めてラミラを不気味な者を見るかのように見つめている。
彼女はロウソクの炎を見つめていた、だが彼女は炎の向こう側の何かを見ている、ジムはそんな根拠の無い考えに囚われ身震した。
そしてしばらく言葉を発する者はいなかった。
豪華な調度品に囲まれたその一室は、東エスタニア中央独特の重苦しい豪華さと、エルニアらしい素朴な荒々しさ、そこに西エスタニアの様式が僅かに混じりあっている。
その窓際から全裸の女がガラス窓越しにアウデンリートの町並みを見下ろしていた、静かな星あかりに照らされた街並みが眼下に広がる。
彼女の薄く日に焼けた背中に、銀色のストレートな長髪を背中に流し、それ以外に何も身に着けてはいなかった。
そして女は僅かに小首を傾けた、その謎めいた微笑がガラス窓に映る。
その顔はあまりにも人離れして美しい、細い顎と切れ長の目の繊細な美貌はおとぎ話の妖精を連想させる、彼女はあの謎めいた難破船の唯一の生存者だ。
だが窓ガラスに映る微笑みを見た者がいても感情の裏付けを感じとる事は出来なかっただろう。
部屋の奥から男のいびきが聞こえてきた、医学に詳しい者なら健康に問題がある兆候を読み取る事ができたかもしれない。
女が部屋の中を振り返り寝室の中央に鎮座する巨大なベットに向かう、いくぶん痩せぎすな繊細な肢体が優美に流れる様に動く、その動きはエスタニア文明とは異なる支配者のカーテシーを見るものに感じさせる、だが残念な事にそれを見せる相手はここにはいなかった。
巨大なベットの上で布団にくるまり寝ている男を見下ろした、その男こそエルニア大公セイクリッド=イスタリア=アウデンリートその人だ。
布団からはみ出した肉体は荒飲と不摂生な生活に蝕まれ、年齢よりも疲れたるんだ皮膚が寝室の暗がりの中に醜く沈んでいた。
だが女の眼には怒りも憎しみも軽蔑も無かった、まるで解剖台の上の小動物を観察する学者のような無機的な眼で男を静かに何時までも見下ろしていた。