マトウシュ博士の回想
ピッポは所長室に隣接する控室に招き入れられた、執事は壁際に並べられた小さな椅子を示した。
「所長はただ今席を外しております、そこでお持ちください」
ピッポが着席するまもなく執事は自分の仕事に没頭しはじめた、客を放置する様なものだがピッポはこの男と会話するのが面倒だったのでこれ幸いと気を休める事にする。
しかし静かになると研究所の中の騒然とした物音がここまで響いてくる、すると何時もの悪い癖が出る。
「何か起きましたかな?」
改めてピッポが男に話しかけると男は睨み返してきた。
「昨晩の異変の影響を調査しているのです」
お前はそんな事も理解できないのかと男の顔に書いてある。
「いやあ私は力に鈍感でして、イヒヒ」
そううそぶくピッポを無視して男はそのまま仕事に戻ってしまった、またピッポは目を瞑り頭を休める事にした。
そしてピッポは先日ここを訪れた時の所長バルタザールとの面談を思い返した、あの日は初めて本気で自分を売り込む気になっていた。
テレーゼのハイネは異端と禁忌の聖地になって久しかった、死霊術が半ば大腕を振るって闊歩しているのだ。
もしかしたらこの街で己の願いが叶うかもしれないと考えたからだ。
それは三日前の事だ、ピッポは『セザール=バシュレ記念魔術研究所』に呼び出され所長室で最高責任者バルタザールと対面していた。
バルタザールは高級な革張りの椅子に深く座っていた、机の前に立つピッポは小柄なためバルタザールとそれほど顔の高さが変わらない。
所長は壮年の細身で鷹の様な鋭い目つきの男で一見すると魔術師らしく無い、上等なスーツを着込みその上に魔術師のローブを纏っている。
壁際の杖立てに豪華な装飾を施されたステッキが立てかけてあった、ピッポはそれがステッキに偽装された魔術道具だと見破った、その価値を頭の中で計算していたので僅かに注意がおろそかになる。
「君の作り出した数多くの薬品に大いに興味を惹かれた、君を呼び出したのはそれが理由だ、君はどこかの魔術研究所で働いていたのかね?」
「え、ええ、いろいろな事情がありまして追い出されまして、長らく放浪しておりました、禁忌とやらに触れたといいますか、イヒヒ」
バルタザールの瞳に一瞬だけ不快な影がよぎったがそれは一瞬の事だ。
「この街には訳アリの人材が流れてくる、いかなる禁忌に触れたのだ?」
バルタザールは皮肉な笑みを浮かべる。
その時ピッポが纏う空気が変わる、にやけた笑みが消え真摯な何かに変わった、そこには一人の学研の徒がいた。
「所長は察しておられると思いますが、いわゆる死霊術の一端に触れてしまいまして、ですがあの頃は死霊術の本質に気づいておりませんでした、もしあのまま研究を続けていたら真実にたどり付いていた事でしょうな」
「この街に来て気づいたと言うわけだな」
「イヒヒ、その通りです」
「どのような研究だ?」
眼の前の男は鋭い眼光でこちらを探るように見つめる、ピッポはもしかすると研究の詳細を知っているのではないかと疑い始めた、そこであえて偽ることを止める事にした。
「幽界の門の制御に係わる研究をしておりました、狂戦士病の治療薬の開発が名目でしたが、今にして思うとスポンサーに人為的に狂戦士を作りたい、魔術師を作りたい野心があったと思いますな」
「やはりそうか・・」
バルタザールの言葉はささやく様だ。
「なにか?」
「君の作り出した薬品の傾向から、君がアルムト魔術総合大学に居たのではと推理した者達がいてね、禁忌とされて封印された研究資料を研究しているチームから指摘があったのだよ、君を呼び出したのはその為だ」
「そのような資料によくぞ触れる事ができましたな」
「それに関して詮索しない事だな」
「あはは、わかりました私も命は惜しいですから、イヒヒ、としますとあの研究に興味がお有りでしたか・・・」
禁忌対象の資料ともなれば聖霊教の総本部教会か魔術師ギルド連合の中枢に繋がりがあるか、それらの高位の者の中にスパイがいなければ不可能な話だ。
「我々が君が関わった研究を進化させたていたとしたらどうかね?」
「今なんと?」
「君が関わった研究を我々が進化させたのだ、ピッポ君、いやマトウシュ=ベドナーシュ博士」
ピッポは衝撃のあまりよろめいた、それでもなんとか立ち直る。
「そこまでご存知でしたか・・・」
「我々は君たちの研究を基礎にそれを発展させた、その計画に関わっていた者達のリストと実績を把握している」
ピッポから軽薄で卑屈な笑みが消えた。
「では、あの研究は完成したのでしょうか?」
「いまだ完成に遠い、自然に生まれた狂戦士病の男を利用し幽界への通路を魔界への通路に置き換える事に成功はした」
「なんとそこまで!ですが未だ人為的に異界への通路を開くことはできないと?」
バルタザールは椅子に深く座ったまま足を組むとうなずく。
「ですが、幽界の通路を魔界への通路に置き換える事ができるなんて!」
「今の時点ではこれ以上君に話す事はできない、君が追放されてから八年の歳月が過ぎ去った、世界はその間も進歩しているのだ」
「そうでしょう、正式にそちらの研究に協力するまではですな?」
「我々ならば君が探究していた研究を再開する機会を与える事ができる、だが一度首を突っ込んだらもう離れる事はできない、これだけは初めに言っておこう」
ピッポは喉を鳴らした、この禁忌とされた研究は命に係わる程の危険を伴う、ピッポが追放された時いくつか制約を施された、研究に関する内容を語ることが出来ないように魔術的な制約を施されたのだ、殺されなかっただけ奇跡に近い。
もっとも偶然の事故から制約の一部が解除された、だがこの地なら邪魔される事なく研究を進められるだろう。
ピッポの全身に再び力が戻り始めた。
「私にとってあの研究は人生の総てでした、その後は余り物に過ぎなかった様です・・・」
バルタザールの鋭い眼光は探るようにピッポを窺う。
「良かろう、三日後に最終的な答えを聞かせてくれたまえ」
そんなピッポの回想を破るように若い執事が呼びかけていた。
「ピッポ様バルタザール所長がお戻りです早く所長室へ!」
ピッポは慌てて椅子から立ち上がる、僅かに軽侮を秘めた目でこちらを窺う執事の貌に気づくことは無かった、ピッポの目は開け放たれた所長室の扉の向こうを見ていた。
この時ピッポの心は既に定まっていたのだ。
そしてこの扉をくぐると二度と戻る事は出来ない、長い放浪の旅を共にしてきた仲間達の事はもはや脳裏に存在しなかった。