女神のホルン
コッキーの頭が朦朧となりしだいに考える力が失われて行く、そして狂った楽器職人の悪夢の様なホルンの側に行ってみたい、そんな思いが湧き上がってきた、その慾望に身を委ねて楽になりたい、それに心が塗りつぶされていく。
コッキーは奥の台座のホルンを熱に潤んだ瞳で見つめていた、ホルンのマウスピースに口づけしたい、胸の中の空気を思いっきり吹き込みたい、そんな慾望に駆られるままホルンに向って歩きはじめる。
コッキーは総てを忘れていた、テレーゼに帰る事もベルの事も何もかも。
(あのホルンを吹きたいのです)
台座に近づくにつれ、ホルンが少しずつ変形していく、絡み合った毛糸玉のような、異常に歪んだホルンの形が次第に解放されていく、ピストンの位置も人間の指に合いそうな場所に移動していく。
それは美しく気品に満ちたホルンに生まれ変わろうとしていた。
(これなら吹けそうですよ、へへッ)
コッキーはホルンなど吹いた事などなかったが、なぜか吹けると言う確固たる自信がみなぎっていた。
それはとても幸せで充実した気持だった、台座の前にたどり着くとホルンに手を伸ばす、小柄なコッキーには少々高い位置にあったはずのホルンだがなぜか簡単に手に取る事ができた。
(あれ、背が伸びましたか?)
ベルがいた事を思い出して後ろを振り返る、ベルはまったく身動きせずその表情も変わらない、だが目だけが驚きと恐怖を湛えていた。
(ベルさんどうしたのです?)
ベルは体が動かず、台座に向かうコッキーを止める事ができなかった、ただ見守る事しかできなかった。
そのコッキーの体に徐々に変化が現れ始める、コッキーの体が縦方向に引き伸ばされ始めたのだ、ベルは戦慄したが声を発する事すらできない。
その変化はコッキーが台座に近づくほど激しくなっていく、体の左右で引き伸ばされ方に差があるため体が曲がり始める。
頭も例えようのない形に引き伸ばされ曲がり始めた、手足も奇妙な曲線を描くように変形し引き伸ばされ、指も長く伸び曲がっていく。
(これは幻覚だ!!)
ベルは必死に自分に言い聞かせた。
その奇怪な狂った芸術家の造ったオブジェの様な化物と化したコッキーがホルンを手にとりベルの方に向き直った。
(ギャアアアア!!!オバケーーー!!!)
ベルは心の中で絶叫した、百選練磨で修羅場を何度もくぐり抜けてきたベルも魂がとびかけていた。
おまけに幼児退行まで起こしかけていた。
ベルは理解した、このホルンはこの姿形の奏者に合わせて作られた楽器なのだと。
コッキーはホルンなど吹いた事などなかった、でも今は素晴らしい演奏ができる喜びに打ち震えていた。
吸い込まれるようにマウスピースに唇を当てた、何か得体の知れない力が体の中に入ってくる。
力が漲り静かにホルンの演奏を始めた、落ち着いた温かい音が鳴り響き始める、それは朝焼けのような雄大で美しい曲だった。
コッキーの周囲に光の玉が集まり始めた、それはやがて小さな人の姿をとり始める、コッキーがおとぎ話で聞いた妖精そのものの姿をしていた。
コッキーの瞳が微笑んだ、それは蝶や羽虫の様な羽根を持った美しい妖精達だった。
(へへ、やっと会えましたね)
美しい妖精達は聞き取れぬ言葉でお喋りしながら、コッキーの髪に触ったり耳を引っ張り遊び始めた。
やがて右側で音がする、それは黒い像が動き始めた音だった、その黒い像は上半身を起こし立ち上がろうとしていた。
コッキーが再びベルを見ると、ベルは先程からまったく体も表情も動いていなかった、ただ目だけが狂気の色を帯び始めていた。
(ベルさん?)
ベルは体を動かす事ができず、コッキーの演奏をまともに聞くことになった、それははたして音楽なのだろうか?
その曲は理解しがたい音程とコードで構成されていた、ベルも音楽に詳しいわけではないが、名門の令嬢として最低限の教養は叩き込まれていた。
やがてコッキーの周囲に光の歪みが幾つも生まれる、向こう側の背景が歪んで見えるような歪みだった、ベルは水を入れた金魚鉢を連想した。
その音楽からは脳をかき混ぜられるような不快感と、不協和音の中に怖ろしい法則性が潜んでいる事を理解しはじめる、彼女の並外れた直感力がその法則の意味を理解できた時が身と心の破滅だと告げていた。
それは理屈ではなかった。
(考えちゃだめ!!)
ベルは別の事に意識を向けようとした、その時左側の石の台座の上に変化が現れた。
台座に半分埋め込まれたように安置されていた、黒い女神像が起き上がろうとしていたのだ。
やがて黒い女神は立ち上がると真っ直ぐ歩き始めた、ベルも歩き始めた女神像を目で追うことしかできなかった。
女神像は壁に到達し壁の窪みにしっかりとはまり込んだ、そしてそのまま壁に沈み込んでいく。
女神像が通過した後の窪みは白い光に満たされていた、いや窪みではなく穴になっているのかもしれない。
そこでやっと狂気のホルンの演奏が止まった、それと同時にベルの制御を外れていた力が戻り初めた、再び体を動かす事ができるようになったが、ベルはその光に満たされた穴から目を逸らす事ができなかったのだ。
のろのろとベルは数歩前に出る、そして黒い女神が去った壁に向き直る、そして魅入られたように穴に向って歩き始めた、ベルは見かけによらず強靭な精神の持ち主だったが、ベルの心は疲れ果てていて抵抗力を失っていた。
ベルが近づくに連れてその穴は変形し人の形をとり始める、その形は人の女性の輪郭に近づいていった、しだいにベルの為に初めから用意されていたとしか思えない形になっていく。
ベルの心はその穴をくぐり抜け向こう側に行きたいと言う強い衝動に塗りつぶされていく、遠くでベルの理性が拒絶していた、だがそれも抵抗虚しく消えていった。
グラディウスを捨て、小間使いの服を脱ぎ捨て総てを脱ぎ捨てた、そして裸になっていた。
ベルは自分と同じ形をした光に満たされた穴に向って進んでいく。
穴にピッタリとはまったベルは大きな満足を得た、そのまま穴をくぐり抜ける、全身を快感が走る、光の中で何か大きな何かに包まれ肉体が溶けていくように感じた、不愉快な物ではなく満たされた平穏の中にいた、やがてベルの意識も溶けて消えていった。
コッキーは無意識に演奏を止めホルンを台座に戻した、その瞬間に左の肩の上に焼け付くような痛みを感じた、思わずそこを見るとホルンの形をした痣ができていた。
不思議と朦朧とした意識のなかでそれを自然に受け入れていた。
いつのまにか妖精達も姿を消している。
(妖精さん達さよならです)
そしてコッキーの眼の前にいたベルが動き始めた、すでにベルの瞳からは恐怖の色が去っていた、ベルは黒い女神像を追うように壁に向って歩いて行く。
そのベルの体に変化が現れ始めていた、彼女の体が引き伸ばされ変形していく、そして頭が逆円錐形に変わっていく。
コッキーはそれに衝撃を感じた。
(ひっ!!ベルさん!?これは幻ですか?)
ベルは黒い像と全く同じ姿形に変わって行く、そして次々に服を脱ぎ捨て、最後に下着までも脱ぎ捨てて全裸になってしまった。
そのままフラフラと黒い像が通り抜けた穴に向って進んでいく、ベルの体はその穴にピッタリと嵌まると、そのまま穴をくぐり抜け光の中に消えて行ってしまった。
(ベルさん!?)
あわててコッキーも壁に向かって走り寄ろうとしたが体が思い通りに動かない。
(女神様がお戻りになる前に行かないと)
唐突にそんな思いが浮かんだ、コッキーも数歩前に進み出る、ベルが通り抜けた光の穴に向き直っていた。
辺りの床にはベルの脱ぎ捨てた服と剣が乱雑に散らばっている。
そしてベルと同じように魅入られたように穴に向って歩き始めた、その穴は次第に変化し人の形をとりはじめていた、それはやがてコッキーの輪郭その物となっていく。
コッキーの心はその穴をくぐり抜けたいと言う慾望に塗りつぶされ、何も考える事ができなくなっていた、平べったい愛用の背嚢を捨て、総ての服を脱ぎ捨て全裸になった、そして自分と同じ形をした光に満たされた穴に向って進んでいく・・・
喜びと期待に震えながら。