馬車の旅
ベルは馬車の窓から流れ去る遠くの景色を眺めていた、やがてハイネ=ヘムズビー大街道を横切った、そのまま馬車はテレーゼの田園地帯を貫いて北西に走る、しだいに景色が田園から林に変わり始める、ベルは林が人の手が入った林だと一目で見抜いた。
陽の光が樹々に遮られ馬車の中が薄暗くなった涼やかな湿った風が車内に流れ込んできた。
やがて乾いた音が聞こえると風が断ち切られた、驚いて車内を見た。
「窓を閉めたわよベル」
アマンダが反対側の窓を締め切ったところだった、そして馬車の振動が大きくなってきた、そのゆれが馬車が辺境地帯に入りつつある事を教えてくれる。
「アマンダこの道大丈夫なの?」
少し顔をしかめてアマンダを軽く睨む、アマンダは少し唇を尖らせて地図を懐から取り出し膝の上に広げた。
ベルはアマンダの仕草が少し可愛いと思ったが賢明にも口を閉ざす。
「この街道は商隊がよく使う道よ、こうやってグディムカル帝国を大きく迂回しセイル半島の西側に出る事ができる街道よ、他に道は無いから間違えようはないわ」
ベルはもう一度地図を覗き込んだ、街道はテレーゼの北西の国境に向かって伸びている、街道はグディムカル帝国の南西の国境を成す山地にそって走っていた、その山地は西に向かうほど高く険しくなる。
先ほどハイネ=ヘムズビー街道を横切ったので自分達が今いる場所もだいたいわかる。
「テレーゼはこの村を通過した先の森で終わり、ここまであと一日走り続ける必要があるわ、この先は小さな領地がたくさんあるけど、明確に主君を決めていないわ」
テレーゼ王国のテリトリーはこの先の大森林地帯の手前で終わる、辺境の国境は曖昧で明確な線引きはされていないのが当たり前だった、王国の最盛期はその先の地域の領主達も王国に帰属していたらしい、ルディはこの地域まで二人を送って行く予定だ。
この地域にグディムカル帝国に通じる整備された街道は存在しない、だが山地に人が通り抜けられる道があると言われている。
国境の山地は険しくなりながら更に北西に伸びていた、やがてセイル半島を東西に分けるアンナプルナ山脈に繋がり広大な高原地帯を形成している、高原は牧畜が営まれるだけで小さな自治都市が点在しているだけだ、そして金属資源が豊富と噂されていたが未だ大きな成果を上げた者はいない。
アンナプルナ山脈の峠を越えさらに西に進むと街道の終点セイル半島の西海岸にあるノンベルグ王国に到達する、そこまでこの快速馬車でも二十日以上かかる、だが徒歩ならば約三ヶ月以上かかる旅を覚悟する必要があるのだ。
そしてこのノンベルグ王国に至る街道からグディムカル帝国に抜ける事も、高原地帯に隠れ住む事も、北方世界に向かう事もできるのだ。
いつの間にかリズとマティアスの二人も身を乗り出して地図を覗き込んでいた。
ベルはリズが緊張こそしているがどこか楽しそうだと感じてしまった、彼女はこれからの旅を楽しみにしている。
だがマティアスはいつもの軽薄な無法者の気配が消え鋭い視線で地図に見入っていた。
「そろそろ馬を休ませたい」
御者台の上からルディが告げる、馬車の速度が落ち始めた、やがて馬車は少し開けた場所に寄せて止まった。
ベルは真っ先に馬車から降り立つと背伸びをしながら深呼吸をした、森の空気は身体に馴染む、鳥の鳴き声に混じりせせらぎの音が聞こえて来た、すぐ近くに小さな川が流れている。
ルディも飛び降りると馬たちを馬車から外しはじめた。
「馬車の中は窮屈よね」
窮屈にした本人がそう言いながら馬車から降りるとルディの手伝いを始める、ベルも舌をチョロっと出してから手伝いに加わる事にした、ベルが怠け者と言うわけではないどこかお姫様気分が抜けきっていないだけだ。
ルディが馬達を木につないでいる間に、ベルは小さな桶に水を汲んで馬たちに与えた、アマンダは備え付けの布で馬たちの汗を拭いてやる。
ふとベルはリズ達を探した、二人は少し離れた街道そばの太い倒木の上に並んで腰掛けている。
なぜか胸が騒いで軽口でも言ってやろうかと口を開きかけた時、隣から凄まじい威圧を感じる、アマンダが頭の上からベルを睨みつけていた、だが彼女のエメラルドの瞳はいたずら小僧の様に輝いている、その深いエメラルドの瞳は貴女の考えなんてお見通しよと語っていた。
やがてベルの耳に二人の会話が聞こえてくる。
「マティアスこのままノンベルグまでいこうか?グディムカルは避けたいよ」
「テレーゼから来たとバレると面倒な事になる、もっと北に行くのもありだぜ?」
「だよね」
ベルの鋭い聴覚が漏れ聞こえてくる二人の会話を拾った、おかげで仕事の手が遅くなる。
「今晩は街道街で宿泊してあすの昼過ぎに国境地帯につく、今の内にこれからの事を決めておきなさい」
ルディが岩塩を馬に舐めさせながらよく通る声で二人に告げたので、二人は驚いた顔をしてこちらを振り返った。
二人の表情に僅かな怖れがある事にベルは気づく、この距離で会話が聞こえていた事に驚いたのだろう。
もしかするとルディは遠回しに密談は無駄だと警告したのかもしれないと思いついた、そして考えすぎと思って頭の中からその考えを振り払った。
それにしてもルディの口調が時々老人臭くなる、ルディの祖父のデキオン大公の影響らしいと昔アマンダが教えてくれた事を思い出す。
「さあみんな食事をとりましょう」
アマンダの朗らかな大声が微妙な気まずい空気を振り払った、彼女は何時の間にか馬車の荷台から革袋を降ろしていた。
ベルも慌てて荷台から汚れたシーツを取り出して下草の上に敷いた。
やがて五人で保存食料を噛み砕き水筒の水で流し込むだけのささやかな昼食が始まる。
ルディ達が休息をとっている場所から大きく離れた針葉樹の巨木の枝の上に人影が有った、それは痩身の男で吟遊詩人のような衣装をまとい古風な異国のリーュトを背負っている、長い白髪を後ろで束ねて腰まで伸ばしていた。
男の真紅の瞳は遥か離れたルディ達を見下ろしていた、その白面の美貌を僅かに歪ませて微笑む。
「わざわざ奴らを送ったのか、人の良いことだ」
その瞬間に吟遊詩人の姿は消えていた。
「ベルどうしたの?」
保存食料を噛み砕いていたベルの動きが止まったのでアマンダが気になったのか顔を覗き込んでくる。
アマンダの鼻息がかかりそうな距離に彼女の迫力のある美貌が何時の間にか迫っていたのでベルが驚いて仰け反ってしまった。
「この方向に少しだけ何かを感じたんだ」
ベルが気を取り直して指さした方向を全員が真剣な顔をして見つめた。
「俺には何も感じない・・・」
ルディは頭を横に振った、だがベルを嗤うものはいなかった。
「もう何も感じないよ」
ベルはその方向を暫く睨み続けていた。