獅子の軍旗東へ
テレーゼ大平原にまた日が昇る、風が凪ぎテレーゼ大平原を朝靄が遠くまで白く煙らせた、その中をヘムズビーの街を後にしてセクサドル軍がハイネ街道を東に向かって行軍する。
白霞んだ地平線の西にセクサドルとテレーゼの国境を成すラングセル山地が青く見える、ここからは見えないが軍の過半はまだこの山中の街道を進軍しているはずだ。
そして南北に連なる山々を背景にしてヘムズビー公爵家の居城リバーメイデン城の大城郭が白く浮かび上がる。
そして軍列に二頭の向かい合う黒き獅子の軍旗が遥か彼方にまで連なっている、この黒き獅子の紋章こそかつて大陸中を震撼させたセクサドル帝国の象徴だ。
アルヴィーン大帝が征くところかならずその戦陣にこの戦旗がたなびいたものだ。
司令部要員の一団に加わり鞍上でゆられながらアンブローズ=カメロは漠然とその光景を眺めていた、山が多いセクサドル王国に地平線が見えるほどの大平原は無い、だが彼は自然を愛でる風雅な精神など持ち合わせてはいない。
昨夜はヘムズビー公爵の歓迎会に加わり少々疲れていたのだ、もともと宴会が好きになれずまったく楽しめない、それに彼の様な身分があまり高くない士官達は城の庭に設けられた宴会場が充てがわれた、夜になると山地から吹き下ろす風で冷える、とても気楽に楽しめるものではなかった。
もっとも兵士達は城外に野営し酒とささやかな肴を充てがわれただけなので贅沢な悩みだが。
カメロの隣を進む同じ司令部要員のオレク=エンフォリエがそんなカメロの様子に気づいた。
「ようカメロ、おまえあまり酒が飲めなかったな」
カメロは悪友のオレクを乾いた瞳で無感動に見やる、オレクはわずかにたじろいだ、カメロがこの様な反応をする時は冗談が通用しない時だ。
「私は馬鹿騒ぎに興味が無いだけだ」
感情のこもらないカメロの声にオレクが慌てだした、カメロがヘムズビー公爵の歓待の宴をその様に断じたからだ、貴族とは言え末席に連なる彼らには危険すぎる暴言だった。
おまけに本隊の中心で名目上の総司令官アウスグライヒ王子と側近達が昨晩の宴会について楽しげに論評している最中だった。
副司令官のドビアーシュ将軍が一瞬こちらを睨んですぐに前を向いた。
昨夜の事だ、カメロはドビアーシュ将軍が軍事行動に関してヘムズビー側と更に詰める為に時間を使いたかったとこぼしていた事を思い出す。
「あぶねえな、聞かれたらどうする?」
オレクは声を潜めて内心胸を撫で下しながら苦笑いを滲ませた、だがカメロは今の言葉は将軍に聞かれていたと感じていた。
「なに聞かれてはいないさ」
そううそぶいて前を見た、その視線の先でアウスグライヒ殿下と取り巻き達がテレーゼの料理や酒を論評していた、だがカメロはそれらに何の関心も持ち得なかった。
カメロは己の頭脳のキャンバスの上に戦争と戦略の絵図を描く事以外に興味がない、富も力にも興味がなかった、だがその夢をかなえる為ならばそれを得る為に力を尽くしたいとも考えている。
今は他者の要求に応じて戦術を描き上げるのが仕事だ、だがいずれは戦争と戦略の絵図を描いて見たいと願っていた。
だがセクサドル王国は百年に渡り内陸部に引き籠もっていた、己の夢を叶えるのは無理だと諦めてかけていたが今世界が大きく動き始めている。
戦乱は無数の悲劇と不幸を生み出すが、それは己の夢や野心を叶える大いなる機会でもある。
もちろんそれを他者に語った事はない。
カメロは悪友のオレク=エンフォリエの事が嫌いでは無かったが、夢や願いをお互いに語り合う相手では無かった。
彼は名門の生まれだが八男生まれだ、いい加減でふざけた性格の男だが軍人として身を立てる事が夢でおおそれた願いなど持ってはいない。
「おしゃべりは将軍に睨まれる」
カメロはそうささやくとオレクも納得した様子で大人しく前を向く。
そしてカメロは改めて我らの総司令官を見た、そこにはホーエンヴァルトと彼の取り巻き達がいる、従軍経験もない男だが政治的な成り行きで総司令官になった男、名目とは言え王族の彼に優れた知見があれば彼の発言を無視する事はお目付け役の将軍にもできない。
カメロが夢見る事を実現する手段を得ているにもかかわらず、それに気づくこともなく己の野心の糧にするでもなく、ただ目先の快楽以外に関心のない男だ。
カメロが尊敬する王弟カルマーン大公が病気療養中で今回の遠征の戦陣に立てない事を悔やんだ、彼ならばまだこの従軍に耐える事ができただろう、何か黒く冷たい感情が腹のそこで渦巻きはじめる。
ふと気づくとオレクが少し心配そうにこちらを見ていた。
「なあ気分が悪いなら馬車に移って休んだらどうだ」
オレクはいい加減だが人の良さを備えていた、この男にはそれ故に友人が多い。
慌てて表情を意識して和らげた。
「いや大丈夫さ、心配をかけた」
そして軍団を飾る林立する軍旗をまた漠然と眺める、日は高くなりしだいに風が吹き始めた、深く蒼い空と豊かな大平原が遠くまで見通す事ができる。
二頭立ての馬車が細い街道を北西に進む、馬車は職人の匠の技が凝らされ早く走る事と快適さを追求した余計な装飾の無い実用本位の高級品だ。
その御者台に座るのはルディガーその人だ、世が世ならば御者など務める身分ではないが本人はいたって平気だった。
人にさせるより自分でやった方が気が楽だと言ってのける性分なのだ。
その馬車の中に気まずげに座る四人の乗客がいた、マティアスとリズが仲良く並び、その向かいにベルとアマンダが並んで座っていた。
ベルがアマンダの横顔をそっと見る、すると鋭利な感性の持ち主のアマンダはそれを察して軽くベルに振り返ったのでベルは軽く首をすくめてみせる。
「ベル私の顔に何かついているかしら?」
「髪が黒いのに馴れなくて」
「このご時世よ変装が必要なのよ・・・」
アマンダの微笑みは苦かった。
思い返すとこの道中はベルが国境まで一緒に行くと言いだしたところから始まった、それは一理あったので受け入れられた、馬車の中の二人を監視する役が必要だった、リズはコッキーを怖れていたので不適任だ、それにベルに御者の経験が無い、馬の世話と馬車の修理で詳しくなったルディガーが御者をする事になった。
そこにアマンダが自分も行くといい出す、殿下の身辺から離れる訳にはいかないと。
ベルはアマンダが御者をするつもりだと考えた。
「ルディが隣に座るんだ狭すぎる」
ベルはふざけて言っただけだがその瞬間アマンダの貌が変わった、アマンダは私は貴女のお目付け役ですと言い放ったものだ。
ルディガーがそこで笑いながら、あの馬達と馬車を隅々まで知っているのは俺だけだ、俺が御者を務めると言った。
そこでベルとアマンダが仲良く並んで座る事になった。
ベルは知っている、世の人はアマンダを冷静沈着な理性的で有能な貴族の女性だと評価している、だが本当はいい加減で子供っぽくて意固地な処があった、そして本人は自覚も無いし認めやしない。
反対にいい加減で昼行灯と思われ勝ちなルディが空気を読む力に長け、おそろしく狡猾で何事も徹底的にやってしまう苛烈な面がある事も知っていた。
そしてアマンダは見かけ以上に側に居られるとより存在感を感じた、磁石に引き寄せられる砂鉄の様に彼女に吸い寄せられる不思議な錯覚に悩まされる。
そこに微妙な沈黙に耐えられなくなったかリズが声をかけてきた。
「今どこらへんなんだろ?」
ベルは横を向いてアマンダに声をかけた。
「アマンダどこにいるかわかる?」
アマンダが無言で白いローブの下から何かの帳面を取り出してそれを広げる、ベルは好奇心から覗き込んだ、地図のように線と記号が書き込まれ注釈が一面に追加されていた。
いつのまにかリズとマティアスも地図を覗き込んでいた。
「それハイネの地図なの?」
「そうよ、テレーゼの地図が他に無かったの」
アマンダはしばらく地図を覗き込んでいたがやがて顔を上げてリズを真っ直ぐに見る、ベルは僅かにリズが慄くのを感じた。
「もうすぐハイネ=ヘムズビー街道に出るわ、ここから道が良くなります、街道を越えて一日で国境に到着するわ」
「その通りだ、もうすぐ大街道を越えそのまま北に向かうぞ」
すると馬車の御者台からルディの声が聞こえてきた、この男は馬車の中の会話に聞き耳を立てていたのだ。