逃走
闇深き夜の森を巨大な骸骨が走り抜けて行く。
背の高さが三メートルを越える巨大な骸骨は大きな荷物を両腕で抱えていた、その荷物の上に黒いローブの魔術師の男が乗っていた、ローブの魔術師は死靈のダンスのマスターのメドジェフだ。
「もう走れませんマスター」
背後から情けない声が聞こえてくる、メドジェフは背後を睨ん喚いた。
「愚か者!止るな走れ!!」
骸骨の後ろからよろめきながら走る若い魔術師がいた、転びそうになりながら彼は泣き言を連ねた。
「僕も乗せてくださいよ~」
若い魔術師はもう息も絶え絶えで今にも泣き出しそうだ。
「馬鹿め、ワシと荷物でいっぱいじゃ」
メドジェフの言う通り巨人の骸骨はメドジェフと彼の荷物を大きな腕いっぱいに抱えている。
遠くから無数の雷鳴の音が轟いた、メドジェフは不安げに背後の西の夜空を一瞥した、雲は地上からの光に照らされ白く輝く、だが森の樹々が邪魔でその向こう側で何が起きているのかまったくわからない、だが刻々と膨れ上がる異常な力を感じたメドジェフは舌打ちを打った。
「ええい、お前が昇級しておらんから苦しむのだ、死にたくなければ走らんか!」
大柄な骸骨は焦るメドジェフの意思に感応したのか一段と速度を上げた、しだいに若い魔術師は後ろに取り残されて行く。
「マスター待ってください~」
若い魔術師は悲鳴をあげながら必死に巨人の骸骨を追ってくる。
その時び事だった、背後で異常な何かが生まれた、ざわめく気の乱れをメドジェフは感じる、その瞬間それは巨大な爆発を起こす、巨人の骸骨は主人の無意識の命令に応えて更に速度を上げた、しだいに若い魔術師がマスターを呼ぶ声が遠くなる、だが彼を顧みる余裕は無い、背後から恐るべき速度で迫る高密度の力の壁を感じた。
「だめじゃあ!!」
メトジェフは背後から迫る異界の力が形作る光の壁を振り返った、もう逃げることは不可能だ絶望のあまり叫ぶ、その直後に総べたが淡い薄緑の光に包まれる、骸骨が朝日を浴びた霜の様に光の中で溶けて行った、だが予想に反して熱さも苦痛も感じない、春の穏やかな日差しの中で微睡む様に意識が遠いて行った。
こんなところで死ぬのか?メトジェフの胸に怒りと後悔が僅かに頭をもたげる、それすら光の中にかき消えて平穏の微睡みの中にすべて溶けて行く。
夜の森の樹々の上を黒い影が横切る、その影の主は小さな翼竜の姿に似ていた、漆黒の体と細い首の先にトカゲの頭、真紅の目が二つ鈍く輝く、コウモリに似た翼の端に大きな三本のカギ爪の鋭い爪が白く光る、背後に蛇の様な細い長い尾を後ろに引いていた。
その翼竜の背に二人の人影が必死にしがみついている。
翼竜は乗馬の様な装具を身に着けてはいない、二人は必死に振り落とされないように翼竜にへばり着いていた、翼竜は巨大な異界の混沌の過流から遠ざかろうとしていた、背後の巨大な輝きが森を照らしだす。
「所長、力が高まっています!」
翼竜の背中に必死にしがみついていたヨーナス=オスカーは背後の巨大な異界の力の嵐を振り返った、若く大柄な魔術師は一見すると魔術師に見えない、まるで戦士の様に頑強な大男だ、普段から皮肉屋でどこか人を小馬鹿にした様な男だが、彼の余裕は影を潜め端正な顔を歪めている。
「わかっている、狼狽えるな」
若い魔術師に苛ついた声で答えたのはスーツの上から魔術師のローブを羽織った男だ、この男はセザール=バシュレ記念魔術研究所の所長バルタザールだ。
魔界の召喚精霊である翼竜の制御は精神の集中を要する、部下の狼狽に苛つきを隠せない。
そして背後の混沌の過流は時間とともに強くなって行った、魔術師達は巨大な異界の混沌の力を感じていた、想像を絶する異常事態が発生している事だけは彼らには簡単に理解できる。
そしてついにそれは限界に達した。
異界の混沌が爆発を起こし力の波動が通り過ぎた、翼竜が怯え大きな翼をはためかせたので魔術師達は必死に翼竜に捕まる。
遅れて背後から薄緑の光の壁が迫る。
「手を離すな、下げるぞ」
バルタザールが叫んだ、翼竜は急激に高度を下げ翼竜の翼が森の樹々の頂きを激しく叩いた。
ヨーナス=オスカーが何か喚いたが騒音に紛れて何を言っているのか解らない。
その直後に光の壁が通り過ぎる、すべてが淡い薄緑の光に包まれ、春の穏やかな日差しの様な光に総て溶けて消えて行った。
その夜の異変はテレーゼ東北部の各地で目撃された、自治都市ハイネからも目撃され、遠雷の様な轟は町の人々の眠りを防ぐ、目覚めた人々は先日の夜の大爆発を思い出しながら慌てて家の外に出た、ハイネの南の空が白く染まり何度も不気味な轟音が轟くのを不安げに眺める事しかできなかった。
そして最後に薄緑の光のベールが天に揺らめいて消える。
光と音はテレーゼに集結しつつある諸国の軍の眠りを妨げ、兵士達は神々の祝福だと感じ、ある者は己の未来に不吉な予感を感じたと、今日まで言い伝えられている。