天空に開く奈落への扉
「所長、俺の龍がやられました」
濃霧に包まれたヨーナスの言葉が震えていた、彼らが魔氷の嵐に耐えている間に死竜スヴェトラゴルスクが黒い長剣の男に倒されてしまった、白い霧の向こう側で巨大な黒い影が崩壊して行く、前に闘った時よりあの男の力が強くなっていた。
「セザール様の傀儡人形はアイツにやられたのですか?」
所長と呼びかけられた男は壮年の鋭い目つきの魔術師だ、上等なスーツを着込みその上に黒い魔術師のローブを纏っている。
その理知的で鋭い目つきと頬に刻まれた古い傷が印象的な男だ、長い髪を後ろで束ねている。
その手に鈍く鉛色に光るステッキのような金属製の棒を握りしめる、この男こそ『セザール=バシュレ記念魔術研究所』の所長バルタザール=フォン・デル・アストその人だった。
「殺られた様だな、たいして抑えにならなかった」
バルタザールの言葉からあからさまな落胆が伝わってくる、魔導師の塔が人為的に作った兵器があっけなくあの男に倒されてしまったからだ。
奴を倒せないまでももっと時間をかせいでくれると期待していたのだ。
「俺の夜の徘徊者が奴を抑える間にいそげ」
バルタザールがヨーナスを叱咤する、霧の向こう側の暗い森が蜃気楼の様にゆらぐ、やがて人の影の形をした何かが霧の向こうに走り去る。
ヨーナスは再び魔術術式の構築を急いだ、その間にバルタザールが壊滅させられた骸骨の戦士達を次々と呼びして周囲を警戒させる。
骸骨の戦士達は脆弱だが弾除けになる上に命ある者に敏感に反応する、死霊術師にとって非常に使い勝手の良い駒だった。
そしてヨーナスの魔術術式がついに完成し詠唱が終わる。
「『ラーバルの堕落せり真鍮人形』」
彼の叫びが終わると、地を割るように黒い針金を編んだ様な姿の不気味な人形が立ち上がった、四本の手に二本の剣と盾を装備していた、しかし真鍮とは名ばかりでその針金は黒光りして輝いている。
ヨーナスの息が上がっていたかなりの魔力を消費した。
「魔力の残りは?」
バルタザールの言葉にヨーナスに対する気遣いは無い、だが特に責める様子も軽侮の色も無かった、ただ状況を把握しようとしている。
ヨーナスはそれが却って恐ろしかった、自分は上位魔術師に格上げされてからまだ日が経っていなかかった、ここで見限られたのでは未来はない。
そして所長が上位魔術を三度以上使用しているのに、平然としている事に内心舌を巻いていた。
「上位ならあと一回です、すみません」
「わかったそいつも行かせろ、おれは魔術陣地のあぶり出しをする」
「わかりました所長」
漆黒の真鍮人形が黒い剣の男の命の光を目印に濃霧の中に進む、やがて霧のなかにその姿が消えていった。
ヨーナスはローブの下に手を入れた、冷たい金属の筒に指先が触れる、両手に金属製の小さな棒をしっかりと握りしめていた。
バルタザールはそれを見やってから手にしたステッキを地面に突き刺した。
そのステッキから大きな力が解放されるのを感じる、もしルディ達がこの場にいたならばそれが死霊術の瘴気でない事に気づいた事だろう。
アゼルやホンザならばそれが土精霊術の魔術結界を破壊する為の道具だと見抜くに違いない、精霊力の波動が僅かにずれた世界全体に浸透しながら魔術結界を揺さぶる。
「なんだ?」
突然バルタザールの様子が変わった、彼の声は緊迫していたがそこに混乱を感じヨーナスもつられて動揺してしまった、冷徹な所長が動揺する事などめったに無い。
そして頭上に恐るべき魔界の力が集結しようとしている、慌てて夜空を見上げた。
そこに巨大な瘴気の輪が浮かんでいた、闇妖精の眷属達が先程まで輪を描いて飛んでいたあたりだ、その瘴気の輪の中心に巨大な虚無が口を開こうとしている。
それはヨーナスが知っている上位死霊術の魔力量を遥かに凌駕していた。
それをただ唖然として見上げるしか無かった。
「フリッツさんご無事ですか?」
先程の爆発で馬車が傾きフリッツは崩れた荷物の下敷きになっていた、もっと若ければ回避できたかもしれないと思うと苦笑した、上体を起すと頭が固い布にぶつかる。
暗くて何も見えないが外から戦いの喧騒が伝わって来る。
フリッツはその言葉に答えた。
「おい今のは何だ?」
「ご無事でしたか、また二度目の雹の攻撃を受けました、おいこっちだ力をかせ!!」
幌馬車の外に人が集まる気配を感じた、彼らはフリッツの救出を始めた様だ。
「積み荷は無事か?」
「一台放火され燃えています」
「なんだと、速く俺をだせ、敵はどうなっている?」
フリッツは状況を把握しようとしたが部下の話はまったく要領を得ない、何が起きているのか彼らにも解ってはいなかった。
やがて馬車の幌が取り除かれやっとフリッツは解放された、素早く周囲に眼を配るとそこに激しく打ちのめされた輸送隊の姿がある。
そして背後の幌馬車が火を吐き出し炎上していた。
「なんて事だ」
「気をつけろ!馬車の積み荷が燃えているぞ、煙を吸うな!!」
後方から叱咤の声が聞こえてきた、ソムニの樹脂が燃えるときわめて危険なガスが生まれる、幸いにも風向きは南から北に向かって流れていた。
しかし馬車一台分のソムニの樹脂の売値を考えると乾いた笑いが出てきた、魔術師達が消化に努めているようだが。
隊列を見回した、他の護衛達が死んだか逃げたかわからない、馬車や氷の下敷きになった者もいるかもしれなかった。
そして隊列の前方左側の森の中で凄まじい戦いが起きている、魔術に感性の無いフリッツでも何か巨大な力が集まっているのを肌で感じる事ができる、そして遠く右側の森の中でも何かが起きていた。
だが隊列の後ろに長い髪の女が現れたはずだが、今は妙に静かになっていた。
「おいいたぞ」
護衛の声でフリッツは思考から呼び戻された、同じ馬車に乗っていた魔術師が救出されたようだ、だが薄情な事に魔術師の事をすっかり忘れていた。
助け出された魔術師がフリッツに何か言おうとして顔が変わる、唖然とした顔で空を見上げている。
フリッツも思い切って夜空を見上げた、そこに巨大な瘴気の輪が浮かんでいる、その輪の中心に巨大な虚無が口を開こうとしていた。
フリッツは何が起きているのか理解できなかった、そして耐え難い怖れと怒りを感じた、友と呼べる男と力を合わせハイネの裏世界で這い登ってきた、どんなに汚れていようとそこには確かな現実があったのだ、だがこれは何だ非現実的な力を前にして無力だ。
今までの俺の人生は何だった?
ただ歯を噛み締め夜の空を見上げていた。
そうだ奴らとかかわってからだ、銀色をした化け物、あの黒い長い髪の女、そして黒い剣の男と関わってからだ。
そして思い直す、いやもっと昔からだよあの真紅の淑女と出会った時からだ。
フリッツは凄まじい笑みを浮かべて夜の空を見上げていた。