エイベル会頭の困惑
ハイネの旧市街の南西区の一角に大商会の倉庫と工場が集まっている、戦火が近づくにつれ工場の吐き出す煙は街の空を灰色に染め、西の空は新市街の炭鉱と製鉄所から黒い煙が幾筋も立ち上り美しいテレーゼの青い空を黒く染めあげる。
活気に満ちたハイネの旧市街は迫り来る戦火に負われ日々緊張が高まり、市内に運び込まれる物資を積んだ荷車と、逆に街から出ていく空荷と戦火を逃れ疎開して行く者達で渋滞を起こしていた、不急不要な人間が街から出ていく事はハイネにとっても歓迎なのでそれを止める者はいなかった。
その南西地区の一角にテレーゼ有数の大商会ジンバーの本店が広大な敷地を構えていた、敷地の内部に倉庫が幾棟も連なり商会中枢の本館と会頭エイベルの私邸も立ち並んでいる。
ジンバー商会は会頭のエイベルの彼の父と兄が興し育て上げテレーゼの裏世界にまで深く浸透している、そして運送業から始まったジンバー商会は広く商売を広げていた。
盗賊や野盗の押さえと護衛の傭兵団などとの繋がりから裏世界とのコネクションを持ち、そんなジンバー商会の目覚ましい興隆を影から支援していたのがエスタニア有数の巨大犯罪組織コステロ商会であるとささやかれていた。
そしていつの頃からかテレーゼ最大の暗部と言われるソムニの花の栽培と樹脂の加工を仕切るようになっていたのだ、ソムニの樹脂はコステロ商会の流通網を通じ全世界に流れされる。
そのジンバー商会会頭室の執務机の前で気難しげに決済を急ぐ壮年の男がいる、彼こそジンバー商会トップに君臨するエイベル=ジンバーその人だった。
戦火が近づく状況で商会の利益を護るために手を打たなければならなかった、懸案が山積みとなっていたからだ。
そんな喧騒に満ちた会頭室に急報が飛び込んできた。
それは先日から行方不明になっていたマティアスが発見されたと言う知らせだった、エイベルは仕事の手を休めて記憶を整理しなければならなかった。
思い出したのは女死霊術師と世話役の男が行方不明になっていた事件だ、グディムカル帝国の侵攻への対応ですっかり忘れていた。
あの男は西の新市街の無法者組織『赤髭団』とのつなぎ役を務めていたと聞いている、女死霊術師のリズの担当にしたのは死霊術師ギルド『死霊のダンス』にも顔が売れていたからだ、その男が驚くべき事にコステロ商会別邸の主人『真紅の淑女』に救出され馬車で送り届けられたと言うのだから。
職員の伝言を受けたエイベル会頭は舌打ちをした。
「馬車はもう帰ってしまったのか?」
執事長のフリッツが頷いた。
「はい、引き止めましたが帰ってしまったようです」
「くそ、しょうがない奴と話をしたい、とにかくここに連れてきてくれ、そうだ人払いを」
フリッツは若い男を呼びつけ命を下す、そして会頭室から関係の無い者を総て追い出してしまった。
しばらくすると先程の職員とマティアスが会頭室にやってきた。
エイベルはどう切り出そうか悩んでいた。
「まあ話が長くなる、お前はそこに座れ」
エイベルは豪華な接客用のソファを指さした、マティアスは戸惑って居たが大人しくそこに座った、エイベルも重い腰をあげて彼の向かい側に座る。
そしてフィッツも最後に会頭の横に座る。
「なぜ『真紅の淑女』様に救出される事になった、あの女魔術師はどうなった、とりあえず初めから順を負って話せ、あとこの話は誰にも話してはならんいいな?」
エイベルの質問にもマティアスはどこか心ここにあらずな様子だったが、少し考えてからうなずいた。
「わかりました会頭、他の者には話しません」
マティアスの話から、行方不明になったリズの行方を探していたところ偶然あの似顔絵の連中を発見、彼らがセナ村の屋敷に戻っていた事を語る、エイベルはこの報告に驚愕した、まさか同じ屋敷に堂々と戻っているとは思いつかない。
エイベルが思わずフリッツを見ると彼も驚いていた、前にあの屋敷を攻略した事があるがその時現場で仕切っていたのがこの執事長だ。
だがその続きを知ると更に驚いた、何時の間にか地精霊術師が合流し魔術陣地を築いていたと言うのだ、だがエイベルは魔術に詳しくは無かった。
「私も詳しくはありませんが魔術結界の一種です、ずれた世界に結界を作る術ですよ会頭」
エイベルの困惑を察したフリッツがそう補足した。
「わかった魔術陣地の話は今はいい、でその中に例の奴らがいたのだな?」
「そうですエイベルさん、リズも囚われていました、自宅で寝ている所を襲われ誘拐されたそうです」
フリッツの話にうなずいていたマティアスがエイベルに向き直った。
「そうか・・・先を続けろ」
マティアスは屋敷の二階の物置にリズと一緒に閉じ込められていた事、彼らとの交渉がほとんどなかった事を話した。
食事を与えられ虐待されたわけではなかったが、閉じ込められていたため退屈で閉口したと言う。
「お前はリズと同じ部屋に閉じ込められていたのか?」
フリッツが疑問を口にした、少し答えにくそうにマティアスはそれを認めた。
「そうですフリッツさん、リズは死霊術に関して調べられていました、時々外に連れ出されていましたよ、奴らの状況は彼女から聞いたことが総てです」
「何か奴らに関して聞いているか?」
「上位の地精霊術師の名前はホンザ=メトジェイだそうです」
「なんとメトジェイ一族か、だがその名前聞いた事がある・・・思い出せん」
「会頭、先日メドジェフにセザールから抹殺命令が出た相手がホンザだ」
フリッツが幾分興奮して叫んだ。
「あの件だな!!赤髭団のチンピラと死霊術師が殺られた件か!!そいつは行方不明になっていたが奴らと合流していたのか」
エイベルは苦い結果に終わった事件を思い出した、マティアスとリズがあの似顔絵の奴らに拉致され、帰還した二人にここで事情を聞いた事を思い出した。
「さては、お前たちはあの時から奴らに目を付けられていたな?」
マティアスもそれに気がついたのか顔が変わる。
「たしかに、あれでリズに目を付けたのかもしれないな」
事実はもっと以前からベルに目を付けられていたが、当たらずとも遠からずだ。
「あと言いにくいのですが、日に焼けた大男のペンダントが魔術道具でアマリア様と会話ができると言ってました」
「誰だアマリアとは・・まて『偉大なる精霊魔女アマリア』だと言うんじゃないだろうな!」
「そのアマリアだと思いますが、俺には確かめようがないです」
フリッツは疲れた様に顔を横に振った。
「骨董無形と笑い飛ばせたらいっそ楽だな」
フリッツは考え込んでいたが面を上げた。
「エイベル、セザールはアマリアの弟子だった男だ、アマリアは消息不明だが老化の速度が異常に遅いのは知られていた、今も生きていても不思議ではない」
フリッツは昔の癖が出て会頭を呼び捨てにする事がある、彼はジンバー商会最古参の幹部でエイベルの父兄を支えてきた男だ。
「これはあの女から聞くしか無いか、まあいい話を続けろ、なぜ『真紅の淑女』様に助け出される事になった?」
そこで驚くべき話を聞かされる事になった、似顔絵の化け物共がリズを伴いコステロ商会の別邸に攻撃を仕掛けに向かったと言う、エイベルは闇妖精が陽の光に弱いとは言え無謀の極地だと思った。
「そうだった、奴らも化け物だったな・・・それでどうなった?」
エイベルはそう呟くと呻くしかなかった。
「わかりません、奴らと入れ違いで魔術陣地がその『真紅の淑女』様に破壊されたみたいです、俺にはその仕組はわかりません、奴らが屋敷の中に入り込んできて俺は倉庫から出ることができました」
そこでマティアスは思い出すように身震いする。
「その後彼女に尋問されましたよ、彼女は奴らの攻撃を知らなかったので入れ違いになったようです、俺は気づいた時には気を失っていました、目が覚めた時には馬車の中でした」
「わざわざ馬車で?」
「そうです彼女達は馬車で来ていました」
「達だと?」
「ええ御者と高級使用人と魔術師がいました地精霊術師のようです」
「続けろ」
「そのまま北の別邸に着きましたが、お嬢様が不在と言われてこっちに送り届けられました」
エイベルはまだ全貌が理解しきれない、別邸の反応から『真紅の淑女』様に何かあったのかもしれなかった。
この多忙な時にと忌々しくも感じたが、コステロ会長の『真紅の淑女』様への入れ込みは特別だった、彼女は二十年にわたりコステロ商会に恐るべき力と知識を与えてきたと噂される大幹部だ。
長い間完全に影に隠れていたが最近は徐々にその姿を現すようになったと言われている。
「お前には悪いがしばらく身柄をあずからせてもらうぞ、そう心配するな組織を裏切ったわけじゃないからな」
エイベルはこの件に関して箝口令を敷く事に決めた、人払いをすましこの話を知っているのはここにいる者達だけだ。
エイベルが柱時計を見ると始めてから一時間以上経っていた。
フリッツにしばらくマティアスを軟禁するように命じる、執事長が外で待機していた事務員を呼びつけマティアスを連行させた。
「奴の話は信用できるか?」
エイベルの質問に執事長は困惑したがこう返した。
「作り話だとしたらかえって骨董無形すぎますな」
それにエイベルは納得するしかなかった、作り話ならもう少しもっともらしい話にする、精霊魔女アマリアの名前など出すわけがなかった。
そこに部屋の外が騒がしくなる、それはコステロ商会からの伝令の来訪を告げた、コステロファミリー臨時幹部会議の招集命令だった。
「ソムニの移送の準備はお前に任せた、たのんだぞ」
「会頭、今日中に準備を終える予定だ」
それを聞いたエイベルは居心地の良いソファーからゆっくりと腰を上げた。