トランペットと死者の軟膏
ハイネの旧市街の北側の水堀を越えた先に美しい深緑の丘陵地帯が広がっている、その地域一体がハイネの富裕層の別荘地になっていた。
そして混乱のテレーゼでもハイネの周辺は非常に治安が良い、この地域に豪華な邸宅が集まりハイネの繁栄をあらわにしている。
その丘の谷間の細い道を奇妙な一行が北に進んでいた。
魔術師らしき男性が二人、痩せた黒ずくめの女魔術師、美しい少女と大人びた若い女性と大柄で逞しい男性が一人、最後に薄汚れた白いローブを纏った背の高い人物が進む、その怪人物はフードを深く被りその素顔は見えなかった。
やがてそのあたりで一番高い丘の斜面に続く道を登り始める。
「あのお屋敷に闇妖精がいるのね?ベル」
最後尾を進む白いローブの怪人物が発した言葉は落ち着いた女性の美声だ、ベルが後ろを振り返って彼女の疑問に答える。
「あいつはあそこにいるはずだ」
コッキーも黄金のトレンペットを手で弄びながら賛同する。
「わたしもそんな気がするのですよベルさん」
その奇妙な集団はいよいよコステロ商会別邸の赤いレンガの建物に近づいて行く。
「今、誰かが窓から覗いた・・・」
ベルが足を止めて警告を発した、彼女の指先が館の二階のバルコニーを指す、そこは大きなガラス張りの大きな窓になっていた。
みな足を止めてそこを見つめたが人影を見出す事ができなかった。
「誰もいないのですよ、本当にいたのです?」
「僕には見えた、白い服を着ていた」
また皆の視線が館に注がれた。
「へんだねえ、死霊術の防護結界が無いねー」
その言葉はイヤイヤながらここまで連れて来られたリズの声だ。
「リズさん、死霊術の防護結界は目立ち過ぎます」
アゼルのリズに対する態度がずいぶんと柔らかくなっていた、貴重な知識を与えてくれたからだろうか、そんなアゼルの突っ込みにリズはヘラヘラと笑う。
「あっ、そうだよねへへ」
「このオバサン大丈夫なのです?」
コッキーがリズをじとりと睨むんだ、リズがあからさまに震え上がる、それを見たコッキーの目が更に厳しくなった。
『さて、どこまで近づく必要があるのじゃリズよ』
幼いアマリアの声が聞こえる、ルディのペンダントがふたたび話し始めた、今度は皆の視線がルディに集まった。
「魔術陣地の探知術は魔術陣地が作られたこちらの世界で対応する場所に近づく必要があるのさ」
『地精霊術とおなじじゃな』
「うんアマリア様、魔術陣地は無駄の無い大きさでつくるからねぇ、たいがい近づかなきゃわからないのさ、こちらの世界の影と実体の間には縁がある、それを手がかりに魔術陣地を探るんだ」
やがて彼らは館の敷地に入っていく、館は丘の頂上にあるので周囲の景色を一望できた。
南側を見るとハイネの旧市街を見下ろす事ができる、王城と巨大な四本の尖塔が水堀に影を落としていた。
丘の周囲にいくつもなだらかな丘が連なり、頂上や斜面に木々に埋もれるようにいくつも邸宅の屋根を見ることができた。
こんな状況じゃなければピクニックを楽しめたかもしれない。
「始めるよ・・この術を使うと術者にバレると思うけど、本当にいいんだね?」
「やってくれリズ、今は昼間だ出てきたらこちらの思う壺だ、決着を着けてやるぞ」
ルディは太陽を指差してから背中の大剣を引き抜いた『無名の魔剣』の漆黒の刀身は光をまったく反射せずそこだけ夜の闇の様に見えた。
ベルもアマリアから貰った精霊変性物質の剣を鞘から引き抜く、彼女の愛剣グラディウスはセナの屋敷でお留守番だ。
コッキーは左手に精霊変性物質の棍棒を握りしめ右手でトランペットを掴んでいた。
この三人だけでも破格の強さだが、聖霊拳の上達者のアマンダと二人の熟達の上位精霊術師までいるのだ。
ルディが注意を呼びかけた。
「みんな油断するなよ」
「じゃあはじめるよ」
リズが魔術術式の構築を始めると不快な力の波動が広がる、特に幽界の精霊力に通じた者達は不快に感じられた、アマンダがフードを払うと彼女の顔があらわになった、そして彼女も顔を顰めていた。
「よし『魔界の庵を尋ねる者よ』その名はウォルター」
リズの詠唱が終わると力が遠い世界に消えて行くのを皆が感じた、そしてしばらく誰も言葉を発する者はいない。
リズはまったく動くことも無く彫像の様に立ち呆けている。
「リズ?」
この中で一番彼女と親しくなったベルがついに耐え切れずに声をかけた。
「信じられない、とても深い領域に魔術陣地の影があるんだ、意識して探さないと見逃してしまうよ、ここまで沈めるのにどれだけ大きな力が必要になるんだろ」
リズは振り払うように頭を振った。
『深さの自乗に比例して大きな力が必要になると聞いた事があるのう』
「その通りですアマリア様」
それは老魔術師ホンザだった、彼は上位の地精霊術師で魔術陣地のエキスパートでもある。
「ここに奴らがいる事はわかりましたが、やはり」
アゼルはそうつぶやくとコッキーを見詰める、同時にホンザもコッキーを見た。
「あの、皆さんやっぱりこれです?」
コッキーは当惑しながらも黄金のトランペットを皆に見えるようにかかげる、そして全員を見返した。
「コッキーよ、そのトランペットの力が我の魔術陣地に干渉するのはわかっておる、闇妖精の魔術陣地にも干渉できる可能性は高い」
ホンザの言葉には重みがある。
「これだけの戦力が集まったのだ、そして絶好の時間だ、ここでなんとか決着をつけたい、そして次は死の結界を破壊する方法を探るのだ」
そしてルディは魔剣の柄を握りしめながらコッキーの目を正面から見据えた。
『リズでは闇妖精の魔術陣地は壊せぬ』
「でも結界が見えないのですよ、下にあるのです?」
コッキーは地面を指さした、その疑問に答えたのはリズだ。
「この世の上下とは関係ないけど、魔界は下方のイメージでいいのさ、魂が落ちる場所だからね、死霊術の魔術陣地は魔界とこの世の隙間に作られるのさ」
「わかりました、試しに届くかやってみます、何となく出来そうな気がするのですよ・・・ラッパができるとささやくのです」
コッキーはトランペットに口をつけると地面に向けた、そして不規則に音を鳴らし始める。
この場にいた者はそれがただの音ではなく、それぞれ性質の違う力の波動を帯びている事に気づく、純粋な精霊力の波が放たれどこかに消えていく、そしてその力は変化を始めた、皆その中の音階に瘴気に似た力を感じ刮目する、トランペットの音は狂気の様に乱雑に変化を始めた、あらゆる種類の波動を多層世界に撒き散らし始めた。
みな顔を顰めてその波動に耐える、アマンダだけは正常心を保っていた。
「うわーーー」
最初にベルが耐えきれなくなった、叫びながら頭を抱えて逃げ出した、彼女の鋭敏な感覚が仇になったのだろうか、悶えながら草地の上を転がる。
だが誰も助けに行こうとしない、コッキーの狂気の演奏に呪縛されていた、その演奏が突然止まる。
「見つけたのです」
面を上げたコッキーの瞳は黄金色に輝いている、アマンダが息を飲む音が聞こえる。
「全力でやって見ます!みなさん離れてください」
コッキーの演奏がまた始まる、階段を昇って行く様に音階が上がりやがて人の耳に聞こえなくなった、瘴気にも似た力の波動が更に高まる、やがてそれが下がり始めた、変化の速度が加速しすぐに音が聞こえなくなった、だが波長が更に下って行くのをみな感じていた、そしてある音程でそれは突然停止する。
皆これから何かが始まると感じてさらにコッキーから離れた、アマンダが草地で半分気を失っていたベルをお姫様の様に抱いて避難を始めた。
精霊力がコッキーに収束しはじめる、コッキーの両足から際限なく精霊力が登り彼女の体内で渦を巻いた、精霊力を視認する事ができる者は光の蛇が彼女の背骨に螺旋を描きながら昇って行くのを感じる事ができた。
その力は高まり周囲の大気が熱を帯びオーロラの様な光に包まれた。
『なんじゃこりゃ?』
アマリアの呆れた叫びが聞こえた直後にそれは爆発した。
黄金のトランペットの口から無数の波長を重ねた収束した力の柱が生まれた、この世では無い世界に向けて放たれる、その音無き爆発により生じた力の槍は、この館の存在する多層世界を貫きながら闇妖精が築いた難攻不落の魔術陣地に激突し干渉する。
魔術陣地がやがて束縛から解放され浮上を始めた、コステロ商会別邸が現実世界に向かって浮上を開始した。
コッキーがよろめき片膝を地につける、アゼルが慌てて彼女にかけよった。
「コッキー大丈夫ですか?」
「アゼルさん大丈夫なのです」
薄く笑ってからうつむいた。
「何かしら?不浄な何かが南のほうから近づいてくる、ベル起きなさい!!」
それはアマンダの警告だった、頬を叩かれて目を覚ましたベルが剣を拾うと立ち上がる。
みな丘の南の斜面に注目している、何者かが昇って来ると思ったからだ。
「いや空だ!」
ホンザの警告にみな空を見上げた、蒼い空を背景に白い芥子粒のような何かがこちらに向かってくる。
「アイツだ!!」
ベルの警告で全員戦闘体制に入った、アイツとは闇妖精の事に違いない、だがこの昼間になぜ空を悠々と飛んで来るのだろうか?
「皆さん、お屋敷が戻ってきました!」
続いてコッキーの叫び声が聞こえる、背後の屋敷が陽炎の様に揺らめいている、やがてゆらめきは消えた、一見すると何も変わらない様に見える、だがなぜか館が前より現実感が増したかの様な不思議な感覚に囚われた。
「あいつが来る、気をつけて!!」
ベルの叫びが皆の注意を館から引き剥がした。
ドロシーと侍女のポーラと小柄な魔術師の客人が館を出たところまで時は戻る、留守番を命じられた子供達は二階の居間から馬車の出発を見送る事になった。
その居間には何も無く小さな椅子が二つあるだけだ、窓の近くに三人の子供達がカーテンの隙間から外を覗いていた。
「眩しいわね、少し目が痒いわ」
エルマが目をこすりながら泣き言を言った。
「『死者の軟膏』が目に入ると痒くなるってさ」
ヨハンの言葉にエルマが驚いた。
「そんな話聞いてないわ、日の光で痒くなるのよ?」
「ドロシーが言っていたわ、私聞いていたもの」
マフダがカーテンの隙間を更に広げた。
「そんな事して大丈夫なの?マフダ」
「『死者の軟膏』を手に薄く塗ったのよ」
「とても高価だって聞いたけどいいのかしら?」
「床に落ちていたのをすくったのよ、もったいない」
「ええ・・」
「ドロシーが裸になってポーラに『死者の軟膏』すみずみまで塗らせたんだ、少し床にこぼれてたよ」
ヨハンが声をしかめて二人に教えてやる、するとエルマが急に怒り始めた。
「ヨハン見たのね?」
エルマがヨハン少年を睨みつける、小さな男の子は急に慌て始めた。
「見てないよ、ポーラから聞いたんだ」
「でも凄いわね、いくら女の娘同士だからって普通そんな事やらせるかしら?」
マフダの言葉には呆れた響きがあった、この三人の中で彼女が一番常識人だった、果たして人と呼べるのか知れた物では無いが。
「普通じゃないものドロシーって、大きな声じゃ言えないけど何考えているのか良くわからないの、頭が良くなったり、悪くなったり、月の満ち欠けでそうなるって言ってたけど」
エルマが可愛らしい頭を傾げながらささやいた。
「どういう意味かしら?エルマ」
「月が細くなると自分が遠くなるって言ってたわ」
「ますます解らないわね」
「ドロシーって自分勝手で気まぐれに生きているのよ、コステロさんも何も言わないのよ」
マフダの照り光る手を見ながらエルマはため息をつく、マフダはコステロさんの事をまだ良く知らなかったので少し小首を傾げただけだ。
「あっ馬車が動き出した」
ヨハンの言葉に二人の女の子達は窓際に駆け寄った、外の明るさに三人とも目を細める。
「いくらドロシーでも心配だわ」
エルマは坂を下っていく馬車をいつまでも見送っていた。
そして魔術陣地に戻った三人は居間でカードで遊び始めた、ゲームが白熱している間に時が経つのを忘れた。
「何かしら?」
エルマが突然周囲を見回し始めたのでマフダとヨハンが驚いた。
「エルマどうしたの?」
「誰かに見られた様な気がしたの、ヨハンはどう?」
「僕は何も」
すると部屋の隅に置いてある小さな棒付きベルが音を立てた。
「お屋敷の近くで誰かが魔術を使ったみたい、見に行きましょう」
三人は立ち上がると現実世界の館に跳ぶ、リーダーのエルマが窓に近づいて外を覗いてから窓際から慌てて飛び退く。
「いた、アイツラがいたわ!」
だがマフダとヨハンはアイツラの事を知らないのだ、半分泣きかけのエルマは震え始めた。
「大変だわ蛇女もいる、早く戻りましょうドロシーを呼ぶのよ!」
エルマに急かされ三人は部屋の扉に駆け込むと忽然と姿が消えた。
魔術陣地の居間に戻るとエルマは壁際の小さな化粧棚の上に置いてあった魔術道具を掴み、小さな突起を指で押した。
不自然な虫の鳴くような音が五回鳴った、マフダとヨハンはそれを不思議そうに見守る。
「使ったのは初めてだけど、これで何かが起きたってドロシーに伝わるのよ」
しばらく経つと屋敷が細かく振動を始めた、これにエルマもマフダもヨハンも慌て始めた。
「地震かしら?」
揺れは次第に大きくなり柱が軋み家具が激しい音を立てる。
「お屋敷が壊れるわ!」
エルマが叫んだ部屋の空気が陽炎の様に揺らめき虹色の光を放った。
「エルマなによこれ?」
その瞬間揺れが収まり静かになる、だが部屋の中が薄明るい、窓を見ると赤い月も星一つ無い夜空も見えない、まるで昼のように明るくカーテンを透かしてテレーゼの蒼い空が見えた。
「えっ?ここは外よ大変だわ!」
エルマが恐怖の叫びを上げた、その直後に大きな爆発音がするとガラス窓が大きな音を立てて揺れた。