深き夜の始まり(アウデンリート城)
ジムは真っ暗な嵐の海に飛び込んだ、近くを巨大な船が音もなく通過して行く、船を照らす灯りがしばらく嵐の海を照らしていたがしだいに暗くなって行く。
ジムは真っ暗な嵐の海に一人取り残された、荒れる高波に揉まれた、波が高くてどちらの方向に陸地があるのかもわからない。
空は分厚い黒雲に覆われ激しい風雨で何も見えなかった、ジムは自分が泳いだ経験が無かった事を思い出したが手遅れだ。
息をするのも難しい、息が苦しく次第に意識が遠ざかっていく、もうダメだと思ったその時。
「そこにいるよ」
遠くからラミラの声が聞こえた様な気がした、高波に揉まれて体が沈む、体が重かったこのまま静かな暗黒の海の底に消えていくんだと感じた、またどこからか声が聞こえてくる。
その瞬間強い力で腕が掴まれた。
「よし掴んだぞ、手伝ってくれラミラ」
その声に聞き覚えがあったそして意識が戻ってくる、リーダーのローワンの声だ。
「ローワンさん」
小舟が目の前に寄せていた。
「ジム船べりにつかまれ」
だが波が高くて簡単にはいかない、それでもなんとかジムが船べりに手をのばしてつかまる、ローワンの手がジムを腕を掴んで引き寄せた、ラミラは反対側の船べりで船のバランスをとっていた、船尾でバートが必死に舵をとっているのが目に映った。
そして無我夢中で小舟の中に転がりこんだ。
「あのデミトリーさんは?」
ローワンが顔を横に振るそして遥か沖を指差した。
「あれを見ろ」
沖の方に白く光り輝く何かが見えた、それは船の形をしている、白い優美な帆柱に白く輝く帆が風を受けていた、それは次第に遠ざかり見る間に小さくなって行く。
まさかあれがあの廃船なのか、ジムは言葉もなくそれを見送る事しかできなかった。
嵐は先程よりいくぶん収まりかけていた、いったいどのくらいあの船の中にいたのだろうか、ジムは船の底で見た光景が現実離れした悪い夢の様に思えた、夢が覚めればデミトリーの大きな背中がまた見えるような気がするのだ。
小舟はかろうじて遠くに見える岬の篝火を頼りに浜に向かって進んでいた。
「あんた大丈夫かい?」
暗がりの中からラミラの顔が目の前に迫る、彼女の顔はジムの事を心の底から心配しているように見えた、ふと若くして死んだ姉を思い出す、彼女がこの世の者とは思えないほど美しく感じられた。
「すみませんラミラさん、考え事をしてました」
ラミラの顔が苦渋に歪む、そして遠ざかっていく白い船を見つめた。
「さあ、みんなオールをとれ急ぐぞ」
ローワンの叱咤でジムもオールをつかんで漕ぐ、視界の中で異邦の漂着船は白い点となり嵐の闇の中に消えて行った。
豪華な重厚な調度品に囲まれたその一室は、洗練さよりも質実剛健さに重きを置いていた、テレーゼの洗練された瀟洒さに欠け、東エスタニア中央独特の重苦しい豪華さと、エルニアらしい素朴な荒々しさ、そこに西エスタニアの様式が僅かに混じっていた。
審美眼のある者が見たなら、それらがエルニア風の調度品だと看破した事だろう。
部屋の窓際で背の高い男がガラス窓越しに嵐で煙るアウデンリートの町並みを見下ろしていた、外から絹を裂くような風の悲鳴が聞こえてくる。
男は豪華な夜着を身に纏い金の酒盃を片手に掴んでいる、そして部屋の中を振り返った、その男の顔は夜目にも疲れどこか無気力そうに見えた。
男の顔はどこかルディガーに面影がにている、だがルディガーのような覇気も人柄の明朗さも感じられずどこか歪んだ暗い目をしていた。
この男こそセイクリッド=イスタリア=アウデンリートでエルニアの現大公だ、ルディガー=イスタリア=アウデンリートの父親でもある。
男が振り返った先の部屋の中央に大きな天蓋付きのベッドが鎮座していた、それも贅を尽くした一品で最高品質のマホガニー製だ。
天蓋ベッドのカーテンもこれもまた貴重品の絹で、西エスタニア北東部で産出される貴重な高級品だ、カーテンは締め切られていたが、薄い布地は淡い魔術道具の光を透かし、中の人影をカーテンに影絵の様に投げかけている。
その影の形が美しい肢体の裸の女性だと主張していた、よく見るとカーテンを透かして人肌が朧気に見える。
男はいや大公は酒盃をあおり中の酒を飲み干した。
それを壁に飾られたタスペトリーが総てを見下ろしていた、黒地に盾とそれに片手をかけた獅子が白で描かれた図案でエルニア公国の紋章だ。
大公はゆっくりとどこか夢見心地なおぼつかない足取りでベッドに近づくとカーテンに指をかける、その指が僅かに震えていた、すこし迷っていたが彼はカーテンを開く。
そこには美の化身がいた、滑らかな背中の肌は薄く日に焼けていたが、彼女の白銀の髪に良く映えた、彼女はベッドの上に座っていたが、分厚い敷布団に埋もれた尻の谷間が僅かに見える。
カーテンが開かれると同時に絹のシーツで上半身を隠して大公を振り返る、彼女は異邦の麗人その人だった。
漂着船から救出された美貌の女性は、名前が不明なので城の者達からそう呼ばれるようになっていた、その呼び名がいつの間にか定着していた。
彼女は嫋やかな微笑みを浮かべて大公の瞳をまっすぐに見詰める、開きかけた唇は艶めかしいだが言葉を発する事は無かった。
なぜこのような事になったのだろう、セイクリッド大公にも最低限の理性はあったはずだ、だが彼女の魅力にいつのまにか我を忘れた。
もし彼女が抵抗したらそこで理性を取り戻していたかもしれない、だが異邦の麗人はそれをしなかった。
セイクリッドが彼女の懇願するような目を見ているうちに、彼女を守ってやらねばと騎士道精神が働いた、今まで美しい花を手折っては捨ててきたセイクリッドらしからぬ感傷にかられたのだ。
初めての恋なのか普段の己なら鼻で笑ったに違いない。
「辛かろう、寂しかろう?だが余がお前を守ってやろうぞ」
にやけた顔でセイクリッドがベッドに上がる、異邦の麗人もすがるように大公に抱きついた、それをセイクリッドは抱きしめる、大公の首筋から異邦の麗人のエキゾチックな美貌が現れた、だが彼女の瞳は何の感情の欠片すら感じさせなかった、怒りや嫌悪ならまだましだったかもしれない、そこには虚無しか無かった。
もしセイクリッドが異邦の麗人の瞳を見たら、叫び声を上げて彼女を突き離したかもしれない。
だがそんな彼女の瞳に突然光が戻った、そして全身を震わせた。
「どうかしたか?」
セイクリッドの問いかけに異邦の麗人は答えない、すこし大公から身を離すと壁を見つめた、それは東の方角だった。
そして彼女の口から低い言葉が漏れた、だがそれはエルニアのどの言葉とも違っている、だがセイクリッドにそれは解らない。
「今何と言った?お前は話すことができるのか?」
異邦の麗人はそこで淋しげな笑みを浮かべると大公にふたたび抱きつく、大公は彼女の首筋に唇を這わせた、そこで魔術道具の灯りが消える。
部屋の中が暗くなると外の風の音と窓を叩く雨の音が部屋を支配した、そして窓の外が雷光できらめく、しばらくして遠雷の音が轟くと闇の中から聞こえてくる音を塗りつぶした。
小舟の船底が擦れるような音を立てる、更に高波に押し上げられ鈍い音を立てて舳先が砂に食い込んだ。
「みんな船から降りて離れるぞ」
ローワンの命令で小舟の舳先から急いで浜辺に飛び降りた、嵐の山は越えた様だがいまだ激しい雨に横殴りに叩かれる。
「小屋はどっちでしょうローワンさん」
「ここは・・・こっちだ」
彼らは近くの小屋に着替えと雨具を用意してある、そこで休息をとり身なりを整え街に戻る予定だ。
四人は浜辺の林の中に入って行った、だがみんなその足取りは重い誰も口を開こうとしない。
疲労のせいもあったが失われた仲間の事が彼らに重くのしかかっていた。
「死んだと決まったわけじゃないさ」
ラミラの小さな呟きが聞こえた様な気がした、それは吹きすさぶ風の音に紛れてはっきりとは聞こえなかった。