セクサドル帝国の残照
セクサドルとテレーゼの国境を成すラングセル山地の谷間を蛇のように縫う街道を大軍が進軍していく。
その軍団の飾る軍旗は向かい合う二頭の獅子の紋章だ。
その軍旗を知らない者はこの世界にはいなかった、セクサドル帝国の大帝アルヴィーンは獅子の軍旗をなびかせながら東エスタニアを統一し大帝国を築き上げたのだ。
その軍旗と軍団が消えさってから一世紀を経た、だがその獅子の軍旗は憧憬と畏怖と憎悪の感情を未だに多くの人々の心に掻き立てる。
現在のセクサドル王国は帝国の正統後継者を名乗っていた、だが傍流も傍流の流れで帝国の宗家の流れは後継者戦争と帝国崩壊と共にほとんどが滅び去っている、むしろ二百年前に枝分かれしたエルニア大公家が正統に一番近いとさえ言われているのだ。
セクサドル王国はテレーゼ併合前の領域まで縮小、周囲を大国にかこまれた冴えない国に落ちぶれている、その後は英主も英雄も生まれず周辺諸国とのパワーバランスにより際どい独立を守ってきた国だ。
そのセクサドルの獅子の軍旗が百年ぶりにテレーゼ国境を越えようとしていた。
その進軍する軍列の中央に華麗な軍装で身を固めた若者がいた、かれこそセクサドル王国テレーゼ派遣軍の名目上の総司令官、アウスグライヒ=ホーエンヴァルト王子だ、従軍経験もない若者だが政治的な成り行きで彼を総司令官に拝戴する事になったのだ、長年軍を指揮してきた経験豊富な王弟のカルマーン大公が病気療養中で出陣できず、甥のアウスグライヒ殿下を総司令官に立て、熟練の軍の長老ドビアーシュ将軍を実質的な司令官として脇を固めた。
だが殿下は歴史的なラングセル峠越えの快挙に高揚し、側近の若者たちと談笑にふけっていた。
その彼らの後ろに続くのは司令部要員で、さらに伝令騎兵の一団が付き従う。
意気揚々な殿下達を司令部付きの若手の将校たちは眉を顰めながら眺めていた、表向きは非礼にならぬように気を配っていたが。
殿下の側近達は権門出の若者が多く、逆に彼らは下級貴族の次男三男や豊かな平民出の若者が多いので、殿下と側近達を諌めるのがはばかられる立場だった、大貴族出のドビアーシュ将軍や上級指揮官以外に進言もままならない。
「聞いたかカメロ、今のセリフはテレーゼの奴らに聞かせたくないな」
若い将校が友人の若い司令部付きの軍務官僚に目をやった、殿下と側近を冷たい目で眺めていた青年は頭を友人に向けた、彼の名はアンブローズ=カメロと言う、セクサドル王国の西部に住む民族は最初に家名が来るので、アンブローズが家名でカメロが名前だ。
薄い赤みを帯びた金髪に切れ長の一重の目、背の高さは平均だ、どこか生まれ育ちのよさげな若者だが、それも当然で彼は西部の田舎の領主の一族で貴族の末席に連なる。
正装し整えれば名家の令嬢がほっては置かない容姿をしていたが、疲れきっただるそうな空気を纏っていたので総てが台無しになっていた。
彼は優秀な若手の軍務官僚としてこの度の出征計画に加わり、軍の兵站計画に深く関わっていた。
「向こうでカシナート帝の故事を語られたら堪らない、あの口はどうにかならないものか」
カメロは半ば呆れたように放言する。
カシナート帝の故事とは、今から二百年以上昔の事だセクサドル王国中興の祖カシナート王がテレーゼの内紛に乗じテレーゼ王国を併合した。
その時カシナート王は巧みな謀略でラングセル要塞を制圧し峠を越えた、その故事をテレーゼ側で放言されては堪らない、おまけにヘムズビー公爵家はその時の一方の当事者だ、この度の遠征はあくまでグディムカル帝国の侵略に対抗する為の正義の戦と言う建前なのだ。
カメロの放言に今度は友人が慌て出した。
「おいおい声を落とせよ!!」
彼は同郷の男で有力な大貴族の子弟だが、愛妾の息子で七男の為ほとんど扱いは平民と変わらない、彼いわく父親は俺の顔を知らないだ。
「オレク、カメロ、無駄口叩くな!!」
ドビアーシュ将軍の叱咤が近くで聞こえたので二人は縮み上がる、そして将軍の目は不機嫌に己の主に向けられていた。
だが規模の大きなセクサドル軍が国外に出るのは十年ぶりだ、軍全体が高揚感に包まれていたのは否定できない。
今回は連合軍の一翼として宿敵グディムカル帝国と闘うのだ、カメロもその気分を共有していた。
セクサドル軍は行軍速度を上げながら街道を驀進して行った。
そのテレーゼ国境から遥か東のハイネの都、その南のセナ村の屋敷に上位地精霊術士のホンザが築いた魔術陣地が築かれていた、現実世界から僅かにずれた世界にその屋敷は立っていた。
「ただいま帰りました」
台所から元気いっぱいなコッキーの声が聞こえてくる、セナ村の屋敷は村の中心を向いているので、ハイネから帰ってきた者は台所の裏口から屋敷に入ってくる事になる。
「ルディは?」
ベルが居間に入ってきた時、アゼルとホンザの二人が死霊術師のリズから没収した書籍や資料をテーブルの上に積み上げ、論評しながら分析している処だった。
「殿下は納屋で馬車の修理をされています」
ベルを見ようともせずにアゼルが答える。
この屋敷にはジンバー商会から奪った快速馬車と二頭の馬がいる、ルディは無理な運転で傷ついた馬車を部品を買い求めながら少しつづ修理していたのだ。
「ベルよ、街の様子はどうじゃ?」
ホンザの問いかけにすぐには答えない、ベルは優美な肢体を動かして二人がけのソファに歩みよると体を投げ出した、ベルは町娘の様な素朴な服を身にまとっている、コッキーと二人で出るときはその服を着る事が多い。
「アラティア軍とセクサドル軍が動き出したらしい、役所の前で触れが出ていた、それに物価が凄い勢いで上がっている」
頭を横にふりながら、自分で木の茶碗に薬草茶をそそいで飲み干した。
「するといよいよ戦が近いかのう?」
「ホンザ殿、戦が始まる前にケリをつけたいですね」
アゼルが資料を調べながら口を開いた。
「そうじゃな、セザーレとあの闇妖精の化け物とな」
茶を飲んで落ち着いたベルが何かを思い出した様に身を起こした。
「ねえホンザ、兄弟弟子のメトジェフだっけ、そいつはどうする?」
「おおそうじゃな忘れておった、アヤツともケリをつけたいがしょせんは小物よ、放置じゃ」
ホンザはおとぎ話の様な白い長い顎髭の老魔術師そのものの顔を綻ばせる。
そこに玄関の扉が開くと、青い不気味にゆらめく陽光がエントランスに差し込む、ベルが目を向けると青い異界のセナ村の田園風景を背景にルディが立っていた。
「ベル、戦が近いようだな」
「うえっ聞こえていたの?聞かないでよ失礼でしょ」
「ああすまないな、コッキーの大声が聞こえたので意識を傾けてしまったのだ」
少し不機嫌になったベルを宥めながらルディもベルの隣に腰を降ろした。
「コステロ別邸の魔術陣地をさぐれそうか?」
アゼルとホンザが手を休めた。
「殿下、我々がある程度死霊術を理解していないと危険です、彼女はあくまでも向こう側の人間ですからね。
彼女の術式行使から何をしようとしているか、ある程度理解できるようにしなければなりません、そしてこれからの為にも」
「やっぱり、あの人じゃないと使えないんだ?」
ベルの素朴な疑問にアゼルが答えた、普段はベルを邪険にしている様に見えるが彼女が魔術を軽視した態度を取らない限りそうではない。
「ええそうです、死霊術は魔界術と言っても良い異質な系統の術です、精霊術ならば素質があり訓練すれば得意では無くても複数の属性が使える可能性があります、私は水精霊術に風精霊術を少し使えますが」
「ベルよ我々では本質的に死霊術を使う事はできぬ、メトジェフの様に精霊術を捨てねばなるまい」
最後にホンザがアゼルを補足する。
「アゼルよ、いつあの舘を調べる?」
「殿下、まずリズさんに術を使わせながら、死霊術の理解を深める予定です、今日の午後から始めますよ」
「楽しみじゃて、ホホホ」
ホンザが笑った。
「全員立ち会ってもらいますよ、みなさん魔術行使を認識できる特別な力を持っていますからね、感触で行使される死霊術の種類が解るようになれば武器になります」
ルディもベルもそれに率直に頷く。
「私もなのです?」
台所からコッキーの大声が聞こえて来る、どうやら居間の会話に意識を傾けていたらしい。
ベルがまた不機嫌になった、聞かれたくない音だってあるのに、彼女の口がそう動いていた。
「コッキー貴女もですよ!!」
アゼルは台所に向かって大声で答えた。
その日の午後はリズが居間に連れ出され、アゼルとホンザの指示通りに何度も魔術を行使させられる事になった、皆で彼女の周囲を取り囲んだ。
囲まれて涙目になりながら時々コッキーを見ては彼女は震え上がった。
「ねえリズ、なんで術の最後に一々名前を呼ぶの?なんとなく恥ずかしい」
ベルは先程から感じていた疑問に絶えられずついに追求を始めた、アゼルとホンザは顔を見合わせて気まずそうな顔をした。
リズは術に人の名前をつける癖があるのだ。
「ベル嬢、魔術師によっては術を固定化しやすくする為に名前を付けたり、詩の一節や花言葉などを組み合わせる術士がいるのです、意識やイメージの固定化など術の行使を助ける効果があると言われています」
なぜかリズの顔が真っ赤になった。
「あぬし随分術を使ったようだが、大丈夫かの?」
そこでホンザが話題を変えてきた。
「あ、いやその大丈夫だよ」
「ふむ中位に上がったばかりのようじゃが、まだ伸びしろがありそうじゃな」
ホンザはホホホと笑った。
リズが気まずそうに笑った後でふと天井を見上げた。
コッキーがそれを見て何かに気がついた様だ、そして愛らしい顔に無邪気な笑みを浮かべた、それもどこか嫌らしい。
「リズさんあの人が気になるのです?」
ベルも二階の物置に捕らえられているマティアスの事を思い出す。
「ええっ?あのその、そんなその」
リズは顔を赤らめ挙動不審になった、コッキーの倍近い大人の女性が動揺し顔を赤くしながら悶えるのをベルは冷めた気分で見るだけだった。
「そろそろ中位の術を見せてもらおうかのう」
ホンザの言葉が緩んだ場の空気を変えた。
「召喚術なんだよ、屋敷の中じゃだめさ」
魔術の事になるとリズは真摯になり態度を豹変させる。
「では外に出ましょう」
アゼルが玄関に向かって歩き始めると全員アゼルの後に従う。