せまりくる戦火
グディムカル帝国の帝都レースビクは帝国の中心から大きく北に偏っていた、帝都は灰色の石で築かれた重厚な要塞都市でその壁は厚くそして高い、その暗く重苦しい灰色の景観は北のラトラの街と良く似ていた。
この街は内戦時代に皇太子派の拠点となり、伝統ある帝都イルゼーテは戦場に近く何度も戦火に焼かれてすっかり荒廃してしまった。
その帝都に今まさに皇帝親衛隊が集結し皇帝トールヴァルドの親征が始まろうとしていた。
皇帝親衛隊は兵力五千程の直属軍で、有事に即応する事ができる常設軍だ、その親衛隊の先頭にいつもトールヴァルドの姿があった。
臣民から圧倒的な信望を得ている皇帝だが、この度の遠征を不安視する声も根強い、多くはまずは内部を固め復興に力を注ぐべきだと考えたのだ。
だが今年の気候がいつもの年より涼しく来年以降はもっと酷くなると噂が流れ始め、次第に皇帝の真意をそれと捉える者が増え始めた。
温暖なテレーゼ平原への進出は彼らの悲願だ、そしてハイネの製鉄産業は垂涎の的だ、伝説の魔女が残した遺産が豊富な石炭による製鉄を可能にしていた。
皇帝トールヴァルドは愛馬にまたがると周囲を睥睨、皇帝は眼光鋭く近習の者達を見渡す。
彼は黒色の龍のレリーフを刻み込んだ豪華な鎧に身を包んでいた、そして黒い兜に翼竜を象った黄金の前立てが陽の光を受けて輝いた。
こうして騎乗すると彼の見事な体躯が良く映える、頑健な黒い軍馬ととても良く似合い一幅の名画の様だ。
近くに相並ぶ若者達は未来の帝国のエリートで長年皇太子を支援してきた諸侯の縁者が多い。
だがトールヴァルドは彼らに満足していたわけではない、大人の事情で重用しないわけにもいかないからだ。
それでも見どころの有るものを何人か密かに目をつけていた。
皇帝は大城郭の胸郭内部の広場に勢揃いした親衛隊の前に立つと馬上からよく通る声でかたりかけた。
「者共、ユールの神々から神託が降った事をここに居るものは知っているはずだ!」
皇帝は言葉が染み透るまでしばし待つ。
「神々の意思は、運命の御使いに応じ神々の御意思を我らの手により南の大地に刻みつける事なり!
諸君、我々は長きに渡り雌伏の時を耐えてきた、だがそれは終わりを告げた、今こそユールの民の自由の為に立ち上がる時が来たのだ。
神々はついにその道を示された、我らは約束の地に軍を進め豊穣なる大地をその手に取り戻す。
だがその果実を掴むのは飽くまでも我らの力である、自ら掴む意思なき者に神の加護もない」
皇帝の言葉は北の民の苛烈な生き様を示すような神々と民のあり方を顕していた。
「我らの遥か道征く先に豊かな大地が街が財宝が諸君を待っている、それを踏みしめ掴みとれ、征くぞ!帝国の勇者達よ!!」
その力強い言葉に軍団は歓呼に包まれた、そして先導隊が進軍の軍鼓を鳴らした。
「進め!!」
皇帝の号令が発せられ先導隊指揮官が命を発した。
「歩速前進!!」
軍団はゆったりとした歩調で進軍を開始した、リズミカルに鳴る軍鼓が行軍速度を定める、トールヴァルドは前衛をしばらく閲兵していたが、本隊がやって来るとそれに近習とともに加わる、トールヴァルドを見送るのは留守居の信用できる重臣のみだ、彼らは若い主君をバルコニーから見送る、だがそこに親族はいない、みな斃れ生き残った者は僅かしか居ない。
彼らに目礼すると老臣達が畏まり頭を深くさげる、苦労を長年共にしてきた者達ももう老境に差し掛かろうとしていた。
軍が城郭から市街に出ると遠征軍を見送る人々が大通りの両側に集まっていた、だがいつもと違い歓呼に影がある、彼らもまたこの遠征に強い不安を感じていた。
帝都を出ると皇帝親衛隊は途中で諸侯軍を合流させながら南下する予定だ、既にグディムバーグ要塞を目指し各地の遠征部隊が集結しつつある。
トールヴァルドはまっすぐ南の空を睨んだ、テレーゼは遥かに遠い、帝国の最南端の守りの要グディムバーグ要塞の先で国境の山々が行く手を遮るのだ。
連合軍が国境の地形を利用し防衛線を敷く前にテレーゼ平原に抜けなければならなかった。
帝都の郊外に出ると軍団の進軍速度が上がり始める、帝都から親征の勅を伝える使者が帝国各地に発せられ早馬が皇帝を追い抜き駆け去って行く。
だがこれは公式の勅使でしかなかった、遠征の準備は二ヶ月前から既に進められていたのだから。
そして精霊通信がその動きを最初に世界に向かって伝え始めた、それぞれの母国に急報を伝える為に『皇帝トールヴァルド動く』と。
グディムカル帝国がその力を動かし始めたその頃、はるか南のテレーゼのセナ村の魔術陣地の中の者達はまだそれを知らない。
ベルは尋問が終わり嫌がるリズを二階の物置に押し込めると下の階に戻って来た。
居間のテーブルの上に昨夜の戦利品が積み上げられ、アゼルとホンザがそれらに目を通している所だった。
コッキーは席を外しており、ルディの姿も見えない。
「ホンザ様、これは禁忌クラスの資料の山ですね」
「うむ、長年テレーゼにおったが、死霊術はなかなかお目にかかれる物ではない」
「ねえアゼル、死霊術はテレーゼで生まれたの?」
部屋に戻って来たベルがそう語りかけながらソファに体を投げた。
アゼルは書籍から目をそらざすにベルに答える。
「テレーゼではありませんよ、死霊術は何度も抹殺されその度に蘇りました、
最後に300年程前に復興させた者がいたと言われていますが詳しいことは解っておりません、秘密のベールに包まれています」
「何度も?」
「ええ、少なくとも二度蘇り滅ぼされていますね、死霊術などと呼ばれていますが、やはりその本質を隠蔽する為でした、ここに来てからそれがよく分かりました」
「これは闇精霊術と呼ぶべき魔術体系じゃな、だが精霊術と似通った部分も多い」
ホンザが書籍を眺めながら感心したようにつぶやく。
そこに玄関の扉を開けてルディが戻ってくる。
『おいルディガーよ、ペンダントをアゼルに渡してくれんかの、儂も読みたいのじゃ・・・』
ペンダントからアマリアの声が洩れてきた。
「お戻りですか愛娘殿」
そしてルディがアゼルに目をやった。
「かまいませんアマリア様」
するとアゼルに向かってルディがペンダントを軽く投げた、アゼルは危なげなく片手で受け止める。
『ぬおっ!!ルディガー口先だけで敬老の心が無いのか!?』
ペンダントが慌てて喚き散らした。
「すまん愛娘殿、ペンダントを落としたりぶつけてもびくともしないのでつい」
『こら乱暴に扱うでないぞ』
アゼルは喚き散らかすペンダントを首にかけるとすぐに資料の精査に戻る。
「ベル俺たちがここにいては邪魔だ、俺と街に行こう様子を見ておきたい」
「いいよ行こう!」
ベルがソファから勢いよく立ち上がる、すると台所からコッキーの声が聞こえてくる。
「まってください、私も行きたいのです!!」
「じゃあ三人でいこうか」
「やりました!!」
台所からコッキーの歓喜の叫びが聞こえてきた、そしてベルの顔が僅かに曇ったがルディはそれに気づかない。
ハイネに驚くべき速度で到達した彼らはさっそく中央通りにあるベルの馴染みの店に向かう。
そこはパンの間に具を挟んだテレーゼの名物料理の店だ、以前大通りに露天を構えていたが、若い店主が小さな建物を買い今はそこに店を構えていた。
戦火が近づいた今どうなっているのかベルは若い店主を本気で心配していたし、街のうわさ話を聞くのにこの店ほど都合のよい処はなかった。
扉を開くと中には客が一人も居なかった、若い店主が客に気付いて顔を恵比寿顔に変えた。
「いらっしゃ・・鼻トウガラシ娘かよ、おう旦那も久し振りだな」
「うぇひひ、思い出しましたよベルさん、それベルさんの渾名ですよね」
嫌らしい顔をしながらコッキーがベルを見上げて笑った、それをベルは軽くにらみつける。
「アノときコッキーも鼻に来てたでしょ?」
ベルは鼻に小しわをよせた。
「そうだ、店主あれを頼む」
そう言いながらルディがメニューが書かれた一枚の木の板を指差した。
「はいよ」
「「同じので」」
続けてベルとコッキーも同じ料理を注文する、彼らは奥のテーブルでは無く、調理場に面したカウンターに一列にならぶ、この方が店主と世間話がしやすいからだ。
「店主景気はどうだ?」
「全然だめだよ旦那、戦が近いと噂がもちきりだ、材料費も値上がっているし客も減っていやがる」
若い店主は顔を歪めて顔を横に振った、具を炒める音がすると香ばしい匂いが店内に立ち込める。
「あんたらはここの人間じゃないんだろ?なら早く立ち去った方がいいぞ」
「そんなに切迫しているのか?」
「昨日、警備隊の部隊が工作部隊をつれて北に向かったらしいぜ」
ルディは考える、工作部隊とは土木工事や砦などの築城を行なう工兵部隊の事に違いない、だが大規模な施設を作るには遅すぎるのではないか?
これは野営地の設営や柵などの簡易なものだろう。
「国境に向かったのかな」
ベルはのんきに店主に質問を続ける。
「何処に向かったか俺らにはわからないのさ、街を出るなら早いほうがいいぞ、人の出入りのチェックが厳しくなってきているってさ」
「そうか気をつける」
「さあお待ち!!」
ルディの前に大きな木の皿に載せられた料理が饗される、香ばしい具を挟み込んだパンをルディは手づかみにしてかぶりついた。
「先に食べるの?」
「ベルすまんな、これは温かいうちに喰わなければだめなんだ」
ルディは鷹揚に笑うとどんどん食べ尽くして行く、それを少し恨めしげに見上げたがルディは意にかえさない。
やがてベルの前にも大きな木の皿が置かれると、ベルもさっそく手でつかみ取りかぶり付いた。
「人の事言えるのです?」
「コッキーごめん、これ温かいうちに食べなきゃだめなんだよ」
「お前ら仲がいいな、良い事だ」
若い店主は笑うと今度はコッキーの前に皿を置いた。
食べ終えて三人が店を出るとベルが店を振り返る、外はいつにもまして往来が激しい、警備隊の装備をまとった小隊が往来し荷馬車で混雑していた。
「大丈夫かな店長」
「わからん、ハイネが戦火に飲まれると店どころでなくなってしまう」
「負けたらハイネは燃えちゃうんでしょうかルディさん」
ルディもそれにどう答えるべきが苦悩しているのがベルにも解った、無傷でハイネを占領したいと敵が考えても、思い通りに行かないのが戦の常ねだ。
「ハイネが負けたらリネインが心配なのです・・」
これにベルも胸を突かれた、コッキーはリネインの聖霊教会の孤児院育ちだ、かつてリネインも戦火で焼かれコッキーの両親が命を落としていた。
そしてアラセアに逃したサビーナ達の事を思い出した、あの子達は今頃元気だろうか、アマンダが来たら尋ねようと思う。
自分の想いに浸り始めたベルにコッキーが不審な顔を向けた。
「これからどこに行くのですベルさん?」
「ああ、昨日コステロ別邸の使用人が立ち寄ったお屋敷を調べよう、ねえルディ」
「そうだそこを見ておこうか」
三人は昨日ポーラを尾行したのと同じルートをたどった。
やがて中央の大広場に到達したが、南の大通りから荷を満載した馬車が車列を連ね、東に向かって進んでいく。
厚い灰色の布で覆っていたため荷の中身はわからない。
「何だあれは?」
ルディが無意識に溢した言葉を、隣で車列を眺めていた野菜を詰めた籠を背負った中年の婦人が聞き咎めた。
「兄さん、ありゃ南のベンブローク公爵からの支援物資らしいね」
ベンブローク公爵はテレーゼ王家の遠縁の名門で小国並みの実力を持っていた、地理的にも重要でリェージュの街はハイネからアルムト帝国に至る大街道の要所をしめていた。
ハイネ通商同盟がアルムト帝国の支援を受けるにはベンブローク公爵との関係が極めて重要になるだろう。
「ほう、ベンブローク公爵は兵を出すのか?」
「あたしゃ詳しいことは全然知らないからね、出さないって聞いていたがね、じゃああたしはこれで行くよ」
そう言い残して野菜籠を背負った婦人はさっさと行ってしまった。
三人は東城門に続く大通りの北側を東に進む、ベルが東を指差してささやいた。
「あれを見て、荷を下ろして引き上げてきたんだ」
確かに反対側から空になった馬車が何台もこちらに向かって来るのが見える。
「たしかにな、さてそこを北に曲がるぞベル」
そうしてハイネの野菊亭のある商店街を北に進む、幸いな事にハイネの野菊亭の前に看板娘の姿は無かった、そのまま三人は高級住宅街に入って行く。
「ここは立派なお屋敷ばかりで、あんまり近づいた事なかったのですよ」
コッキーは周囲を見渡しながら不機嫌につぶやく。
「おっとそこの右だ」
ルディの声にベルが十字路まで走り右手を確認する、そこから昨日ポーラが寄った古風な威厳のある邸宅が見える。
「あれだルディ」
「ああ、まずは前を通過してみるか」
三人は昨日使用人がいた敷地の西端の小さな通用門の前を通過する、やがて屋敷の正門の前を通り過ぎた、だが頑丈な鋼鉄製の扉は固く閉ざされていた。
屋敷は重厚な石造建築で屋根は石のアーチで支えられている、屋根にかすれた青い色が残っている、かつてはコバルトブルーに映えていたに違いない、二階の南側は広いバルコニーになっていて瀟洒な美しい柱列が見えた。
庭園は古風なテレーゼ様式で自然の森を模している、東エスタニアではこの様式が好まれる傾向があるのだ。
敷地は一辺が50メートル近くありハイネ市街では広い屋敷でその威容を誇っていた、ルディは近くを通り過ぎるどこかの屋敷の使用人らしい中年の男に声をかけた。
「こんにちわ」
「ん?なんだアンタ?」
その男はみ知らぬ大男に声をかけられてあからさまに警戒している。
「俺はこのとおり商人だが、このお屋敷の主は誰かな?」
「屋敷の主の事は言わないのが暗黙の掟なんだ」
その男はまたかと言った顔をしたのをベルは見逃さなかった、ベルがすっと男に近づくと小銀貨を握らせた。
「しょうがねーな、いいか言いふらすんじゃないぞ、ここはコステロ商会の持ち物だよ」
ベルとコッキーは顔を見合わせた、男はそう言い残すとそのまま北に去って行ってしまった。
「予想通りだねルディ、でもここはかなり防備が凄いよ」
「そうだな、俺も気配を感じるぞ魔術結界がいくつも施してある」
だが長く留まるのは屋敷の住人の注意を無駄に引くだけだ、そのまま東に向かって歩き続けた。
「最後に買い物をしたいのですよ、できるだけ買い溜めしておきたいです」
ルディとベルは立ち止まり背後のコッキーを振り返った。
「じゃあ南東区に行こう、庶民の街なんだ」
ベルがそれに賛成すると三人はそのまま大通りに向かう、馬車の車列の隙間をかいくぐり大通りを横断すると南西地区の市場を目指した。
だがその三人を目撃した男がいた、奇跡的なまでの偶然なのかこの街に住処を定めていたマティアス=エローが三人の姿を捉えた。
「アイツラがいる!!」
マティアスの独り言からは恐怖と希望の感情がまじりあっていた、ジンバー商会は今頃中位魔術師の失跡に大騒ぎになっているだろう、マティアスはリズの失跡に彼らが絡んでいると見ていたが手がかりが無かった。
だがこれでリズの消息を掴む事ができるかもしれない、冷や汗をかきながらも三人の尾行を開始する。