盗まれたペンダント
丘の上の瀟洒な舘のバルコニーに赤い月よりもなお赤い真紅のドレスに身を包んだ美しき淑女が佇んでいた。
彼女の青白き肌は赤い光に照らされ血が通った人のように艶めかしく照り映えた、そしてバルコニーから荒廃した死の世界を身動き一つせず見下ろしていた。
荒廃した世界を天空から赤い月が見下ろしていた、彼方に闇よりも暗い巨大な城の影が聳え立ち、崩れかけた建物と城壁が幽鬼の様に取り囲む、巨大な堀は漆黒のタールの様な水をたたえ赤い月の光を照り返していた。
眼下の丘は白く朽ちた骨の様な木々に覆い尽くされ、死の森の中に黒い影が幾つも蠢く、それらは木々の影なのか得体のしれない生き物なのか定かでは無かった。
そんな禍々しい丘の上に場違いな赤レンガの瀟洒な豪邸が立っていたのだ。
それがドロシーが作り上げた魔術結界の中から見える世界だった。
やがてゆったりと彼女はリビングに戻る。
コステロ商会別邸の豪華なリビングはバルコニー側の壁が全て分厚いガラス張りで作られていた、部屋の中からハイネの町並みを見下ろす事ができる、だが今ここから見えるのは陰鬱な廃都の影だけだ。
「もうよろしいのですかお嬢様」
部屋の片隅の闇の中から若い使用人の声がする。
「ええいいわ」
部屋の片隅の暗がりの中からポーラが歩み出た、バルコニーと部屋を仕切る金属枠のガラス張りの豪華な扉に近づくと閉めると金属の蝶番が軋む音がする。
ドロシーはそんなポーラの姿を目で追っていた。
その視線に気づいたポーラは固くなり怯える、小さな悲鳴が口から漏れかける。
これは人の本能に根ざした妖精族に対する畏怖がその根底にあるからだ、それを人の意志の力だけで克服するのは困難だ、闇妖精姫の知識があってもドロシーは真にそれを理解してはいない。
ドロシーは真っ直ぐにポーラの瞳を見る、その真紅の瞳がポーラの魂の奥深くを覗き込んだ。
「ポーラ、少し怖がらなくなった」
無表情なドロシーの顔にほんの僅かな喜色が浮かぶ。
「あ、あ、少しお嬢様の事が怖くなくなりました・・・あの初めて名前を呼んでいただきました」
「これから少しつず仲良くなりましょう」
「は、はい、畏まりましたお嬢様」
ポーラは作り笑を作ろうとしたが引きつる。
「ポーラさっきの話の続きをしましょう?」
ドロシーが小さなテーブルを指差す、白いエナメル塗りの瀟洒な小さな丸テーブルと二つの椅子が窓から入る薄赤い光に照られれている。
「きょ、恐縮でございます、ですが私は使用人で・・」
「ここは貴族のお屋敷ではないの、気にしないで、そして私がルール」
ドロシーが少々お行儀悪くどかっと座ると、ポーラも恐る恐る腰掛けた。
正面に座ったポーラは居心地悪そうで、目の前の美の化身の様なドロシーから顔を背けたいがそれもできずに苦悩している事がまるわかりだ。
「ポーラはどこの生まれなの?私は、そのノイデンブルグ」
「お嬢様はアルムト帝国のお生まれでしたか?ですがお嬢様はその・・闇妖精姫ですよね?」
「いろいろあったから・・」
「そうですか・・私はアラティアの王都ノイクロスター近くの田舎街でございます、アラティア有数の大商人の妾の娘なんです、日陰者でしたが生活に困った事はありませんでした」
「まあ、私は幼い頃にノイデンブルグの魔術幼年学校の特待生になって寄宿学校で過ごしました」
「それは凄いですお嬢様!世界最高の魔術学院の生徒だったんですね、時々物凄く難しい本をお読みでしたからその理由が分かりました、それにノイデンブルクは大都会ですもの行ってみたいと思っておりました」
「でも牛も羊もいないし寂しい所よ」
「ええ、まあそれはそうで御座いましょう?」
「貴女も農夫の娘では無いと思っていたけど、品もあるしどこか仕草も優美」
「実は母は花柳界の女でした、詩作や音楽や踊りなど芸事や教養を叩き込まれていたんです」
彼女はそう言ってからしまったと言った顔をした、ドロシーも僅かに眉を動かした。
それはポーラの母親が高級売春婦と言う事になる、客は貴族や大商人など特権階級に限られる。
彼女達は見た目も仕草も話し言葉も貴婦人と変わらない、中には夜の貴婦人として貴族の子弟の性教育を担う程の者もいる。
だがそうおおっぴらに自慢できる身分ではなかった。
「ああ、もうしわけ有りませんお嬢様、ついなぜか・・」
それをドロシーは軽く優美な手で制した。
「私は魔術師に売られたのよ、両親は貧しくて魔術の素質のある私を売りました、顔も覚えていない」
「お嬢様は人間だったのですか?あっ失礼いたし!?」
ポーラはドロシーの顔を見て驚愕し言葉が続かなかった、完璧な造形の人形の顔が歪んだ苦悶の表情を浮かべていたからだ。
「だめ昔の事を考えてはだめ、心がバラバラになってしまう、ドロシーの事はわりあい平気なのに」
それは目の前の哀れな使用人ではなく自分自身に問いかける様にも見えた。
「お嬢様?」
「気にしないで、いいわね?」
「は、はい!!」
ドロシーは自分自身を落ち着かせると先を続けた。
「ポーラは良いとこの侍女をしていたのね?私もよく見てきたからわかるのよ」
「はい、高貴なお家のお嬢様にお使えしておりました・・」
だがポーラはその先を口ごもる、そしてなぜ話してしまったのか彼女も驚いている様子だ。
「やっぱりアラティアの貴族の御館で働いていたのね」
「はい、ダールグリュン公爵家のカミラ様のお付きとして働いておりました、両親とダールグリュンの先々代様とのご縁があったからです」
それはするりとポーラの口から出てきてしまう、その次の瞬間に彼女の目から涙があふれる。
それを見た無表情のドロシーが少し慌て始めた、それを見たポーラが驚いてかえって落ち着く。
「お嬢様もそんな顔をされるのですね、なぜでしょう口が止まりませんでした・・・お墓の下まで持って行こうと決めていたのに、なぜか口から出てきてしまうんですよね」
「それは私もよ」
しばらく二人共口を開かなかった。
「これを御覧ください」
何かを決意した様にポーラはコステロ家の侍女のドレスの胸元の奥からペンダントを取り出した。
それは巨大なエメラルドを銀の精緻な台座にはめ込み銀の鎖で繋がれている。
良家の娘のポーラであっても不釣り合いな宝飾品だ。
「これは大した物だわ、これをどうして、いいえなぜ私に見せる気になったのかしら?」
「お嬢様の瞳をみたら何も怖くなくなりました、あと失礼ながら・・・」
「失礼ながら?」
「お嬢様が人ではないからかも、そう思います」
「精霊様の像と同じなのか、なるほど」
精霊王の像に向かって懺悔するのと同じだと考えたようだ、ドロシーは誰に向かって話すでもなくそう呟いて一人で納得している。
「ぬ、いえ何か理由があるのね?ポーラ」
「お嬢様、私がカミラ様から盗み出し逃げてきたのです」
ドロシーは何も言わずに顔でポーラに先を促した。
「カミラ様は私よりお若いのですが、誰よりも優しくて気品があって賢い御方でした、私の様な穢らわしい者がお側にいて良いのかと・・」
「尊敬していたのね」
ポーラは頷いた。
「ですが邪な思いが生まれたのです、この御方の顔を怒りに歪ませてみたい、悲しみに歪ませてみたいって、嫉妬していたのでしょう今なら分かります、あの御方の無垢さをいつしか憎むようになっていたのかもしれません」
「それでそのペンダントを」
「はい、つい魔が差して、お嬢様の身辺に侍る私達の様な者にはその機会がありました、そして逃げだしてしまいました、もう何も考えられずに、カミラ様のお輿入れの話を聞いたのも切っ掛けだったかもしれません」
「それで身につけていたのね」
「お返しする勇気も、名乗り出る勇気もありませんでした、それに売ろうとしても売れる物ではありませんし」
「これは売るのは難しい」
「ああ、なぜかお嬢様に話してしまいました・・・少し気持ちが楽になりました」
「よく話してくれました、これを返したいのなら私が返してこようか?簡単にできる」
ポーラはペンダントを両手で握りしめた。
「いいえ、そうだ私が死ぬことがあったらお願いできるでしょうか、図々しいと思いますが」
「いいわ私のお友達の願いですもの、私は人と仲良くなってもかならず先に死に別れる」
「それは!」
ポーラは絶句した、そしてペンダントを再びドレスの中に仕舞うとドロシーに頭を下げた。
「ではお嬢様お願いいたします」
ドロシーはゆっくりと椅子から立ち上がった、どこか満足げな顔をしている。
「約束は必ず守るわ、私は部屋に戻ります」
そのまま豪奢なリビングから去って行く、やがてポーラは白い椅子からゆっくりと崩れ落ちると床に座り込む、それを窓から差し込む赤い月の光が照らしていた。
ハイネの旧市街の西の城門を奇妙な一行が通過して行く。
高級使用人のドレスを纏ったひと目を惹く若い美貌の女性を先頭に、天使の様な美しい小柄な少女が続いた、彼女は背中に奇妙な形をした杖を背負っていた。
その後ろから青いローブに身を包んだ若い魔術師が、彼の肩の上に小さな白い猿が乗っている、そして対象的な高齢の魔術師が、最後に大柄な気品のある端正な容姿の若い商人風の男が続いた。
先頭の使用人の侍女が帯剣し倒錯的なまでに異彩を放っていた、ここにくるまで大通りを行き交う人々の注目を浴びていたのだ。
やがて一行は裏道に入る、その奥まった一角はさすがに人通りも絶えていた。
「あれだよ見て」
先頭のベルがある建物を指差した、それを見たコッキーの目が見開かれた。
「お化け屋敷ですか?」
コッキーは嫌なものを見てしまったと言いたげだ。
二階建ての木造アパートはとにかく古びていた、あちこちが朽ちかけ壁板が剥がれかけている、蔦の様な植物が這い登り壁の半分は緑に覆われていた。
屋根も板葺きだがところどころに重しの石が置かれている。
「これは酷い」
ホンザの呟きが聞こえる。
「あんたらあのアパートに用があるのか?大家が死んでからもう誰もいないよ」
そこに通行人の男が話しかけてきた、近くの住人らしい、その男は怪しいが身なりの悪くはないその集団に興味を持ったのだろう。
「そうだ、ここに住んでいた女魔術師の知り合いだ、今どこにいるか知らないか?」
ルディが自然と交渉役を買ってでる、通行人の男はアゼルとホンザを見て納得した様だ。
「ここの二階にいたようだよ、どこに引っ越したかまでは知らないな、たしかジンバー商会で働くと言っていたそうだ、男が引っ越しの手伝いをしていたぞ」
男はそのまま去って行ってしまった。
男が消えるのを待ってベルがルディに話しかける。
「ルディ中を見ておく?僕は一度だけ入った事がある」
「気が進まないがそうしよう、魔術師なら何かわかる事があるかもしれないな」
「そうですね殿下」
嫌そうにそれでもアベルも賛同する、一行はそのまま朽ちかけた階段を登りはじめる。
「なんかかび臭いです、体が痒くなるのですよ」
「中にキノコとか生えていたよ」
先頭のベルが茶化すようにコッキーを振り返る。
「これは酷いのう」
「ああここはさっさと切り上げて何処に引っ越したが調べよう、これはジンバー商会の内情も引き出せるかもしれんな」
周囲を見回しながら顔をしかめたルディがいささかうんざりした様に愚痴った。
そのオンボロアパートからそう離れていない旧市街の南西地区の倉庫街の一角に、小綺麗な小さなアパートがあった。
そのアパートに何をしているのか解らない容姿の男が入っていく、倉庫で働く人夫や工場で働く職人ならばそれらしい服装をしているものだ、だがその男は一目見ただけで職業が解らない。
三十代半ばの男は役人とも商会で働く事務員のようにも見えるが、動きに切れがあり荒事に慣れている様にも見える。
男はアパートの一室の扉のまで進むと立ち止まった、そして扉を軽く叩く。
「リズ帰ったぞ」
するとすぐに扉が開く。
「おかえりマティアス」
三十前後の痩せた女性が男を出迎えた、部屋の中は小綺麗で彼女は夕食の用意をしていたのか良い匂いが立ち込めていた。
リズは以前より小綺麗に健康的になっていた、まともな食事と睡眠をとっているからだが、収入が良くなったのもある、だがそれ以上にマティアスの存在が大きかった。
マティアスはリズを見ている様でリズを見ていない、この男は死霊術師ギルドで見たリズの生霊に呪縛されていた、そしてそれに近づいていくリズに満足しきっていたのだ。
「いいね、腕を上げたな」
部屋の中を見回し匂いをかいだマティアスが微笑む。
「そう言ってくれるなら嬉しいよ、薬を作るのとおんなじさ、レシピに忠実ならなんとかなるよ」
マティアスがそれに笑った、リズもはにかんだ笑いを浮かべる、そして二人は部屋の奥に楽しげに入って行ってしまった。
そして扉が閉められた。