北の辺境の街から
グディムカルの帝都レースビクから北へ馬で一日の距離にラトラの街がある、グディムカル帝国の北の辺境に近いこの街は背の高い針葉樹の森に囲まれていた、高い城壁に硬く守られたこの街は帝国の北の守りの要だ。
ここから更に北に一日進むとなだらかな山地が東西に走りそこが北の国境を成している。
街の建物は強い風に備えた作りで頑丈に作られている、窓は小さく壁は厚く冬の寒さに備えたものだった、街全体が古びた石壁と併せて重く暗い印象を見る者に与える。
帝国の南半分が統一されてから遷都の噂がこの街にも聞こえて来ていた、そうなるとここは更に北の辺境になってしまうだろう。
その街の中心部に古い城壁に囲まれた一角があった、すでに壁は壊されたり建物に取り込まれてしまっていたが、そこに小さいが非常に目立つ屋敷がある、新しい建物なので周囲から浮いていただけでは無い、建築様式はグディムカルの様式を色濃く残していたが、赤い焼き煉瓦を使った建物で今はやりの建材が贅沢にふんだんに使われている。
黒と灰色の町並みにその屋敷だけが鈍い赤色を一滴垂らした様にそこに置かれていた。
そして陰鬱な色の家並みの上を乾いた風が今日も強く吹きすさんでいる。
その赤い屋敷の中は暖かく快適に保たれていた、居間の壁は白い漆喰で塗られ赤い絨毯が暖かさを感じさせる、居間の頑健な木の椅子に中年の女性が座り目の前に息子のヴィゴを迎えていた。
女性は意志の強そうな鋭い目つきの婦人で若い頃は美しかった事だろう、痩せていたが無駄のない引き締まった体を黒い質素な部屋着で覆い隠していた。
彼女の前に立つヴィゴはまだ旅装を解いていなかった。
「母上陛下が父上をお呼びです、父上はどこにおられるのですか?」
「心配しなさんな、あの人はきのうの夜戻ってきたよ、今は知り合いの処に顔を出しているすぐ戻るさ」
「それなら良いのですが」
「ヴィゴ、これだけははっきりさせておかなきゃならないね、あの人も私も帝国の臣下じゃないんだよ?」
「わかっていますが、私は帝国の騎士なんです立場があります!」
「知った事かと言いたいが、お前も困るだろうしねぇ」
婦人は困った様な笑みを浮かべていた。
すると居間の外が急に騒がしくなる。
「あの人が戻ってきたね」
扉が開け放たれると頑健な大男が姿を現した、炎の色をした手入れのされていない赤髪があふれる、二十代半ば程に見える大男は全身から闘気を滾らせていた。
部屋の中にヴィゴの姿を見て魁偉な顔を綻ばせた。
「エッラ帰ったぞ、ヴィゴもいたのか・・・さては皇帝か?」
彼の声は若く力強く腹に響いた。
「父上不敬ですよ!」
大男はそれに対して鼻で笑った、しかし父上と呼ばれた男とヴィゴはこうしてみると親子には見えない、まるで歳が離れた兄弟にしか見えなかった。
「陛下がお呼びです、今度は好き勝手には行きませんよ?」
「いやこの度は来るなと言われても行くぞ!」
「外国との戦だからですか?」
「フン馬鹿な、相手がハイネだからだ」
「父上もハイネを憎んでおられましたか」
逞しき大男は息子の問いかけにはすぐには答えず頑丈な木の椅子にどっかりと腰を降ろす。
「おまえに話した事は無かったな、テレーゼにはアイツがいる」
「アルベルト話す気かい?」
ここでヴィゴの母であるエッラが口を挟んできた。
「こいつに俺の目的を知らせる」
「目的?アイツとは誰ですか?」
「息子よ俺はハイネにいる闇妖精の姫を滅ぼす」
「な、今なんて?」
「ハイネにいる闇妖精の姫を滅ぼすと言ったのだ」
「ハイネになぜそんな者が?」
「お前が生まれる前の話だ、闇妖精の姫を復活させる試みが為されたが失敗した、少なくとも目的ははたされなかった」
「闇妖精の姫が封印されているのは知っていましたが、父上の話では復活したのでは無いのですか?」
「馬鹿め、復活させただけでは人が奴隷にされるだけだ、大導師様は闇妖精の姫の力を支配下に置く方法を考案された、それが手違いか事故で失敗した、我々の制御から外れた闇妖精の姫が人間の男に飼われている事までは解っている」
「闇妖精が人に従っていると?」
「そう言うしか無いようだ、俺は闇妖精と戦った事がある、俺の仲間はエッラと俺ともう一人を残して奴に皆殺にされた」
「そんな」
「そう言うことだ、奴を滅ぼす機会があるならば俺に敵を討たせてほしいと大導師様から既にお許しを得ている」
「誰が闇妖精を飼いならしていると?そんな事が人にできるのでしょうか」
「お前もコステロ商会の名前ぐらいは聞いた事があろう?ヴィゴよ」
ヴィゴはその名前を記憶から探る、コステロ商会とはテレーゼに本拠を構え大陸全土に力を広げつつある巨大な犯罪組織の表の顔だった、武器の製造、海運、陸運、魔術触媒や医薬品の製造から販売まで幅広く事業を展開している。
だがそれは表の顔で悪名高きソムニの栽培、加工、流通を握り、非合法の禁制品貿易から美術品や骨董品の贋作まで幅広い商売をしている、そして各国の裏側に忍び込み買収や恐喝で利権を守っていると囁かれていた。
生半可な小国では相手にならない巨大組織でハイネの裏の支配者と言われている。
彼らの影響はソムニの樹脂の流入の形でグディムカル帝国に影を落としていた、皇弟派を経由して皇太子派の支配地域に意図的に悪魔の蝋が流れ込んでいたのだ。
コステロ商会の独断ではなくハイネ評議会の黙認の上で行われていたと帝国は読んでいた。
長年に渡りハイネは皇弟派を背後から支援する事でグディムカル帝国の力を削ごうとしてきた、皇帝トールヴァルドのハイネに対する心象は極めて悪い。
「奴はコステロファミリーの幹部達から『真紅の淑女』と呼ばれているそうだ」
「あのコステロ商会、あそこが力を付けたのは闇妖精の力なのでしょうか、しかしどうやって飼いならしているのでしょう?」
「分からん、放った密偵は全て還って来ないと聞く」
「人に飼いならせるほど弱っている?」
アルベルトは太い首を横に振って強く否定した。
「俺には魔術の事はよく分からんが、奴はその力を長年隠してきた、ペンタビアの調査団を全滅させた事があるくらいだ、だが奴は我らにまともに協力する気も無く、己の力を示す気も無く何を考えているのか解らない、何年にも渡り接触を試みたが相手にされなかったようだな。
だが奴はその力を最近遂に顕した、それで不確定要素を排除すると腹を決められた」
「大魔道士様が?」
「そうだ、気まぐれ姫の気まぐれで天秤がどう傾くか決まりかねない、それを排除されたいらしい。
ハイネの不死のセザーレすら手を焼いている、そうだそのセザーレから神々の眷属までもが顕れたと報告が来ている」
「神々の眷属?」
「ヴィゴよ俺の同類だそれでお前にもわかるだろ」
ヴィゴは口を半開きにしたまま黙り込んでしまった、そしてしばらく沈黙が続いた。
窓から屋根の間を吹き抜ける笛の様な風の音が聞こえてきた。
「父上勝てますか?」
「勝つんだよ馬鹿め、大導師様が支援部隊を送り込んで来られる、俺一人では手が余る状況とお考えだ」
不機嫌になったアルベルトから人の魂を圧する圧力と瘴気が吹き出す、ヴィゴとエッラが目を瞠った、それに気づいたアルベルトは不敵に嘲笑うとその力はかき消える。
彼の目に僅かに赤光が残る。
「俺は明日の朝帝都に向かうぞ、今宵は家族団らんだ」
重くなった部屋の空気を振り払うように巨人は笑った。
グルンダル家の話題に昇ったテレーゼの都ハイネはラトラの遥か南にあった、豊かなテレーゼ平原は抜けるような青い空と陽に照らされ、温かい風が優しく吹き抜ける。
そのハイネ城市の北の丘陵地帯は有力者の別邸が立ち並ぶ高級住宅地だった、その丘の一つに瀟洒な赤レンガ作りのコステロ商会の別邸が立っていた。
その別邸の青い魔術道具の光に照らされた豪華な台所で二人の少女がおしゃべりしながらお菓子作りを楽しんでいた、少女の一人はエルマだった、白い純白のドレスに身を包み飾りは胸に下げた赤い宝石が嵌められたペンダントだけのシンプルな装いで、栗毛色の豊かに波打つ髪と濃い青い宝石のような瞳をした幼い美貌が映えた。
隣にいるのはベージュを基調とした子供向けの上等なドレスを身に纏ったマフダだ、どこか小動物めいた可愛らしい素朴な少女で、右手首に黒い玉石のブレスレットを嵌めていた。
「マフダ今日もそのドレスなの?」
「うん始めは綺麗なドレスを変えるのが嬉しかったけどこれに落ち着いたわ、育ちが貧乏だから贅沢に慣れないの」
「私も・・・」
二人はお菓子作りを談笑しながら手を休めない。
たまに目が死んだ幽鬼の様な使用人が通りすぎて行くが、二人は気にも停めなかった。
「貴女達ここにいたのね」
何時の間にかまったく気配を感じさせずに台所の入り口からドロシーが中を覗き込んでいた。
「どうしたのドロシー、ポーラの処に行ったと思ったのに」
「エルマ油が見つかったのね」
「炊事場にあったわ、ねえマフダ」
「そうですドロシーお姉さま」
「私達は食べなくて平気だから用意してないと思ったのよ、ここには本当に何も無いし」
ドロシーが少し弁解じみた言い訳を始めた。
「でも使用人はいるでしょ?使用人の炊事場から借りてきたのよ」
「うかつ」
「もうドロシーなんだから」
二人の少女はキャラキャラと白い牙を覗かせて笑った。
「でもお菓子作りの道具は無駄じゃなかったわよ、使用人の炊事場には無かったから」
笑うのをやめたエルマが最後にそう言った。
「そうだ忘れてた、招かざるお客様が来た」
ドロシーの纏う空気が突然変わった、見えない透明な壁の様に固く空気が凍てつくのを二人の少女は感じていた。
「ドロシー誰か攻めてきたの?」
「上のお屋敷に侵入者、アイツラが来ている、一度部屋に戻るからあなた達も早く戻りなさい」
その瞬間ドロシーの姿が二人の前からかき消えた。
「もしかして蛇女が来ているの?ひいっ!!」
エルマが震え上がった。
「ジンバー商会の人達を二つにした娘ね?」
マフダの問いかけにエルマが機械人形の様に首を縦に振る、マフダも続いて震え上がった。
「ガラス玉の様な青い目をしていたのよあの娘、遠くからでも何故かわかったの」
「とにかく戻りましょうよ」
二人はお菓子づくりを放り出して台所から駆け出して行った。
その頃コステロ商会の別邸をルディ達がくまなく探索していた、今回は老魔術師のホンザも一緒だ、魔術陣地に詳しい彼がいなければ魔術陣地の発見は不可能だった。
ホンザは屋敷の中で何度か術式を行使していた、それが何度目かになるとそれまで静かに見守るだけだったルディがついに口を開いた。
「ホンザ殿何か解ったか」
「何の反応も無い、この世界から僅かにズレた世界に精霊力の波動を送り込む、あってはならぬ物があれば影が見えるはずじゃ」
するとルディのペンダントが突然声を発した。
『遅れてすまぬな、ホンザよ土精霊術の魔術陣地はこの世とあの世の狭間のズレた世界に作られる、あの世とは幽界の事じゃろ?ならば死霊術はどうじゃ?儂も気づくのが遅れたわ』
「しまった、死霊術などと言われているが、魔界の精霊の力を借りた物だ、ならばあの世とは魔界の事になるいくら探しても見つからぬわけじゃ!」
ホンザの言葉から彼の悔しさと恥ずかしさが感じられた。
『死霊術を研究せねばならぬのう』
「そうですアマリア様、無知では彼らと戦えません」
アゼルもそれに賛同した。
「しかしどうやって学ぶ、資料を強奪するかのう?」
ホンザがさらりと物騒な事を言い始めたので、皆が老魔術師に注目した。
「僕にアテがあるよ、前に死霊術師の家を突き止めたんだ、キノコとカビで崩れそうなオンボロアパートだったけど」
ベルの発言に今度は皆の視線が彼女に集まった。
「ベルその話は前に聞いた事がある、たしか新市街の魔術師ギルドにいる女だな?名前はリズだったか」
「そうそうその女の人だよ、触媒臭くて博物館から盗まれてきたミイラみたいだと思った」
「私も思い出したのです、前に捕まえた事のあるお漏らしオバサンなのです」
ベルとコッキーがさり気なく酷い事を言い並べていたが、それに誰も何も言わなかった。
やがて彼らは街に引き上げる事にした、彼らが去った後も何事も無かったように人の気配の絶えた舘は佇んでいた。