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アラティアの美姫

「愚かしい」

エルニア大公妃テオドーラは後宮庁の執務室の椅子の上で低い声で吐き捨てた、大公妃の執務室は趣味の良い東エスタニア風の重厚な調度品で飾られていたが、見る目のある者ならば北方世界の影響を受けている事がわかるはずだ。

彼女の背後に侍る侍女がそれを聞き咎め眉を動かしたが賢明にも口を閉ざしている。

テオドーラは自らを落ち着かせるように湯気を立てるティーカップに口を着けた。


「あの男また女に色目を使いおって、それも得体のしれない不気味な者だと言うに」

あの男がセイクリッド大公を指すのは侍女にも理解できたが、それを嗜める気は彼女にはなかった。

大公夫妻の仲が冷めきっているのは誰の目にも明らかだが、大公妃は表向きあの男を最低限大公とし立てている、こうして親しい侍女の前では本音を吐露したいのだ。

ちなみに侍女はテオドーラがアラティアから連れてきた腹心のラッテと言う名前の女だ。


「テオドーラ様、女とは難破船から発見された者の事でしょうか?」

大公妃は動きを止めるとティーカップを置いて後方にいる侍女に振り向く。

「呆れた事、貴女にも噂が聞こえていたのね、どこから機密が漏れるのかしら」

ラッテは半分は貴方様ですよと内心で呟いたが、他にもテオドーラにおもねる官僚や執事や侍女達が大公妃お気に入りの彼女にいろいろ漏らす、そしてそれらの情報の一部は極秘にアラティアに流されていた。


「とはいえこの度は流石に呆れたわ、あれが人なのかすら定かでない、あ奴がどのくらい漂流していたか知りませんが、妙に元気そうで気味が悪い事」

テオドーラは妙に饒舌になっていた。

「魔術師はごく普通の人間だと言っているそうですよテオドーラ様」

「耳が早いわね、しかしあやつ以外の乗員はどうなった?箝口令が敷かれて詳しいことは何もわからぬ」

テオドーラは手紙をしたため始める。

侍女はそのまま主人の仕事を邪魔せず静かに見守っていた。


「魔術師共は知識は豊かだが知恵があるとは限らぬ、未知の大陸からどれだけ流されたか知らぬが、あれに不審を感じぬとしたら知識を活かせておらぬ証拠じゃ」

「実はそう考える方々も多いようです」

テオドーラは手を休めずに無言で頷いた。


書き終えた手紙を蝋で封じ薄い木の箱に入れると、黒い上等な布で包み紐で縛り更に封蝋を押した、部屋に溶けた蝋の臭いが漂う。

「ラッテ、これを大使に渡して」

大使とはアウデンリートに駐在しているアラティア大使の事だがこの主従に説明はいらなかった。


「畏まりました」

忠実な侍女はそれを更に皮の鞄に収めると一礼し執務室から下って行った。



テオドーラは茶を飲み干して一息つくと呼び鈴を鳴らす、隣室に控えていた別の侍女が姿を現す。

「大公妃様およびでしょうか」

「ルーベルトの所に行きます」

「畏まりました、しばらく待ち下さい」

侍女は控室にイソイソと下がると、使用人を呼びつけ先触れを出すなど手配を始めた、大公妃ともなれば何をするにしても一々手間がかかるのだ。




アウデンリート城の奥殿の一角が歴代の大公家の子弟に割当られていた、姫は更に奥まった後宮の一角に居住する決まりだが大公家に現在姫君はいない。

エルニア公国第一継承者ルーベルトは彼の私室で母大公妃の来訪を待っていた、先触れが来てから大公妃が来るまで時間がかかる、それまでに最低限の身だしなみを執事に整えさせて待つ事三十分ほど侍女を引き連れ大公妃が部屋にやってきた。

ルーベルトは立ち上がり大公妃を迎えるとテオドーラを上席に導いた、部屋付きの執事が軽い飲み物を彼女に饗じる。


息子が席につくのを待ってからテオドーラは口を開いた。


「急な事で迷惑をかけたわね」

「ところで母上なんの御用ですか?」

テオドーラは僅かに眉を顰めた、息子の言葉に僅かに棘があったからだ、そしてその理由を考えて気づいた、異邦人の娘との謁見の場に呼ばれなかったからだろうと推理する。

だがまずはここに来た目的が先だ。


「あなたに話があります、お前にいよいよ公務を担ってもらいます、その話をしに来ました」

「しかし父上は?」

テオドーラは薄く笑った。

「仕事熱心な御方ではありませんが、他人に任せるのは嫌な御方、でも今は国内外が騒がしい状況です、お前にも次代の大公として経験を積んでももらわなけば、むしろ諸国と比べると遅いくらいだわ」

ルーベルトの顔が僅かに曇った、彼には根本的に自信が欠けている、決して頭が悪いわけではなく学問の成績は母親の贔屓目を取り除いても優秀だ。

だが疎外されると拗ねるが、いざ責任を求められると躊躇する、そんな気性が父親に似ているとテオドーラは感じてため息をついた。


「これは宰相も賛成しています貴方にも後日正式に話が行きますよ、その前に貴方の正式な婚約者を決めなければなりません、成人した男とみなされませんからね」

「それは・・・」

「カミラとの手紙のやりとりはしているのね?」

カミラとはアラティアの王族から王家に養子に入ったカミラ王女の事だ、ルーベルトの婚約者候補の一人だ。

「はい、彼女は誠実で心優しいかたです」

ルーベルトの表情が和らぐ、テオドーラは息子がカミラに好意を感じている事を喜んだ。


「あなたとカミラの会談がまとまりかけていたのですがそれが厳しくなりました、理由は解っていますね?」

「はい解っております母上」


先日クライルズ王国から晴天の霹靂でルーベルト公子とマルチナ王女の婚姻の申込みがあった、これが宰相の仕込みと見切ったテオドーラは慌ててルーベルトとカミラと話を進めようとした矢先、今度はアラティア王国と敵対するグティムカル帝国との戦争の危機に揺らいでいる。

戦争当事国との婚姻に躊躇する声がエルニア内部から出てきたのだ。

逆にグティムカル帝国の脅威に対抗するために同盟を深めるべきだという声もあがっている。


「政略とは言えお前とカミラが無理なく親しんでくれれば良いと気長に考えていましたが、いよいよ急がなければならなくなりました、グティムカルの脅威がある以上宰相も考えを変えるかもしれぬ」

「では、このままカミラ王女との話を進めるのですか?」

「妾はそのつもりです」

「ええ、わかりました母上」



「ところで遭難者との謁見はどうでした母上」

テオドーラは息子にどう謁見を説明しようかと悩んでから気づく、ルーベルトには身分の貴賤に関わらず謁見の内容を漏らしてくれる様な人物が居ないのではないかと思ったのだ。

「母上?」

一瞬そんな思いに浸っていたが息子の声に気づき先を進める。


「異国の娘は言葉がわかりません、どんな者か一目見たいと思いましたが以外に普通の娘で落胆しましたよ」

テオドーラは皮肉に笑った、未知の大陸の人間をひと目みたいと期待をしていたのだ。

だが謁見の時の不愉快な出来事を息子に話すつもりは無い、テオドーラは怒りや落胆を押し殺し心を落ち着かせて平静を装った。


その後は取り留めのない母子との雑談となった、だがそこに後宮庁から来客を告げる使いがやってくるとそれも終わる、テオドーラは時計を見てため息をついた。

「もうこんな時間か、妾は引き上げねばなりません」

ベルを鳴らして豪華な椅子から立ち上がると、控室からお付きの侍女が出てくる。

「ルーベルト、貴方はカミラとしっかりと向き合いなさい、手紙のやり取りは欠かさぬようにいいですね」

最後にそう言い残すと大公妃は侍女を引き連れ帰って行く。


ルーベルトは一息つくと、豪華な黒檀の机の側に動いた、そして文箱に手を伸ばした、滑らかな黒い樹脂で塗り固められた文箱は魔術道具の明かりを美しく照り返していた。

その中から美しい透かしの入った手紙を取り出す、薄い若草色に染められ香水の香りを染み込ませた極上の紙だ。

そこに書かれた文字はアラティア人らしい癖がある、それでいて繊細で美しい上品な筆跡で書かれていた。

ルーベルトはそれを愛おしげに手に取ると香水の香りが漂う、壁に飾られた釣り絵の中の彼女は美しい、噂では本当に美しい女性だと言われている、まだ一度もあった事のないカミラに思いを馳せた。






アウデンリートの遥か北方、エルニア公国とベラール湾を挟んだ北の地はアラティア王国の版図だ。

アラティア王国は建国してから300年の若い国で、その王都ノイクロスターはアラティアの中心から少し東に外れた地にあり、王都を流れるベーネル河を下ると東方絶海に面した要塞都市エメロールに至る。

五十年前にエメロールからこの地に遷都された、計画的に設計された新王都は東エスタニア有数の美しい街と言われている。

王都はなだらかな丘陵に囲まれその上に有力貴族の豪壮な邸宅が立ち並んでいる。


その北側の丘の上にアラティアの王家の流れを汲む名門貴族ダールグリュン公爵家の邸宅があった。

ダールグリュン家の現当主に二人の男子と二人の娘がいるが、長女のカミラは形式上王家の養女になっていた、王家に政略結婚に利用できる年頃の姫がいなかったからだと言われていた。

公爵家は建国王の次男から別れた分家で王家から降嫁した事もあり王家の予備とも言える名門貴族だ。


白い白亜の大理石で造られた邸宅はテレーゼ様式を濃く引き継ぎ、夢の中の城の様に幻想的なまでに美しい。

防御を意識しない平時の館だが、三代前の趣味人の当主が城を意識したデザインを取り込んで立て直した、その館は王都でも一際その存在感を誇示していた。


その館の南に面した部屋の窓から王都を見下ろす若い娘がいた。

彼女は開け放たれた窓から王都を見下ろす、街のあちこちに星のように明かりが灯り、王城の周囲は篝火で一際明るく輝く。


「カミラ様、夜風が冷えてきました窓をお締めします」

彼女の背後に侍していた侍女が進み出るとそっとガラス窓をとじた。


窓ガラスに彼女の美しい顔が写る、赤みが僅かに混じる腰までの金髪はまるで赤銅のようだと言われ、北方の民の血が混じるアラティア人らしく、白い貌と濃い青い目をしていた。

背丈はアラティアの貴族女性としては普通だが、線の細い女性で幼い頃は病弱だった、白いゆったりとした夜着を纏い、上に厚手の赤みがかかった豪華な室内コートを羽織っていた。


カミラはしばらくそのままガラス越しに外を眺めていた、侍女は何も言わずに主人の思索を妨げようとはしない。

やがてカミラは窓を背にして振り返る。


彼女の部屋の中は派手な館の外見と違い非常に落ち着いたアラティア風の内装で纏められていた、壁も床も落ち着いた中間色の基調で、家具は高級な素材を活かす趣向で、趣味の良い内装は主人の人柄を良く表しているかのようだ。


そして気にいりの侍女は部屋の扉の近くに侍っていた。

ダールグリュン家の侍女の制服は黒を基調とし白をアクセントにした上品なドレスだが、趣味人の当主がテレーゼの高名なデザイナーに特注した意匠で、上品さを損なわず裾が僅かに短いなど、扇情的な隠し要素を盛り込んた意匠と言われ、今やダールグリュン家を象徴する制服になっている。


「つい考え事をしていたのです」


侍女は主人がこう言う時は何を考えているか聞いて欲しい時だと理解していた、忠実な侍女は主人の期待通りに言葉を発した。

「カミラ様はルーベルト殿下の事を思っていらしたのですか?」

カミラは少しはにかむように笑った。


「会談が無くなりルーベルト様に会えなくなりました、でも戦争になるかもしれないのに我儘は言えないわ」

「お嬢様これでかえってお話が進むかもしれません」

「戦争のせいで?そうね野蛮人が攻めてくるのかもしれないからかしら」

グディムカル帝国は長年にわたって南進を狙いアラティアと何度も争ってきた、その帝国が長い内乱を収め早々に外に牙を剥こうとしている、そのくらいは庶民も知っていた。


侍女もおおよそは正しいと判断したらしい。


「はいその通りでございますお嬢様」

カミラは嬉しいがそれを喜ぶのは不謹慎だと感じたのか困った様に微笑んでいる。

「ルーベルト様へのお返事が決まったわ、今から手紙をしたためます」


侍女はカミラが気鬱気味だったのでそれを憂慮していた、机に向かって元気に手紙を書き始めた主人を胸をなでおろしながら見守る。







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