異邦の娘
ジンバー商会の幌馬車が朝靄のまだ晴れぬ街道を二頭の騾馬に牽かれ大きな音を立てながらノロノロと進んでいた。
この街道は公都アウデンリートと港街リエカを結ぶ重要な街道で行き交う馬車と旅人で朝から賑わっていた。
馬車の御者台の上で御者当番のジムが手綱をとっていた、その隣にラミラが座る。
二人はまるで農夫の夫婦の様に見えた、大柄なジムは年齢より年上に見えた、ラミラは化粧でいつもより若く見せかけている、だがジムも本当のラミラの年齢は知らないし聞く勇気も無かった。
その幌馬車を後ろから来たエルニアの軽装騎兵の一隊が蹄の音も高らかに追い抜いて行く、彼らは細長い馬上刀で武装し焦げ茶色の革鎧を油で照り光らせた。
「これで二度目だね」
ラミラはそれを目で追いながらささやく。
「そうなんですか?ラミラさん」
ジムはそれを意識せずに見過ごしていた事に気づいた、そして自分の迂闊さを悔やむ、自分たちは情報収集が仕事なのだから。
「普段より多いのか少ないのかわからないけどね、だけど普段から意識するのは大切だよ」
ラミラは特にジムを非難するようでもなく答えた、だがこうした注意の積み重ねが仕事の結果に大きな差を招く。
彼らの報告が他の部署の情報と組み合わさり何かの手がかりにならないとは限らないのだ。
「すいません、ラミラさん注意します」
それから特に何事も無く馬車は進んだ、日が更に高くなる頃ラミラが突然鋭い声で警告を発した。
「前から五月蝿そうなのが来るよ!」
ジムが驚いて前方を見たがわからない。
「何です?」
「あそこに集落があるだろ、かなりの数の騎兵の一隊がこっちに向かって来る」
言われてみると小さな農村の素朴な家並みと街路樹の隙間から騎馬の集団の姿が見えた。
「良く気づいたっすねラミラさん」
まだその一団とは数百メートル離れていた。
エルニア風の皮鎧で固めた軽装騎兵の一団が一列になってこちらに向かってくる、その後ろに数台の馬車を連ねていた、その後ろからも騎兵が続く。
整備された街道なのでこのまますれ違う事ができそうだ、だがラミラは道を譲り馬車を道の端に寄せる事を選択した。
「ジム馬車を道端に寄せて停めて」
「えっ?わかりました」
ジムは幌馬車を道端に寄せてから停めた、周囲にいた馬車も道端に馬車を寄せて次々に停止させはじめる、すると馬車の奥から班長のローワンが御者台に出てきた。
「何かあったか?」
「あれを見てローワン」
ラミラが近づいてくる隊列を指差す。
「あれか、随分物々しいなこのままやり過ごそう、護衛は五十騎以上いるか」
ジムがふと後ろの馬車の中を見るとバートとデミトリーも御者台の後ろまで出てきて外を眺めている。
やがて騎馬の隊列が近づきジム達の馬車の横を勢いよく次々と通り過ぎていく、やがて馬車の車列がやって来た、馬車の横にも騎兵がいたのでどうやら道端に寄せたのは正解だったようだ。
四頭立ての大型の幌馬車が勢いよく通過していった、厳重に幌が閉じられ内の様子は伺い知れない、その後ろから厚手の布を被せロープで厳重に固定された荷馬車が二台続いた、再び軽騎兵の列が続いてアウデンリートの方に走り去っていく。
馬車の奥で誰かがため息を吐くのが聞こえる、後ろを見るとバートとデミトリーが馬車の後ろの隙間から外を観察していた。
「嫌な感じだ」
通過していく騎兵の隊列を見送っていたラミラが呟いた。
「嫌な感じっすか?」
ジムを振り返ったラミラは少し皮肉な笑いを浮かべていた。
「ああ悪いね、馬車になんか嫌な感じがしたんだ、時々あるんだよただの感さ」
ジムはどう答えたら良いのかわからない、細い目を更に細めて曖昧に笑うしかなかった。
「ラミラの感は馬鹿にできない」
背後にいたローワンが妙に真面目に答えたので、ラミラは肩を竦めた。
「あまり脅さないでくださいよ」
ジムは大げさに泣き言を言う、これから向かうリエカの漂着船の事を考えると良い感じはしない。
ジムは現実主義者なので予感や予言の類は信じない方だが、最近常識を揺るがす出来事が相次いで起きていたので背筋が寒くなり体が僅かに震えた。
「ジム行くよ?」
ラミラが催促したのでジムはそれで我に帰って慌てて鞭を騾馬に当てる、馬車は再びノロノロと進み始めた。
やがて一時間ほど進むと道は緩やかな真っ直ぐな登り坂になる、その頂上に昇るといきなり視界が開ける、長閑なエルニアの田園風景が目の前に大きく広がった、ジムは思わず讃嘆の声を上げてしまった、テレーゼは戦乱で放棄された土地の多くが森に還り、治安の良い一部の地域にだけ豊かな田園が維持されている。
こうした人の手が入った地平線まで広がる広大な田園風景は久しぶりだった。
その農地の彼方にこじんまりとした街の影が見える。
「平和だねえ、テレーゼのあちこちに行くけど酷いもんだよ」
ラミラも同感なのか感慨深げに誰に言うでもなくつぶやく。
「この地図だとあれはブーケの街だ、今晩泊まる街だ」
馬車の奥からバートが街の名前を教えてくれた、馬車はユルユルと坂を下り始めた。
エルニア公国の公都アウデンリートに聳えるアウデンリート城の城郭は傾きかけた日差しに黄色く照らし出されていた、交代が近い警備兵達が僅かに落ち着きを失くす時間だ。
城の奥殿に向かう通路を公国宰相ギスラン=ルマニクは案内の小役人に先導されなが歩む、彼は初老の痩身長躯の男で知的で覇気に満ちている、その目元が酷薄な印象を彼に与えていた、その彼の顔はいつになく厳しくその口は引き結ばれていた。
今彼は城内の小謁見室に向かっていた、その小謁見室は城の最も奥深くにあるのだ。
案内の小役人も幾分か顔色が悪い、二人は警備がいつになく厳重な部屋の扉の前に到着した、扉は皮張で真鍮の鋲と飾り留めで補強され豪奢な物だが大謁見室と比べると半分程の大きさしかなかった。
小謁見室は内々の賓客に謁見する場であり使われる事は少ない、公式な使節との謁見は大謁見室で行われる、そして大公の私的な賓客は大公の私室に招かれ、事務的な交渉事は役所の密室で行われるからだ。
「大公妃様はご到着されました、大公様はまだでございます」
扉の側に控えていた執事が深く頭を下げるとそう述べた、大公より早く到着したのは良いが大公妃はすでに来ているらしい。
僅かにギスランは眉を顰めた、本来は大公夫妻は一緒に現れるべきだが夫婦仲が冷めきっているのだ、聡明で冷静さを讃えられたテオドーラ大公妃はここ最近妙にせっかちになっている、思えば数年前にアルムトから当世最高の精霊宣託師を招いた後からだったと思う。
そんな思いにふけったギスランの目の前で扉は開かれた。
部屋の奥の一段高い場所に大公が座する儀礼用の椅子が鎮座していた、横には大公妃の椅子が控える、だが今は座る者はいない、背後に目の覚める様な真紅の幕が張られ、部屋全体が魔術道具の明るいオレンジの光で満たされていた。
ギスランは貴人用の控室の豪奢な扉を一瞥した。
そしてギスランの目に物々しい装備をした数人の警備兵と二人の魔術師の姿が目に入る、彼らは部屋の左の隅に壁を背にするように集まっていた。
魔術師のローブの紋章から上位魔術師だとわかったが彼らはギスランの知った顔だ。
彼らは皆ギスランに一礼する。
そんな彼らに囲まれた中に人の姿が僅かに見える、好奇心にせかされたがそれに耐えた、若い執事に先導され部屋の奥まった場所にある宰相の椅子に招かれそこに座った。
部屋の片隅に魔導庁長官のイザク=クラウスが既にいた事に気づいた、この老人も上位魔術師だが今は文官の仕事に専念している、黒いローブを纏っているせいでそこにいる事に気づかなかった。
すると控室の扉が開かれテオドーラ大公妃がその姿を表した。
今だに美しい大公妃は短い階段を昇ると大公妃の椅子に腰掛けた、彼女の目は壁際の一団に向いていた。
そして扉の前が騒がしくなると開かれる、エルニア大公セイクリッド=イスタリア=アウデンリートその人が姿を表した。
大公は濃い黒髪に長身で大柄な体躯だが、長年の不摂生と飲酒で締りが無い体をしている、ギスランより若いはずだが年老いて見えた。
面影はルディガー公子に似ているところがあるが、ルディガーの様な若さも覇気も欠落している。
セイクリッドは壁際の一団を見て足を留めたが、やがて奥に進むと階段を登り大公の儀礼用の椅子に腰を下ろした。
だが大公夫妻はお互いに顔を合わせず挨拶すらしようともしない。
僅かな沈黙が続いた、壁際にいた武装した一団が大公の正面に移動すると、階段の両側に儀礼服を来た衛兵が立つ。
魔導庁長官イザクが重い腰を上げ大公の正面に移動すると口上を述べた、これは形式的な物で何の為に集まったのかギスランは百も承知していた。
「この者が報告にありました漂着船で見つかった唯一の生存者で御座います」
護衛が前を開けるとそこに奇妙な服を纏った若い娘が姿を顕した、跪きうつむいているので長い白銀の髪が嫌でも目立つ、細身な様だが背の高さはわからない。
普段無気力なセイクリッド大公も関心があるのか食い入るように異邦人の少女を見詰めていた。
ギスランは既にリエカの責任者から彼女とは言葉が通じないが高い文明世界の人間だろうと報告を受けていた、もしかしたらエスタニア大陸以外の人間に初めて面会した君主がこの大公かもしれないと思うと微妙な気分になった。
だが今だに彼女の故郷の世界の情報、遭難の経緯など引き出せていない、まだ彼女について調査が必要だがギスランも含めて一目みたいと言う要求からこの会見は設けられた。
「面を上げよ」
セイクリッドが命じると、彼女の側にいた魔術師が手振りで指示を出すと娘は顔を上げた。
ギスランは彼女の素顔を見て戦慄した、女はあまりにも人離れして美しかった。
髪は長い白銀で肌の色は薄く日に焼け、細い顎と切れ長の目の繊細な美貌からギスランは妖精族を連想した、慌てて彼女の耳を確認すると若干長めだがごく普通の人の耳だ。
そこで深く安堵してから息をはいた。
冷静になると娘の年齢は二十歳前だろうと見当をつけたが正確なところはわからない、服は汚れていないので謁見に備えて整えたのだろう。
服の意匠は植物の葉や蔦を型取り、古代文明の意匠にどこか似ている様に思えた。
しかし遭難者とは思えないほど健康的に見える、リエカで手当を受け十分な食事を与えられていたとは言えそれに不審を感じたのだ。
彼女は服以外まったく身につけていない、報告では魔術道具らしきものを所持していたとあった。
深緑の瞳は澄んで美しかったが感情を表す物が何もないそれを僅かに不気味と感じた。
ギスランはその少女の服装と態度から、報告の通り文明人だろうと納得したが改めて深刻な懸念を感じていた。
世界の目がこのエルニアに集まるのは好ましくなかった。
未知の世界の難破船が漂着した事はもう隠せない、場所が最悪でリエカ岬ではすでにその報告はエスタニア全土に広がりつつあるだろう。
片手で額を抑えてからもう一度娘に目を向ける。
「立つが良い」
再びセイクリッドが命じた、側にいた魔術師が手振りで指示を出すと娘は堂々と立ち上がる、彼女は気品こそ感じるが見慣れない仕草で礼をとる、誰もそれを咎める者はいなかった。
ギスランはその肢体に密かに感嘆した、豊満とは言えないが庇護欲を誘うような華奢で繊細な体の線をしている、どこか物語的な非現実的な美しさを誇っていた。
その娘は突然命が吹き込まれた様に妖艶に微笑んだのだ、ギスランはそれに驚いたが娘はこちらを見てはいない。
なぜか不吉な予感がして玉座を見上げた。
セイクリッド大公が異邦の娘を凝視している、彼の目は熱を持ち熱く爛れていた、反対側に座るテオドーラ大公妃が彼を見る目は軽侮に冷め、そして冷たい怒りに燃えている。
そしてテオドーラ大公妃と視線が交差したのでギスランは思わず目を逸してしまった。
エルニアの多くの厄介事はこうやって生まれてきたのだ、豪族や大商会の娘に手を出し大公家の威信に傷をつけてきた、今度はよりによって得体の知れない未知の世界の娘だ。
ギスランは嫌な予感がしていた、そして心の奥底から怒りが湧き上がる。