街の灯り再び
エルヴィスが目を覚まし瞼を開くと薄汚れた黄ばんだ天井が目に入る、それは見慣れた天幕の天井だった、しかし意識がはっきりとしない。
「おい、なんで寝ているんだ?」
天幕の外からラウルの声が聞こえて来た、エルヴィスは寝ぼけたままよろめくように立ち上がると天幕の外に出た、すでに陽は昇り東から強い日差しがオアシスの疎らな緑を鮮烈に照らし出している。
思わず空を見上げると雲ひとつ無い快晴で昼間の星が見えそうなほど深く蒼い。
エルヴィスはラウルの声がする方向に向かった、ちょうど荷役人の男が立ち上がったところだ。
「ラウルどうしたんだ?」
呼びかけるとラウルは苦笑しながらこちらを振り返った。
「なに、こいつ見張りのくせに寝ていやがった」
「すみません、いつのまにか寝てました」
荷役人の男は恐縮しながら謝った。
だがエルヴィスはそれに疑問を抱いた、この男はもう一人の荷役人と一緒に最初の見張り番に立ったはずだ、見張りを交代していなかったのだろうか、エルヴィスも記憶を探るが自分も見張りの引き継ぎをした記憶がなかった、たしか次は用心棒のはずだった。
まさか昨夜は見張りが居なかったのか?
「用心棒は何処だ?」
その時ちょうどその本人がやってくる、後ろからもう一人の見張り役の荷役人もやってきた。
「エルヴィス昨夜異常な事が起きている、見張りが全員寝ていたぞ、次の見張りも我を含めて眠ったままだった、なぜかお前だけが天幕の中で寝ていた、何が起きたか知っているか?」
エルヴィスにも思い当たる事は無い、その瞬間泣きかけたドロシーの顔が脳裏に鮮明に甦った、暖かく柔らかな彼女の肌の温もりと僅かに香る血の匂い、目眩くめく魔性の快楽に溺れた記憶が甦る。
「エルヴィスどうした?」
ラウルがこちらを気遣うように眺めていた。
「覚えていない疲れていた様だ、皆んなも疲れていたんじゃないか?」
エルヴィスはそう誤魔化した。
そして自分が命令を下さなければならない事に気づく、まだ頭がどうにも動かない。
「とにかく出発の準備をいそごう」
ラウルと荷役人達は朝食の準備にさっそく取り掛かる、他の天幕の荷役人達も目覚めて外に出てきたところだ。
だが用心棒はまだ納得していない様子だった、その時までにエルヴィスは昨夜何がおきたか完全に思い出していた。
夜の砂漠が魅せた蜃気楼の様な刹那の夢の後、闇妖精は砂漠の砂の上に両の足を僅かに付けて浮かんでいた。
彼女の肌を染めていた血の色は引き、彼女の肌から人らしい温もりが失われアラバスター細工の様な非人間的な美しさを取り戻していく、それをもどかしい苦しみと共に見送るしかなかった。
彼女をこうしたのはエルヴィスにも責任があるのだ、そんな自責に今になって苦しめられる。
あの時こうしていれば、それは今となっては手遅れだ。
「ありがとうエルヴィスさん、受け入れてくれて」
闇妖精は嫣然と微笑んだ、すでに爛れ潤んだ目の色は失せて静かな落ち着きを取り戻している、人だったドロシーも見せた事の無い落ち着きと静謐すら感じさせる容貌、だがその目はエルヴィスを越えて遥か遠くを見ていた。
「これからずっと一緒、これで貴方が世界の果にいてもわかる」
闇妖精はその嫋やかな両の腕で自分自身を抱きしめた。
「俺と一緒に来るか?」
エルヴィスは思わずそう誘っていた、だがすぐに後悔する仲間に説明しようが無い事に気づいたからだ、やはり頭が良く回らない。
闇妖精は頭を横に振った、笑うような哀しいような不思議な顔を魅せた。
「そうできたら楽しそう、でも日の光の下にいられない、先に砂漠を渡って待っているわ」
エルヴィスはまた混乱した闇妖精は地上を死の世界に変えるのが目的では無いのか。
「ドロシー、お前はこれから何をしたいんだ」
「100年くらいのんびりすごしたい、その時になったら考える」
ドロシーは薄く笑った、そしてエルヴィスは彼女の時間感覚に戦慄した、闇妖精は数万年の時を生きる事ができるのだ。
ちょっと休暇をとる感覚なのか、もしくは何かを隠そうとしているのか解らない。
「エルヴィスさん、いえエルヴィス、貴方は永遠を欲しくない?」
エルヴィスは一歩退いた、それは闇妖精の眷属になる事を意味する、ドロシーはエルヴィスが考えている事に気づいたらしい。
「そんなつまらない事はしないわ、その気ならとっくに貴方を眷属にしている」
ドロシーはエルヴィスが落ち着き話を聞く気になったのを見届けると先を続けた。
「私の知識が教えてくれた、人は妖精族に仕える為に妖精族から造られたのよ」
エルヴィスは驚愕した、学者ではないが美術品や骨董品の贋作など仕事柄か並の人間より深い知識と教養を身に着けていた、人が先か妖精族が先なのか、それが魔術師や学者達の間で長年の論争になっているのを知っていた。
「人の中から妖精族に近い者が生まれる、それが魔術師の正体、これを知る事ができただけでも後悔しないわ」
「まさか俺を妖精族に?」
ドロシーはすこし困った顔をしてから否定した。
「闇妖精族ですよ」
「そんな事ができるのか?」
ドロシーは誘うように微笑むとうなずいた。
「時間をかけて貴方を変えて行くの、私の血と体液を少しずつ染み込ませて」
嫣然と笑うとその瞳が怪しく濡れた、ふわりと地を滑るように目の前に迫る。
「愛し合えばそれはかなうわ、時間がかかるけど時間はいくらでも有るもの、誰にも邪魔させない」
そうささやくと闇妖精の壮絶なまでの美貌が迫る、その真紅の唇が近づく、微かな血の香りを感じると体が熱く痺れた、そして湿った冷たい彼女の唇がエルヴィスの唇に触れる。
そしてゆっくりとエルヴィスから離れると宙に浮き上がる。
「窓から空を眺めてあの雲のように遠くに行けたらと思った事があったわ、翼を手に入れたから何処までも飛んで行ける」
膨大な瘴気が彼女の周りに集まり始める、しだいに黒い霧に包まれ何も見えなくなった。
それが落ち着くと歪な黒い大きな球体が現れた。
球体は不気味な音と共に裂け、皮が剥けるように広がって行く、そこに巨大なコウモリの羽を広げたドロシーが姿を現した。
「私には見たい事したいことがある、この子を残して行くからかわいがって、でも日には当てないで、エサは血を少しあげればいいから」
小さな羽音がすると一匹の小さなコウモリが飛び回ると椰子の実にぶら下がる。
ドロシーの巨大な羽から力を感じると空高く昇り始めた、翼が羽ばたくことも無く音もせず静かに瘴気の痕跡を残しながら、やがて小さな力の爆発が生じると矢のような速度で東の空に向かって飛翔し姿を消してしまった。
『じゃあまたね』
最後に心に別れの言葉が伝わる、そして彼女の残した瘴気も消えていった。
その後どうやって天幕に戻り寝たのかまったく記憶が無ない。
エルヴィス達はその後はアンナプルナ山脈に沿って南下するだけのルートを順調に旅を続ける。
仲間達はずっと追跡者の影に怯えていた、だが追跡者が姿を現す事は無かった、そして二日後の夕刻にエスタニア大陸を東西に結ぶ交易路にたどり着いた。
そこには緑豊かな大オアシスと宿場街が栄えていた、その街の名前はシャルラと言う。
ここから東に四日程進むと砂漠を横断しアルシラの街に至る、西に向かうと十日程の行程で交易路の終点パラミティアに至るのだ。
アンナプルナ山脈は大きな山脈が南北二列に走っていた、道は山の中を縫い峠を二つ越えて西エスタニアを結んでいた。
その日は野営ではない久しぶりにまともなベッドで眠る事ができる、荷役人達に固く口止めし話を合わせる、そしてアルシアに帰る者に俸給を払うと解放してやった、彼らは荷役人専用の宿に向かったが彼らの足取りは心なしか軽い。
エルヴィス達は安宿の大部屋を貸し切りそこに宿泊する事に決める。
まともな食事と睡眠が久しぶりに手に入った、食事を取り部屋に集まるとエルヴィスは全員を見回す。
「パラミティアに着いたら今後の事を決めよう、アンソニー先生もそれでいいかい?」
「しょうがないよ、ペンタビアに戻るのは不可能だからね、これからどうするか僕も考えるよ」
先生は寂しそうに笑った。
「監督に渡す手紙を書くから奴に渡してくれ、監督を連れてアルシラから直ぐに脱出してくれ、リーノもいいな時間はあまりないぞ?」
監督とはエルヴィスの仲間の荷役人監督の男の渾名だ、用心棒はすぐにうなずいた、リーノも少し悩んだようだが受け入れた。
「少し知り合いがいるんだ、心配しないように伝えるだけだよ」
「アイツが無事でなかったら、深入りせずにパラミティアに来てくれ、相手は国だ忘れるなよ」
「解った深入りはせぬ」
用心棒もそれは解っているらしく直ぐに応じた。
だがそうは言ったがペンタビアの本隊が壊滅している以上、彼らとの連絡が途切れた本国は混乱しているはずだ、彼らは現地で何が起きたか把握するのに注力するそれに期待をかけていた。
エルヴィスは久しぶりの食事と柔らかいベッドの感覚で急激に眠りに誘われる。
意識していなくても疲労が溜まっていたらしい。
エルヴィスは背嚢の口に手をそっと差し込んだ、小さな痛みを手の甲に感じる、背嚢の奥底に小さなコウモリが大人しく潜んでいた、噛まれるとそのコウモリが闇妖精のドロシーと意識を共有している事が感じられるのだ、その小さな痛みすら不思議と心地良い。