闇妖精の抱擁
眩しい光を顔に浴びてエルヴィスは目を覚ました、遥か彼方の地平線から太陽が昇ろうとしている。
砂漠の砂丘が黄色みがかかった白い砂の上に長い影を落としていた。
しばらく自分が何処にいるのか思い出せなかった、意識がはっきりしてくると夜遅くまで大斜面を下って途中で野営をした事を思い出した。
昨日は環状の蛇の神殿から森の中を移動しここまで歩き続け疲労が溜まっていた、おまけに岩だらけの場所で寝たので体のあちこちが痛む。
昨日遭遇した連中がペンタビアに属する者ならば、彼らが戻らなければ薄明とともに捜索隊を出すはずだ。
用心棒も起き出し体についた埃をはらっている、エルヴィスはまだ寝ているラウルを軽く蹴った。
「みんな起きろ、出遅れたぞ」
急いで皆を起こした、やがて全員目を覚ます。
携帯食をかじるだけの朝食を素早く済ますと再び坂を下り始めた、砦の野営地から大斜面の上の見張り台まで半時間ほどの距離しかないのだ。
夜の間に大分斜面を下っていたらしく眼下にオアシスの緑が大きく見えた、紺碧の水面が朝日を反射して神秘的に輝く。
だがその風景を堪能する余裕は無い、一行はひたすら追われるように坂を下った。
そこから一時間と少しで大傾斜を下りきった、そこで上着を着替え薄汚れた白い厚手のローブを纏った。
オアシスに近づいて遠くから観察したが人影は無い、それでも慎重にオアシスを迂回し南に向かう、その先に脱出した金庫番達がいるはずだ。
「エルヴィス、ラクダの足跡が前にある」
しばらくすると用心棒がラクダの足跡を発見した、前方に無数の人とラクダの足跡が残されていた、どうやら金庫番が足跡を消して隠蔽工作したようだが不徹底だったようだ。
「奴ら無事に逃げられたか」
「エルヴィスまだ早えよ、奴らの姿を見るまで安心できねえ」
エルヴィスの声に喜色が混じったがそれを感じたラウルが注文を付けた。
「ああ、そうだな行こうか」
そのまま足跡を辿り更に南に進む、しだいに高くなる太陽に少しずつ体を焼かれ始めた。
それから1時間程進んだであろうか、前方の砂丘の上に人影が三人現れると手を振る。
「あれはおっさんだな」
ラウルが心のそこから安心した様に軽口を叩いた、残りの二人は砦の野営地にいた傭兵二人だろう。
彼らも無事だったらしく金庫番と傭兵達が急ぎ足でこちらにやってくる。
「無事に切り抜けたな?」
エルヴィスは金庫番の肩を叩いて無事を祝った。
「ああ、一日遅れていたら逃げられなかった、お前の言っていた通りに大部隊がオアシスに来た時には驚いたぞ、なあこれしかいないのか?」
金庫番はエルヴィスチーム以外にアンソニー先生とリーノ少年しかいない事に不審をいだいたようだ。
傭兵達も仲間が一人もいないことに動揺しはじめる、彼らとは脱走兵の護送で少し親しくなっていたので、仲間の運命を教えるのに気が重くなる。
「全滅したよ、生き残ったのは俺たちだけだ、詳しい話をしてやりたいが、今はここから離れるのが先だ、追手が出ているかもしれない」
金庫番は絶句し頭を振る。
「なんだと親方達も地図屋もか?ザカライアの糞爺共も全滅か、お嬢さん達も・・・」
金庫番はそれを受け入れるのに暫く時間がかかった。
「エルヴィス、殺ったのはペンタビアの奴らか?」
「あとで詳しく話す、今はここから急いで去る事だ」
金庫番は二人の傭兵に視線を巡らせてからうなずいた、彼らに聞かせる事のできない話だと察したのだ。
「解った、何時でも動ける様にしてある来てくれ」
金庫番の案内でラクダ隊が待機している場所に向かう事になった。
「このままアルシラに行くのは危険だ、ペンタビアからそう遠くない」
歩きながらエルヴィスがラウルに話しかける。
「なるほどな、行くあてはあるのか?エルヴィス」
「南に進めば三日程で商隊路にたどりつく、そこから西エスタニアのパラミティアを目指そう」
パラミティアは西エスタニアの港街で、アルシラから西に伸びる交易路は砂漠を横断しアンナプルナ山脈のアルシラ峠を越えてパラミティアを結んでいた。
「荷役人達はどうするよ?」
「パラミティアなら皆んな慣れているはずだ、熱りが覚めるまでそこにいたほうがいいだろう、希望者はアルシラに戻すさ」
「監督はどうする?」
監督とはエルヴィスチームで荷役人の管理をしている男だ、彼はあちこちの荷役人ギルドに顔が効く、そして各地の運送業者とのコネがあった。
彼は荷役人の半数を率いてアルシラに引き返し待機しているはずだ、あの男も放置しておくと危険に晒される可能性が高い。
「奴を忘れてたぜ、連絡をとってパラミティアに来てもらうしかねえな」
「連絡ならば我がつけよう」
用心棒が何時もの奇妙な言い草でささやいた、リーノがそれに驚いた様な反応を見せる。
そこでエルヴィスは気になっていた事を少年に尋ねる事にした。
「リーノお前はどうしたい?アルシラに帰るか俺達と行くか」
少年は迷う様子すら見せずにすぐに答を返した。
「帰りたくない、ろくな思い出しかないんだ」
「わかったじゃあ俺たちに着いてこい」
「いいの?でも一度だけ戻りたい」
エルヴィスはあの街に何の用があるのか不思議に思ったが、街に知り合いがいるのかも知れないと考えた。
「わかった商隊路に出るまで一緒だそこで別れる、お前は用心棒と行って来い、此奴からはぐれるんじゃねえぞ?」
少年は大人しくうなずいた。
「そこにいる」
その時の事だった金庫番が前方を指差した、エルヴィス達は釣られてそちらの方に視線を寄せる。
百メートル程先の岩場で出発の準備を整えたラクダの一隊が待機していた、二十頭を超えるラクダと十五人程の荷役人達が最後の荷造りをしていた。
近くに小さな泉が見えたその周りだけ緑が生い茂っている。
エルヴィスは調査隊が陥った運命をどう彼らに説明するか改めて悩んだ、一応作り話を考えてあるが果たして皆が信じるだろうか。
エルヴィスはアンソニー先生を見詰めた、彼はこちらの意図に気づいたのか薄く笑う。
「適当に話を合わせるよエルヴィス君」
エルヴィスは荷役人達に雇い主のペンタビアが我々を裏切り口封じをしようとしていた事を彼らに説明した、雇い主の裏切り話はまったく無い話ではないので彼らに受け入れられやすい。
今回の旅が始めから異例尽くめだった事もあり彼らはそれを信じたようだ、そして金庫番が荷役人達を避難させた事も信憑性を高めた。
その争いで多くの者が犠牲になったと話を纏めたが、団長のザカライアもそれで死んだと説明すると彼らに動揺が走る。
そしてアルシラにすぐ戻るのは危険なので西エスタニアのパラミティアで熱りを冷ます事を提案した。
パラミティアは通商路の終点なので彼らは何度も往来している、見知った慣れた街なのだ。
また荷役人への残りの俸給は交易路に着いた時に支払うと約束する、荷役人達はあからさまに安心したようだ。
結局荷役人の中の七人はアルシラに戻る事を選んだ、彼らには家族がいるため戻るつもりだ、その後で彼らがどうなるかまではエルヴィスにもわからない。
彼らは追手の影に怯えながらひたすらアンナプルナ山脈の山麓を南に進む、このルートはオアシスが山脈に沿って連なり、迷子になる心配もなく砂漠を横断するより遥かに楽なルートだ。
恐れていた追手の姿が現れる事もなく、陽がアンナプルナ山脈の向こうに沈む時刻になった、そろそろ野営地を決める時間だ。
「ラウルあれが見えるか?」
エルヴィスは遥か南の緑の木々が茂る一角を指差した。
「オアシスだなここから二キロぐらいか、あそこにするか?」
「その先にオアシスがあるかわからねえ」
「そうだな」
エルヴィスは配下にあのオアシスで野営する事を宣告すると隊列をそのオアシスに向けた。
小さなオアシスに到着すると設営作業を開始した、ラクダから荷を降ろし天幕を組み立てる、野営地はすっかり規模が小さくなってしまった、一月前に砂漠を押し渡った隊列は今や見る影もなかった。
篝火は使えず炊事も魔術道具の熱を頼りにした、食事が終わるとエルヴィスチームの天幕に皆が集まり、魔術道具の防音結界を使用して機密を保った、そこで金庫番に環状の蛇の神殿の地下で何が起きたか話すことになる。
その信じがたい説明は金庫番を大層驚かせた、だがエルヴィスはドロシーとシーリの末路を明かす事は無い、ドロシーの成れの果ての闇妖精を守りたいそれがエルヴィスの妄執と化していた。
そしてそれが終わると早い就寝の時間となる。
魔術師が失われ肉眼で周囲を監視するしか術が無くなり、寝ずの番を立て安全を確保する事に決まった。
魔術師のおかげで熟睡できる夜に慣れかけていたが、また昔に戻ってしまった。
今だに追手の不安は消えていなかった、エルヴィスは最初に見張りを務める事に決まった。
荷役人からも二人が見張り役に選ばれ三人で周囲を監視する、深夜に交代するまで砂漠の彼方を見張る退屈な仕事をこなさなければ成らなかった。
エルヴィスが外に出ると野営地には天幕が五つしか無い、寂れた野営地を眺めながら失われた者達を振り返る。
小さなオアシスの周囲でラクダ達が体を休めていた。
空を眺めると薄曇りで雲の隙間から星が時々顔を覗かせる、風が強いのが雲が千切れながら東に流れて行く。
その空を何かが横切った様な気がした、目を凝らすが何も見えない。
しばらくすると小さな羽音が聞こえて来た、小さなコウモリが椰子の実に逆さまにぶら下がる。
コウモリは小さく鳴くと羽ばたきオアシスの空に舞い上がった、そして誘うようにクルクルと回ると砂漠の空に飛び去って行く。
すぐに甘美な甘い芳香が辺りに漂う、エルヴィスはそれに惹かれて夢遊病者の様にコウモリの後を追いかけた、前方から白い霧が吹き寄せて来る、この時刻に砂漠で霧はありえない、鼻の先が見えないほどの濃霧がオアシスを包み込んだ。
ラクダ達は不安げに辺りを見廻していたがすぐに彫像の様に動かなくなる。
その濃霧の中をエルヴィスは進んでいく、その先に逢いたい者がいるはずだ。
白い霧が薄れるにつれ視界がひらけると、エルヴィスの目の前に壮絶なまでに美しい全裸の女性の姿が露わになった、それはまさしく闇妖精のドロシーだ、だが彼女は砂の上に立ってはいない人の背丈の半分ほどの高さで宙に浮いていた。
「ドロシーなのか?」
「そうですよ、エルヴィスさん私です」
ドロシーは柔らかく微笑んだ、その微笑みがドロシーに重なる、胸の痛みとともに涙が溢れた。
エルヴィスは彼女が目の前にいるようなそんな気持ちになった、いよいよ甘い甘美な芳香が強くなる。
「おいまだ裸なのかよ?ドロシー」
「服を見つけたのに襤褸にされてしまって、スザンナに叱られるわ」
ドロシーは唇を尖らせて横を向いた少し不機嫌に見える。
「誰にやられたんだ?」
「ペンタビアの奴らよ、もういないけど」
エルヴィスはペンタビアを敵に廻した事を思い出した、そして目の前の美しい女がドロシーの成れの果ての闇妖精である事も思い出した。
慌てて頭を振って意識を強く保つ。
「もういないだと?」
「全滅させました、いろいろ恨みがありますので」
「そうだった、お前はドロシーじゃあないんだ、アイツは死んだ」
「そんな事言わないでください、私はここにいますよ!!」
ドロシーは激しい口調で身を乗り出すと胸に手の平を当てた、泣きそうな顔をしているがどこか作り物めいて見える。
魂が混じりあったとこいつは言っていた、ならば闇妖精の姫とシーリと混じり合ってしまったのだろうか。
今となっては確かめる術が無い、スザンナかヤロミールが生き残っていれば何か解ったかも知れなかった、だがヤロミールはドロシーに殺されスザンナはミロンとの闘いに斃れた。
ドロシーは両手で顔を覆った。
「エルヴィスさん、あの日の夜の事ちゃんと覚えています、私じゃなきゃ知らない事ですよ?でも私もう泣けないんです、泣きたくても泣けないの」
「ドロシー!!」
エルヴィスはよろめくように彼女に近づいた、そして手を差し伸ばして彼女の肩に触れる。
冷たい・・・
エルヴィスは思わず手を引いてしまう、そしてドロシーは慄く様に震えた。
「エルヴィスさん見ていてください」
ドロシーの体が熱気を帯び始めた、闇妖精の青白い肌に血を垂らした様に薄い赤みを帯びる、彼女の体が熱を放ち周囲の空気を温めた、彼女の体の中に暖炉でも在るかのように。
「私の命を燃やしているの」
彼女はもう顔を手の平で覆ってはいない、顔を上げてまっすぐエルヴィスを見詰める、アーモンドのような神秘的な目は古代遺跡に残された妖精族の目の特徴を残していた、だがその瞳は今や黄金色に輝いている。
冷たい無機的な人形に命が吹き込まれた様だ、彼女は蠱惑的で理性を狂わせる程に美しかった。
彼女はエルヴィスを迎え入れるように大きく腕を広げると恥ずかしげに顔を横に逸す、闇妖精の頬が恥じらいで赤く染まっているかのように見えた。
「お願い」
ドロシーはそうささやいた、その言葉は彼女の口から漏れた様にも、心に直接伝わって来たようにも感じられた。
甘い芳しい芳香に包まれ、夢の中にいるかのようにさだかではない、これが夢なら覚めないでくれ。
エルヴィスはゆっくりと美しい闇妖精に近づくと彼女を抱きしめる、ドロシーは微笑んだ彼女の笑みは喜びと勝利の歓喜の色に満たされ、その瞳は熱く潤み爛れていた。
野営地は死んだように深い眠りに落ちていた。