脱出行
薄明の薄曇りの空に炎と黒煙が天高く昇る、燃え上がる炎の色が環状の蛇の神殿の灰色の門を赤く照らしだした。
運び出せなかった物資と記録は総て天幕ごと焼き尽くされるだろう。
燃え上がる野営地を背にして数人の短い隊列が湿地帯を北東に進む、用心棒を先頭にエルヴィス、リーノ少年、アンソニー先生が続き最後はラウルの順だ。
始めは三十人を越えていた調査隊も今やこれだけに減ってしまった。
大きな岩の間を通過すると北東に向きを変え湿原を進む、やがて神殿も燃え上がる野営地も見えなくなった。
あとは森林地帯に入り南東に向きを変え砦の野営地に向かう、だがペンタビア本隊の動きがわからない、エルヴィスは森林地帯に入った後は道を避けて森の中を進む予定だ、道といってもエルヴィス達が先日切り開いた道と言えるか怪しいものだが。
湿原を突っ切ると立ち止まり背後を振り返った、遥か彼方に黒い煙が立ち上るこれが見納めになるだろう。
葬式すら満足に挙げる事のできなかった仲間達の事を思った、彼らの多くは遺体すら残らなかった。
エルヴィスはその煙にしばらく魅入っていた。
「行こう」
ラウルに急かされふたたび歩み始める、ここから道から外れて森の中を進む予定だ、用心棒がルートを見つけ大斜面の上にある見張り台の廃墟を目指す。
広大な砂漠にまた太陽が昇る、砂漠はラムリア河からアンナプルナ山脈の間に広がっていた、砂漠は長きに渡りアンナプルナに近づく人間を阻んできた、そのアンナプルナ高原の入り口に緑豊かなオアシスがある。
山脈に降った雨は地下を潜ってオアシスで湧水となり湧き出していた、数百年前から変わること無く青き水を湛えている、その形が目の形に似ているので神の瞳と呼ばれる美しいオアシスだ。
高原から見下ろすと白い砂漠の中に緑に縁取られた蒼い神の瞳を見る事ができた。
今は池の周囲に所狭しと天幕が立ち並び砂漠の市場の様な景観を呈していた、朝食を終えた人々が出発の準備に忙しく動き回り慌ただしい。
だがラクダ達はのんびりとオアシスの青い草を喰んでいる。
中央の大天幕もすでに荷造りが始まっていた、その喧騒の中で壮年の魔術師がアンナプルナの山容を見上げていた。
黒いローブの銀の紋章は見る者が見れば、魔術王国と知られたペンタビア王国魔術省の徽章だと気づくだろう、男の歳の頃は四十代程だろうか、背はそれほど高くは無いが白銀の短い髪と日に焼けた薄い茶の肌に、整っているが頬の痩けた顔がひと目を引く。
男は側にいた若い魔術師に声をかける。
「まだザカライアからの通信は無いのか?」
「未だに入信はありませんメンデルハート様」
メンデルハートの質問に若い魔術師が応えた。
「何か問題が起きたか?」
誰に語るまでもなく呟く、しばし熟考してから口を開いた。
「これまでだな」
メンデルハートは自分の部屋がある大天幕に向かった、精霊通信盤を分解し荷造りする為だ、精霊通信盤だけはどれほど身分が高くても他人任せにしないのが魔術師の暗黙のルールだ。
そして一度分解すると準備を整えるまで通信を受ける事ができなくなってしまう欠点がある。
「お前も出発の準備をしろ」
ついて来ようとした若い魔術師は慌てて自分の天幕に戻って行く。
百頭近いラクダを連ねた大部隊がオアシスを発つ、すでに陽は昇り背後から彼らを焼き始めた。
だが高原へ昇る大斜面に到達したとき突然停止命令が出る、何事かとメンデルハートの周囲にいた者達に動揺が走った。
最高責任者のメンデルハートは隊列の中央にいたので前の状況はわからない、しばらくすると前方から伝令がやって来る。
「何事だ?」
メンデルハートの質問に伝令はすかざす応えた。
「はい、新しい足跡がここから南に続いているそうです、隠蔽工作が行われた形跡があるそうです、ここから南100メートル程のところから人とラクダの足跡が南に向かって続いております、かなりの人数で比較的新しいと思われます」
先導役の指揮官が目ざとく隠蔽の痕跡を見つけたらしい。
すぐに臨時会議が開かれた。
この動きに関してザカライアから特に報告はなかった、ここから山脈沿いに南下するといずれエスタニアを東西に結ぶ商隊路とぶつかる、用が無くなった荷役人を街に返したと考えるべきだがそれでは隠蔽工作をする理由がなかった。
「我々の動きを知っていると考えるべきだ」
それがメンデルハートの見解だった、それを聞いた者達は魔術師ギルド連合の存在をいやでも意識する。
ペンタビアは東エスタニア最古の王国の一つで長く魔術の中心地だった、やがてテレーゼが中心になり、現在はアルムト帝国が魔術の中心地になっている、ペンタビア王国にはアルムト帝国に対する強い対抗意識があるのだ。
そして魔術師ギルド連合はアルムト帝国の帝都ノイデンブルクに本拠地をかまえていた。
そして言葉には出さないが今回の件に関して背後に聖霊教の影がちらついていた。
臨時会議の結果南の足跡の調査に少人数の斥候を放つ事が決まった、本隊はそのまま高原を目指す事になる。
再び隊列は大斜面の道を昇り始める、道はしだいに険しくなり蛇行しはじめた。
誰かが下を見たのか感嘆の声を上げた、それにつられて下を見るものが続出したが皆感嘆の声を上げた。
メンデルハートも何気に釣られて振り返りその神秘的な風景に驚かされた。
僅かに黄身を帯びた白い砂漠が地平線まで広がり、砂丘が波のように連なる、そして濃い緑に囲まれたコバルドブルーのオアシスがそれに映えた。
オアシスが神の瞳と呼ばれる理由に改めて納得させられる。
そして再び前を見上げた、道は何処までも上に昇って行く、この斜面を昇り切ると見張り台の廃墟が、その先に古い集落と砦の跡があるはずだ。
そこに調査団がいる場合に彼らを消さなければならなかった、地下で今も生きている大規模な古代文明の構造物とそこに眠る闇妖精の王族の魂、二つの歴史的な遺産を確保し護るためにはそれが必要なのだ。
しかし到達するのが困難なアンナプルナ山脈とは言えそれだけの遺跡がなぜ今まで発見されなかったのだろうか、その疑問は今もメンデルハートに付きまとう。
その思いを断ち切る様に先導の指揮官が小休止を命令した。
エルヴィス達は道をさけて森の中を進んでいた、足場が悪くなかなか前に進めない、だがペンタビア本隊の正確な位置がわからない現状では、環状の蛇の神殿を目指す彼らと遭遇するわけにはいかなかった。
森の中で昼食をとりさらに東南方向に進む、木々の木漏れ日からしだいに日没が近づいている事が感じられた。
「そろそろ森を抜けるぞ」
数時間ぶりに先頭の用心棒が言葉を発すると、木々の遥か向こうに夕日を浴びた見張り台の廃墟の影が見えた、だがその近くに動く何かがいる。
「全員姿勢を低く」
全員あわてて姿勢を低くめる、ラクダを連ねた隊列が西に向かって移動していた、ペンタビアの本隊に間違いない、彼らの向かう先に砦と小さな集落の廃墟があるのだ。
彼らが今ここにいると言う事は、昨日の早朝に山を降りた金庫番達はなんとか逃れる事ができたかも知れない。
「奴ら無事だと思うかエルヴィス」
ラウルが背後から声をかけてきた、奴らとは砦の野営地にいた荷役人達の事だ。
「下りは早い、なんとか逃げられたかもしれねーな、合流を急ごう」
ラクダが通り過ぎるのを見届けてから見張り台の廃墟を目指す、そこからオアシスまで巨大な下り坂があるのだ。
「今日中に行ける処まで下るぞ皆んな」
エルヴィスは立ち止まると背後の仲間達の顔を見ながら念を押した。
「エルヴィス、坂の途中で野営する気か?」
「砦の野営地からは見えないからな、念の為に今夜は火を使うのは避けよう、オアシスに残っている奴らがいるかもしれない」
この説明で皆は納得した様だ。
次第に暗くなる坂道をエルヴィス達は蛇行しながら下る、できるだけ奴らから距離を稼ぎたい。
砦の野営地が空だとそろそろ気づく頃だ、彼らが環状の蛇の神殿の調査を優先するか、周囲に捜査の手を広げるか予測できなかった。
足元が危険な程暗くなったところで野営をする事に決める、大きな岩の影に皆で集まり、火を使わず保存食料を齧るだけの粗末な夕食をとった。
すると小さな羽音が聞こえる、小さなコウモリが飛んでくると突き出た岩の屋根に逆さまにぶら下がった。
「またかよ、まさか同じやつじゃないよな・・・」
ラウルがコウモリに気づいて少し不気味そうにこぼすと、コウモリが小さな声で鳴いた。
エルヴィスはコウモリがドロシーの眷属か何かだと確信していた、だがそれを皆に言うつもりも無かった。
「ラウルここは鍾乳洞が多い、コウモリなんて珍しくもねえよ」
「まあそうだな」
遠くから遠雷の様な音が聞こえてくる魔水が引く時間が来たのだ、初めてこの音を聞いた時は驚いたが調査が進むにつれて原因も明らかになった。
この音もこれが聞き納めになるだろう。
明日は日が昇る前にはここを発つ予定なので早く寝る事にした、全員硬い岩場に寝転がり薄い毛布で暖をとる。
あまり眠れないが疲労のためか意識が遠くなっていく。
「エルヴィス、下から近づいて来る」
用心棒が潜めた声でエルヴィスを揺り動かした、少し体を起こすとたしかに明かりが揺れながらこちらに昇ってくる。
まだ距離があるようだ、明かりは揺らく事も無く静かにオレンジの光を放っていた、これは魔術道具特有の光だ。
ラウルもこの騒ぎで目を覚ました。
「誰かくるのか?」
「約五人ほど来る、どうするエルヴィス?」
用心棒はこの距離で相手の陣容を把握したようだ。
「やり過ごす、もし見つかったら殺るしか無い」
「一人でも逃したらまずい、奴らの足運びは素人ではない」
「わかったそれで行こう」
エルヴィスは熟睡しているアンソニー先生とリーノの寝顔を見た、そして二人を起こすべきか悩む。
大きな岩陰で野営していたので道を進む者からは死角にいたからだ。
結局エルヴィスは二人を起こす事にした、アンソニー先生は驚いたが、なんとか意思を伝える、あとはリーノだけだ、だが中々目を覚ましてくれない。
肩を掴み揺さぶると薄っすらと目を開く、その目が恐怖をうかべ見開かれた、予想外の反応に驚いた、そしてリーノがスリの親方にこき使われていた孤児だった事を思い出したのだ。
リーノがその直後に悲鳴を上げた。