ロイ=アームストロング
アンナプルナにまた夜が訪れた、月の無い夜空を宝石の様な星の光が埋め尽くす、まるで音が聞こえてきそうな満天の星の世界。
光の絨毯の様な空をアンナプルナの黒い山影が鋸の歯の様に切り取る、月が出ていれば氷と雪に覆われた白い山容が露わになっていただろう。
その岩だらけの山裾の高原に1ヶ所だけ明かりが灯っている、真っ暗な闇の中にただ一つの灯火が。
オレンジの光には人の営みを感じさせる暖かさがあった。
その大きな焚き火を10人程の人影が囲んでいた。
彼らは全員聖霊教の山岳派の修道僧の風体をしている、アンナプルナ山脈は彼らの聖地の一つなので不思議ではなかった。
山岳派は数百年前に聖霊教に取り込まれた東エスタニアの古い山岳宗教と言われている。
彼らは東エスタニア各地を巡礼の旅で巡るのだ、おかげで密偵や素性を隠したい者共が彼らを真似る事が多い。
そんな彼らははたしてどこかの密偵なのだろうか、彼らは火を囲み歓談にふけっていた。
そんな彼らの頭上の星の絨毯を黒い何かが音も無く横切ったがそれに気づく者はいなかった。
「今日はスザンナ様からの連絡が遅れていますね」
若い男の声が聞こえてくる。
「アスペル女史から魔術師ギルド連合を経由して伝えられる、どうしても遅れる」
それに力強い壮年の男の言葉が答えた、星明りに微かに照らされた男の姿は頑健な大男でその顔は荒削りの岩の様にも見えた。
その彼がこの一団の指導者の様だ。
「そろそろ休むぞ明日も早くここを発つ」
「明日が山場になりますね、ペンタビアの奴らも近まで来ています」
「ああ・・・」
そこで男の声が途切れた。
「だれかそこにいるのか?」
小石を踏みしめる微かな音が聞こえた。
その場にいた全員が立ち上がるそして剣を抜き放つ者もいた。
やがて闇の中から暗褐色のローブ姿が音もなく浮かび上がる、焚き火の炎の光に赤黒く照らしだされた。
「誰だ?」
指導者の誰何とともに全員散開するとローブ姿の不審人物を半包囲した、彼らの動きにまったく無駄が無かった。
その不審人物は細身で顔はフードで覆われて素顔は見えなかった。
ローブの裾から頑丈そうな革靴が覗いていたが、厚手の温かそうな毛糸編みの靴下が細い足を包んでいるのが見える。
スカート姿の女性に間違いない、彼女は魔術師の様にも見えた、そのローブ姿の女性は悠然と前に進み出る。
そしてローブを後ろに跳ね除けるとその下の恐ろしいまでの美貌が露わになった。
青白い血の気の無い肌の色、燃えるようなワインを垂らした様に赤い瞳、髪は黒く綺麗に先が切りそろえられたショートボブ、そして何よりも目立つのはその細く先の尖った長い耳だ。
周囲を囲んだ者達の間からうめき声が上がる。
「アスペル女史からのお知らせです、アームストロング夫妻はお亡くなりになりました」
なんの感情も何も感じさせない顔と声でその女は告げた。
声を発する事のできた者は誰もいなかった。
「死んだだと!?なんだお前は闇妖精の姫が復活したのか!?」
指導者らしき大男がかろうじてそう呻くと一同に動揺が走る、だがその女は彼の疑問に答えようとはしない。
「聖霊教の方々ですね?」
美しい女が微笑むと形の良い唇の隙間から鋭い牙の先が頭を覗かせた、これで女が吸血鬼である事が確定した。
しだいにその女の放つ威圧感が高まる、かつて人の上に君臨した上位種族の妖精族の存在そのものが人の魂を屈服させようとしていた。
だがこれだけでは闇妖精族の頂点に位置する王族だと証明する事はできない。
周囲を囲んだ者達は指導者から指示を仰ごうと視線を彼に向けていた、指導者の男は聖霊教の修道僧の上着を脱ぐと投げ捨てる。
その下からアームストロング隊長をずっと若くしたような壮年の頑健な男の巨躯が顕になる。
「あらアームストロング隊長によくにていますね」
無表情だった闇妖精の顔が緩むと花が咲くように微笑む、それを見た男達は驚き息を呑んだ。
「デクスター=アームストロングは俺の父だ」
彼女は驚いた顔をしながら目を見開いた、男の顔を覗き込むように少し姿勢を前倒しにする。
「たしかにお髭を取って頭に髪を生やせばそっくりね、シーリもそう思うわ」
指導者の男は訝しげに美しい怪物をにらみ据えた。
「お前は何者なんだ?なぜ親父を知っている?」
その怪物は目を在らぬ方に逸した、それが男を馬鹿にしている様にも見えた。
「ふざけるな!!」
隊長の息子は怒り一喝すると力が漲り彼の周囲に渦を巻いた。
「すごい聖霊拳の上達者なのですね」
指導者の怒りが急に静まる、そして何かを探る様な顔に変わる。
「二千年以上眠っていたお前がなぜ聖霊拳を知っている?」
闇妖精の女は目をつむる何か思索にふけるかのように。
聖霊教はロムレス帝国末期の精霊宣託師の組織の指導者トピアス=ニールが仲間を率い東エスタニアに逃れ興した宗教だ、その時点で闇王国が滅んでから千年以上の年月が経っていた。
聖霊拳は聖霊教と東エスタニアの山岳宗教が融合して生まれた、その山岳宗教もパルティア十二神教の影響を受けて生まれたと言われている。
山岳信仰は聖域信仰と通じるものがあった、神が棲まう場所こそ霊峰と呼ばれる山々なのだから。
「お前の髪は黒いそして瞳の色も闇妖精族の姫とは違う、お前は単なる闇妖精にすぎない」
その指摘に彼の仲間たちの顔から絶望の色が少し薄れた、それでも警戒は緩めない。
闇妖精が危険で恐ろしい魔物である事に変わりがなかった、召喚精霊のように元いた世界に引き戻される事無く現実界で滅びるまで活動する事ができる。
「遊ぼうと思ったけど、スザンナさんの息子さんとあまり闘いたくないかな、どうする?」
闇妖精の化け物の言葉は仲間が近くに居るかのようだ、彼女を半包囲していた者達は周囲に注意を払い始めた。
「私しかいないわよ、安心して」
闇妖精の怪物はその様子を見てにんまりと笑う、無邪気なようで邪悪な光を彼女の瞳は湛えている。
驚きのあまり言葉も無かった指導者はなんとか言葉を振り絞る。
「お前は何だ?なぜお袋を知っているんだ?」
それに闇妖精の怪物は答えようとしない、沈黙が重くのしかかる。
「親父達が死んだと言ったな、お前が殺したのか?」
闇妖精はゆっくりと頭を横に振った。
「魔界の眷属と闘って地下深くでお無くなりになりました、あそこに眠っていた物に興味があるのは貴方達だけではありません」
「魔界の眷属だと?お前は何者だ闇妖精の眷属か」
「あそこには闇妖精族の姫の魂はもうありませんわ、新しく生まれ変わり旅立ちました」
「なんだと!闇妖精の姫が復活したのか?どこに行ったか知っているのか」
「貴方の目の前にいますよ」
闇妖精は自分自身を指差して微笑む、楽しげに快活でそれでいて憂すら漂わせ、それがチグハグで知性が有るのがわかるだけに不気味で見るものを混乱させる。
「あら、まだうまく融合できていないのよ」
闇妖精は小首をかしげた、どこか可愛らしい仕草だがそれが不自然でなお不安を誘う。
「お前は偽物だ!」
指導者は力をついに全解放した。
「面白い戦えばわかるわ」
闇妖精の瞳が真紅に燃え上がる、圧倒的な威圧と瘴気の奔流、心が確かで無い者から力に当てられ倒れ始めた。
そこに指導者が人ではありえない速度で一気に間合いを瞬時に詰めた、同時に闇妖精は魔術術式を素早く構築、その気配を指導者は感じ取り驚愕して彼の目が見開かれる。
「だめ」
闇妖精から瘴気が噴出し霧散する、その機会を逃さず彼女の顔面に指導者の剛拳が叩き込まれた。
それを嫋やかな手が剛拳を受け止める、だがその美しい手はあっという間に形を失い溶解してしまった、目を見開いた彼女の顔面に剛拳が迫る。
だが闇妖精は上半身を後ろに反らすと易々と拳を回避して見せた、そして彼女の右足が下から突き上げ指導者の腕を狙った。
その足を指導者の片方の拳が平然と迎撃、受け止められた瞬間彼女の分厚い革靴が水蒸気を吹き出した。
そして彼女の足を包む毛糸の靴下が萎びた野菜のように下に垂れ下がる、彼女の足は膝から下が消滅していた。
彼女のロープがはだけ中身が見えた、彼女は魔術師か女学生の様な服を纏っていた。
反り返った闇妖精は片手で地面に手を付けるとそのまま体を後ろに逃がす、指導者は畳み掛ける様に追撃に出る、彼女は車輪の様に片手と片足で回転しながら、凄まじい速度で魔術術式の構築を始めた。
指導者は反射的に魔術の発動に備えた。
闇妖精は片足で岩の上に立つと彼女の周囲に瘴気が収束する、その瞬間に彼女の左の手のひらが再生し、消滅した右足も再生した、だが再生した足に押されるように靴下が脱げてしまった、彼女の生白い美しい足がさらけ出される。
「けっこう気に入っていたのに」
詰まらなそうに呟くとバランスが悪いのかもう片足の革靴も脱ぎ捨ててしまった。
「今からあそこに行っても手遅れです、古代遺跡に興味があるなら止めませんよ、なんかやる気が無くなった邪魔しないで」
闇妖精はそう言い残すとそのまま背後の闇の中に溶けて消えてしまった。
「待て!!まだ話が」
指導者は闇妖精に呼びかけたがもう姿を現す事は無かった。
彼の周りに仲間達が集まって来る、そして次々と質問を投げかけ始めた。
「スザンナ様の身に何かあったのでしょうか?」
「これだけではわからん、この先を調査するしかない」
「ではペンタビア調査団は?」
「それも不明だがアスペル女史の身に何かが起きたと考えるしかない」
皆顔をお互いに見合わせた。
「ロイ様、あの女は一体なんでしょう闇妖精族の姫とは思えませんが」
ロイと呼ばれた指導者は首を横に振った。
「それもわからん、妙に知識があった闇妖精の高位の眷属かもしれない」
「眷属がいると言う事は闇妖精族の姫が復活したのではありませんか?」
それをロイは頷くことで肯定した。
「これは由々しき事態です」
「そうだ、精霊通信はまだ送っていなかったな、すぐに今の事態を伝える、暗号表を貸してくれ!」
精霊通信は限られた文字しか送信できない、その為に記号と数字の組み合わせで、予め設定した文と対応させる事で複雑な意味を持たせていた、暗号表がなければ解読不可能な強みがある。
野営地はにわかに忙しくなった。
その野営地から北に一日の距離に環状の蛇の神殿の野営地があった、閑散とした野営地に人影は無く、中央の大天幕だけが明かりで照らされていた。
その調査団本部の書類や箱は総てひっくり返され中身がぶちまけられ、エルヴィスは座り込み書類を流し読みしながら選別していた。
「何しているんだエルヴィス?」
天幕のザカライアの私室から出てきたラウルが訝しげな顔をした、彼は薬を塗り包帯を新しい物に替えていた。
「価値の有りそうな資料は持っていくそれ以外は焼く奴らには渡さん、そっちは?」
「けっこう金貨があるな、ここじゃ使えないが最低限用意してあったんだな、だが赤字は確定だぜあと魔術道具がいくつかある」
「先生は?」
「ああ、ヤロミールの部屋を調べている」
そこに用心棒がやってきた。
「エルヴィス、リーノは寝た」
感情を露わにしない用心棒もどこか疲れているように見えた。
「解った」
エルヴィスは立ち上がり体を休めた、すると小さな羽の音が聞こえる。
本部天幕の外に張られた分厚い布の屋根の梁に小さなコウモリがぶら下がっている。
「ここに入れるのか?小さな生き物は通すのかな」
コウモリに気がついたラウルが不思議そうに声を上げる、エルヴィスはここがザカライア教授が展開した魔術結界に守られていた事を思い出す。
「ザカライアにきかねーとわからねえ」
だがザカライアは死んでしまった、魔術の専門家はもういない。
用心棒が突然口を開いた。
「エルヴィス、スザンナ殿の天幕はどうする、放置してはおけまい」
スザンナが聖霊教の聖女である事は仲間たちには明らかになってしまったが、ペンタビア本隊に渡すべきでは無い物がいろいろあるかもしれなかった。
「そうだな、やりたくないがシーリ達の天幕を調べる、地下に移動する時に整理したはずさ」
エルヴィス達が彼女達の天幕に向かうとコウモリがうるさく付きまとって鳴いた、まるで中に入るなと文句を言っている様だ。
だがエルヴィスは軽く手で払うと天幕の入り口の布を持ち上げる、そして背後にいる仲間に顔を向けた。
「持ち出すものを分けよう」
エルヴィスは入り口をくぐると照明道具を点灯した。
「ラウル、明日出る前に全部焼くぞ」
その言葉に一瞬だけラウルは驚いたがすぐに納得したようだ。
「奴らにくれてやるのはしゃくだよな」
ラウルも入り口をくぐる、静かな野営地でコウモリだけが騒いでいた。