悪夢は終わらない
エルヴィスは床に落ちていた精霊変性物質の短剣を拾った、刀身に小さな割れ目が入っているバーナビーとの闘いで傷ついてしまったのだ。
床に横たわるバーナビーに目をやると、魔術道具の光の中に血の池が広がって行く。
ペンタビアの本隊はザカライアとの通信が途切れた事に今夜にも気づくはずだ、だがここで何が起きたか正確に知る事は困難になった、バーナビーが一人でここから離脱しようとした理由が良くわかる。
思えばこの男がエルヴィスに接触して来た時から総てが始まった。
エルヴィスは横たわるバーナビーから視線をはずした、そして長い下り階段のある洞窟に向かって足取り重く歩みはじめた。
エルヴィスは長い暗い階段を延々と下る、通路は大空洞の周囲を螺旋状に巡りながら下に降りて行く、黄泉の伝説のように永遠に巡りながらあの世に向かっているような気分になって行く、やがて前方が明るくなると大きな亀裂にたどり着く。
ここまで来ると野営地までそう遠くはない、壁の裂け目から外を眺めると大空洞は魔水で満たされ墓所は屋根の上の光源もろとも水面下に沈んでいた、良く目を凝らすと墓所の扉が開いている。
はたしてスザンナ達はまだ野営地にいるのだろうか。
エルヴィスは大回廊を目指す、だが木の橋の上に血の跡が点々と残されていた、エルヴィスは先を急いだ、すぐに大回廊の白い光が前方に見えてくる、白亜の大回廊はいつもの様に壁面が淡く輝き特に異変は感じられなかった、だが床を見ると血痕が点々と赤い染みを作っていた、それは階段橋の上に伸びていた。
その階段の上から何やら物音が聞こえる。
エルヴィスは急いで階段を登り扉を開く、その場にいた者達が驚きこちらを見詰めていた、部屋の中にスザンナと隊長と生き残りの部下が一人いる、そして用心棒とリーノとアンソニー先生の姿も見える。
「あんた無事だったのかい?扉が開いたのかい」
スザンナがエルヴィスに凄い勢いで駆け寄る、喜びの表情を厳しく変えるとエルヴィスを問い詰め始めた。
「シーリとドロシーはどこだい!?」
エルヴィスはどう説明するかどこから説明したら良いのか悩んだ。
「ヤロミールはシーリとドロシーを使って何かを実験しようとしていた、二人は幽界の羊水に溶かされて死んだ」
エルヴィスは二人の魔術道具をスザンナに見せる、エルヴィスはドロシーの自分は死んだことにして欲しいと言う願いをかなえる事に決めていた。
「なんて事だ」
アームストロングが苦渋の表情を浮かべて頭を振った。
「ヤロミールは実験に失敗したのか奴も死んでいた、なぜあの部屋の扉が開いたのか俺にはわからない」
スザンナはエルヴィスの瞳を心の底まで見通すかのように覗き込んだ。
「あの二人も犠牲になったんだね・・・」
エルヴィスはそれも間違いでは無いと思った、人としての二人はもう居ない、エルヴィスは頷くことでそれを肯定する。
スザンナの顔が後悔と悲しみに泣き崩れた。
「皆んな居なく成ってしまったね」
弱々しいアンソニー先生の声が聞こえてきた。
だがスザンナの目は何かを疑っていた、彼女の金壺眼がまっすぐこちらを射抜く。
「ところで外の血は何だ?スザンナ」
「ああ、バーナビーが使用人の遺体を幽界の羊水で溶かすために運んだのさ、敷布に包んでね」
「ミロンにやられたのか?」
スザンナは頷いた遺体は酷い有様になっていたのだろう、よく見るとこの部屋の壁にも血痕が残っていた。
それを聞いたアンソニー先生の表情がまた歪んだ。
「ところでエルヴィス、バーナビーに出会わなかったのかい?」
「スザンナ、奴は本隊に合流する為に一人で逃げようとしていたよ」
スザンナの顔がうかつだったと後悔に歪む。
「さてはバーナビーは死んだね?」
「そうだ」
エルヴィスがそう告げると、スザンナはどこか安心した様にも見えた。
「スザンナ、これからどうする?」
「水が引いたらまた奥の部屋に行くよ、あの杖を回収しなきゃならないからね、闇妖精の魂が溶けた幽界の羊水をなんとか処理したい、魔界で再生してしまうがこちらに召喚するのは困難を極めるのさ、とにかく中で何が起きたか調べるよ」
エルヴィスは悩んだ、あの杖はドロシーに食べられてしまった、闇妖精の魂ももうあそこには無い。
本当の事をスザンナに言うべきか、それではドロシーがスザンナ達の討滅の標的になってしまう。
恋人の残骸であってもこれ以上失いたくは無い。
悩むエルヴィスをスザンナが気遣うように見詰めていた。
エルヴィスの心が痛む、ならず者に等しい人生を歩んで来たエルヴィスもいつの間にか聖霊教の拳の聖女に好意を抱いていたらしい。
ドロシーを滅ぼし魂を大いなる循環に還すべきだ、真摯な聖霊教徒ならそう考えるだろう。
だがエルヴィスはドロシーの片鱗を見せるあの怪物の姿と声を身近に感じていたかった、いつのまにかドロシーを守りたいそんな気持ちが勝っていた。
「さあ食事にしようかい」
スザンナが重苦しい空気を払うように手を叩いた。
「食べないと動けなくなるよ」
昼食なので本格的な炊事はしない、保存食を茶で流し込むだけだ、エルヴィスは茶器を運んで来たのはケビンだったと思い出した。
心がまた疼いた、恩人に押し付けられた若者で役に立たなかったが憎んでいたわけではない。
魔術道具で加熱すると小さな薬缶が湯気を吹き出す。
食事が終わると血の臭いが気になった、気分が落ち着き周囲に気を配れる様になったからだろう、透明な壁の側に血が染み付いた敷物と千切れた衣服が積んであった。
下働きの男達の衣服らしい。
「私が捨ててきましょう」
隊長の部下が立ち上がり窓際のゴミの山に向かった、それを大きな籠に詰め込む、ゴミ捨て場はあの木の橋のある断裂だ、そこからゴミを魔水に捨てる決まりになっていた。
「頼む」
アームストロング隊長はゴミ捨てに階段を降りていく部下を見送ってから告時機を確認する。
「あと四時間半か長いな」
それは魔水が引く時刻までの時間だ、しばらく思い思いに体を休めていた。
エルヴィスは敷布の上に座りながらアンソニー先生を見るとある事を思い出す。
「先生、ザカライアになぜ幽界の羊水をかけようとしたのですか?」
急に話しかけられたアンソニー先生は驚いた。
「恥ずかしい話だよ、僕の父が死んだのは奴の仕業だと感じてしまった、でも証拠はないのさ、怒りのあまりそうしかけたんだよ、結果的に幽界の門を塞げたのは幸いだったね」
「以前、先生の父上は外国から招かれたと聞きましたが」
「そうだよ、父は風の上位魔術師で高名な考古学者だったんだ、僕は幼い頃ペンタビアに来たらしい覚えていないけどね、だが魔術師の子供が魔術師になれるとは限らないんだよ可能性は高いけどね、そして父は調査中の事故で突然死んだのさ、その後はザカライアが後を継いで20年になる」
「その調査にザカライアがいたんだな」
アンソニー先生は無言でうなずいた、もしかしたらその当時からザカライアを疑っていたのかもしれなかった。
「彼は偏狭で他人の才能に嫉妬する男だったからね」
先生はそこで何やら物思いにふけってしまった。
お茶を飲み干すとまた話しを続ける。
「ペンタビア大学から『環状の蛇の神殿』の資料を盗んだのはミロンだと思うか?」
エルヴィスは皆を見廻す。
「それができるのはザカライアかヤロミールだと考えていたね、だがこうなるとミロンも有りだよ」
それにスザンナが答えた。
「化け物の力か?」
「杖が入っていた箱を壊さずに開けているのさ、魔術の効果に干渉する力があったのかもしれないねえ」
だがミロンは滅びそれを確かめるすべは失われてしまった。
アンソニー先生がふらりと立ち上がった。
「少し席を外すよ」
そう言い残すと階段に向かう、だれも先生がどこに行くか尋ねない、ここから少し離れた大空洞の壁に大きな断裂が有る、その木の橋のある場所の奥にトイレが設けられていた、すべて魔水が溶かして消してくれる仕組みだ。
結局ほとんど使われる事もなく調査は終わろうとしている。
階段を降りていく先生の足音だけが遠ざかって行く。
エルヴィスは透明な壁の前でリーノが大洞窟を眺めているのに気づいた、いつの間にか用心棒の姿が見えない。
エルヴィスは重い体を起こすと壁に向かう、近づくとリーノが気配を感じたのか背後のエルヴィスを振り返ると少年は泣いていた。
我の強い少年だが短い間に仲間達と親しくなっていた、特に親方に可愛がられていた。
「アイツはどこだ?」
「見回りにいったよ、変化が起きているかも知れないってさ」
少年は大空洞を取り囲む通路の先を見つめる、大空洞を取り囲みこの部屋の反対側に繋がる通路だ、外側は透明な壁で覆われていた。
「そうか」
この遺跡にはまだ多くの謎が残されていたが自分達の手ではこれ以上の調査は不可能だ。
「ねえちゃん達もダメだったんだ?」
「そうだ」
少年はもう何も言わずに大空洞の中を眺めはじめた。
しばらくするとアームストロング隊長が背後でつぶやいた。
「遅いのう」
エルヴィスはアンソニー先生はさっきでかけたばかりだろうと思ったが、隊長の部下が断裂に向かっていた事を思い出した。
たしかにかなり時間が経っている。
まさかドロシーなのか、嫌な予感と不安が湧き上がる。
「嫌な予感がする見てくる」
エルヴィスは階段に飛び込む様に駆け下りた、なぜかスザンナ達に来てくれと言う気になれなかった、もしドロシーがスザンナ達と接触してしまったら、絶対に合わせたく無い。
このまま二人は死んだ事にしておきたかった、ドロシー達の気持ちが良く分かる、スザンナが二人の末路を知ったらどう思うだろうか。
アンソニーは大回廊を抜け暗い通路を歩いていた、すぐに出口が見えたそこに木の橋も視界に入る。
だが歩みを緩める、木の橋の向こうに籠が転がっていたからだ。
それは隊長の部下が血まみれのゴミを入れて運んだ籠だった、彼はどこに行ったのだろう。
出口に着いたが誰もいない、すると物音が聞こえた石が転がる音だ。
「誰かいるのかい?」
橋を渡ると周りを見渡した、右側は大空洞が広がり波打つ魔水の池が広がる、正面に上に昇る階段が黒い口を開けていた、そして左側の部屋の奥を眺めると奥に何かわだかまる影がある。
アンソニーはたじろいだ、だがその影が立ち上がると人の姿に変わったので少し安心する。
「そこにいたのかい」
その人影がこちらに向かって来る。
「僕ですよ先生」
暗がりから現われたのはミロンだった、体に何も身につけていない、肌の色はくすんだ様な土色でその瞳は薄く黄金色に輝いていた。
アンソニーは驚きの余り何も声を発する事ができなかった。