運命の扉
アンソニー先生が水筒の中身をザカライアに注いだ、沸騰する様な音を立て白い水蒸気が吹き上がり部屋の中が何も見えなくなる。
それと共に瘴気の気配が消えていく、何が起きているのか理解できない。
『先生何をしたんですか!?』
ミロンの当惑した声が心に聞こえてきた、初めて感じるミロンの当惑と不安の感情、スザンナも隊長も状況を把握しようと闘いを止めて静観している。
やがて白い水蒸気が薄れはじめ部屋の見通しが良くなってくる。
隊長の部下達に張り付いていたミロンの分身の姿が消えていた、だが二人の傭兵は床に伏せったまま動かない。
アンソニー先生の前に転がっているザカライアの体はまだ白い水蒸気を噴き出している、そして黒い塊も随分と小さくなっていた。
そしてザカライアの頭も背骨も消滅していた。
エルヴィスは奥歯を噛み締める、その黒い触手の塊は親方が変化した物だ、だが今は死者を悼む場合ではない、目の前の脅威に対抗して生き残らなければならなかった。
『先生、その水筒の中身は?』
ふたたびミロンの言葉がどこからともなく響いてきた。
「ミロン君これは『幽界の羊水』だよ」
『なぜそんな物を?まさか僕の正体に気づいていたのですか?』
アンソニー先生は微苦笑しながら頭を横に振った。
エルヴィスは先生が部屋に入った時に石棺の側に立っていた事を思い出した、その時幽界の羊水を手に入れたのだろう。
「先生、部屋の中で手に入れたんだな?」
「ああそうだよ、エルヴィス君」
「そんな事しても持ち帰れないぞ、すぐに消えてしまう」
アンソニー先生は苦く笑った。
「恥ずかしながらザカライアにかけてやろうと思ったんだ、一応その願いはこうしてかなったけどね」
「アンタ達何をやっているんだい?詳しい話は終わってからゆっくりと聞かせてもらおうじゃないか!」
スザンナがそう叫ぶと再びを闘気を漲らせた、隊長もすかさずそれに呼応する。
部屋の影から歪に変形した小さなミロンが化け物に飛びつくと付着する、太い触手が伸びザカライアの残骸を絡め取り引き寄せて自らと一体化させた。
最後に太い二本の触手が伸びて床に伏せっていた隊長の部下に絡みついて引き寄せた、引き寄せられる部下達の体から小さな黒い触手が生じ蠢き始めていた。
もうザカライアの遺骸は瘴気を発していない、幽界の門を失った化け物が少しでも力を補充しようと足掻いたのだ。
スザンナと隊長が激怒し二人の部下の名を叫んだ。
「いいかい、こいつを外に逃がすんじゃないよ!!」
スザンナが激をとばすと聖霊拳の上達者達の猛攻撃が始まった。
ザカライアを利用してほとんど回復していた化け物は再び急激に傷ついていく、スザンナ達は消耗一方のミロンを確実に追い詰めて行く。
拳が炸裂する度に化け物が砕け瘴気が浄化さるのだ、エルヴィスは聖霊拳の上達者達がなぜ破魔の聖人・聖女と呼ばれるのか、その理由を今はっきりと知ることができた。
ミロンはもう何も言葉を発しない総てを諦めたのだろうか、片目は既に潰れていた、だがもう片方だけの瞳は未だに赤く暗く燃えている。
まだ何か奥の手があるはずだ、根拠は無いがエルヴィスの直感がそう訴えかける。
「みんな気を付けろ」
エルヴィスは無意識に叫んでいた。
「ああ、最後まで油断しないさ」
スザンナが応じた直後ミロンの動きが急に激しくなる、そして再び化け物は再生を始めた。
スザンナが金壺眼を見開いた。
「何か魔術道具を持っているね?でも最後の足掻きさね」
隊長が吠えるとその大木の幹のような足で天井に化け物を蹴り上げた、スザンナが力を漲らせそれに連撃を叩き込む。
それに狂った様にミロンが反撃した、スザンナも隊長も傷ついていく、だが闘いの趨勢はもう明らかだった。
当然、何かが鋭く振動する様な音が耳をついた、不快な瘴気の波動がミロンを中心に広がりながら激しく高まる、ミロンが何かをしようとしていた。
「魔術道具だ!!爆発するよこの部屋から離れるんだ!!」
スザンナが叫んだ、アンソニー先生が化け物の名を叫んでいる、エルヴィスは通路の奥に駆け出した、バーナビーと用心棒の背中が目の前に見えた。
「みんな伏せろ!!」
エルヴィスは警告し床に伏せる、その直後凄まじい爆発が生まれた。
瘴気を含んだ爆風が背中の上を通り過ぎていく、爆音が聞こえたはずだが意識に残っていない、衝撃に激しく打ち据えられ意識が遠くなる。
化け物が砕け散ったその時、古代建築の美麗な白亜の天井を黒い小さな蛇のような生き物が墓所の外を目指して這いずっていた、だが誰もそれを知る由もなかった。
どのくらい時間がたったろうか、周囲は清浄な空気に満たされている、エルヴィスはのろのろと立ち上がり周囲を見廻した。
そこに用心棒が近づいて来る彼の背後にリーノもいた、生き残りは全員闇妖精の灰があった部屋に集結した。
生存者はエルヴィスと用心棒にリーノ少年、スザンナとアームストロング隊長と部下一人、そしてバーナビーにアンソニー先生だけだ。
地図職人と親方と彼の弟子達は全員失われた、ケビンもいない、そして荷役人は全員失われてしまった。
調査団は悲惨な有様となっていた。
墓所の外にいた二人も助からなかっただろう、階段橋の上の部屋の野営地で留守番をしていた下働きの男達もミロンの犠牲になっているかもしれない。
「しぶとかったがなんとか倒したかね・・・」
スザンナが呟いたがその顔色は暗く沈んでいた、調査団の仲間や長い間共に闘ってきた部下が死んだからだろう。
エルヴィスは化け物が片付いた事で、部屋に閉じ込められたドロシー達に意識を向けた。
「そうだドロシー達はどうなった?」
「そうだね急ぐよ!」
スザンナを先頭にあの部屋の前に急いで戻る、だが扉はまだ閉じられたままだ。
「スザンナ、外に出た可能性はあるか?」
スザンナと隊長は顔を見合わせてから、竪穴のある部屋に駆け込んだ。
「あの骨の杖が残っている、まだ中にいるのかもしれないね」
スザンナが部屋からそう返答してきた。
エルヴィスは扉を動かそうとしたがびくともしない、扉を叩きながら叫ぶ。
「ドロシー、シーリ返事をしてくれ!!」
エルヴィスは不吉な予感に駆られた。
扉は固く巨大な岩の様に頑強だ、外の声が中に伝わっているのかも怪しかった。
戻ってきたスザンナと隊長がエルヴィスと代わる、二人が力を合わせて扉を動かそうとしたがそれでもまったく動かない、スザンナが拳で叩いたが重い音を立てるだけだ。
「やはり力で壊せる代物じゃないね」
スザンナが諦め顔で頭を横にふる。
「中で何をしてるんだ?」
バーナビーがつぶやいたがそれに誰も答える事ができなかった、エルヴィスは更に焦燥感にかられる不吉な予感に苛まれる。
「スザンナ北の魔術で思い当たる事はあるか?」
エルヴィスは扉を軽く叩いてからスザンナの目を見つめた。
「北の魔術はね中心があるわけじゃあ無いんだ、いろいろな流派や派閥が競い合っているのさ、ヤロミールもその1つに関わりがあるのはわかっているよ、ザカライアなら詳しく知っていたはずさ」
「奴が動くのを待つしかないのか?」
扉の向こうにはドロシーとシーリがいるエルヴィスは思わず扉を蹴った。
「僕にも彼が何をしようとしているかわからないんだ、ヤロミール君の過去も詳しくは知らない、教授がエルトレスクの魔術師ギルドから招いた以上の事を知らない」
先生がそう語ったので皆先生に目を向ける、先生は憔悴した顔を弱々しく振っていた。
隊長が扉の前に置いてあった背嚢から告時機を取り出して眺め始めた、これを見てエルヴィスも慌てて魔水が溢れる時間を確認する為に告時機と魔水の周期表を懐から取り出す。
「エルヴィス、バーナビー、時間はどのくらい残っているんだい?」
スザンナが周期表を覗き込んだ。
「くそ!!そろそろ引き上げる時間だ」
エルヴィスはまた扉を拳で叩いた。
「シーリ!!ドロシー返事しな!!」
スザンナがまた中にいる者たちに呼びかけたがやはり反応が無い。
「ヤロミールいい加減に諦めろ!!」
隊長の大音声が辺りに響いて耳が痛くなる。
「一旦引き上げようエルヴィス!この部屋の中なら安全だろう、墓所の入り口が空いている魔水がここまで入ってくるかもしれないぞ」
バーナビーが少し焦った様に声をかけてきた、エルヴィスの中でバーナビーに対する怒りが育ち始めていたが今はそれを飲み込んだ。
「わかっている!!」
「次に魔水が引くのは六時間半後だよ、エルヴィス!!」
今度はスザンナが決断を促す、調査中はエルヴィスが指揮権を持っている、そして団長のザカライアはもういない。
『・・・・』
エルヴィスは何か説明のできない違和感を感じた、誰かに遠くから呼ばれた様な気がしたのだ、思わず周囲を見廻したが気のせいだ。
あまりにも多くの事が起きて混乱している、心に巨大な穴が空いていた、今は喪失感があるだけだが悲しみは後からやってくる。
「エルヴィス!!」
スザンナが叱咤する、エルヴィスが決断を下さなければならない。
「すまない、引き上げるぞ、スザンナ先導をたのむ」
生き残りの調査団は外の世界を目指す事になった。
スザンナがエルヴィスを見る目は杞憂に満ちていた、仲間を失ったエルヴィスを憂いているのだろうか、だが彼女もドロシー達が心配なはずだ。
ここに入った時の半分以下に減ってしまった調査隊は竪穴の部屋を目指す、最後尾からエルヴィスが進んだ。
ここには仲間達の遺品がまだ残されていた、ドロシー達の問題を解決した後で回収しよう、最後に扉を見つめてからエルヴィスは竪穴を目指す。
『・・・・さん』
エルヴィスはまた扉を振り返る。
「エルヴィス早く行くぞ!!」
隊長が縦穴から頭を出して呼びかけた。
「すぐ行く!!」
そう返答すると隊長の頭が引っ込んだ、ふたたび立坑のある部屋に向かって歩き始める。
『エルヴィスさん』
今度はそれははっきりと心の中に響いた、繊細で美しい甘い美声、だがドロシーともシーリとも違っていた、その甘美な響きが心を乱す。
知らないはずの声がなぜか懐かしく愛おしさが心をかき乱した。
思わずエルヴィスが背後を振り返ると、扉が音もなく開き始めた。