閉じた小さな世界
墓所の扉が音もなく開く、エルヴィスの目の前でヤロミールの手により墓所の封印が再び解かれた、石版をはめ込んだ扉が真ん中から割れ左右に広がる、石版も真ん中から二つに分割された。
術を終えたヤロミールが疲労でよろめき墓所の入り口近くに座り込んだ。
不思議な事に扉を閉じると石版は再び何事も無かったように完全に一つに戻る。
廃墟と化した古代遺跡にこれに似た開かずの扉が幾つも存在している、昔から扉として用を為さない故に古代文明の謎とされていた扉だ、まさかこのような形で開くとはエルヴィスにも思いつかなかった。
そして扉の原理を説明できる者もこの場にはいない。
シーリの話では物理的に扉が開くのではなく空間そのものが変化し異界への入り口になると大昔に主張した研究者がいたらしい、この説を支持する者もそれなりにいたようだ、その説も間違いだったと判明したらしい。
だが聖域神殿や聖霊教のアルムト=オーダーにこれと同様の墓所があるとすると、今まで最高機密として完全に外部から秘匿されていた事になる。
エルヴィス達にとって古い遺跡や墳墓の調査は危険が伴う、だがそれ以上に遺物や機密に強い興味を持つ様々な国家や領主や大商会などの世俗的な権力、数々の宗教や合法非合法問わない魔術結社との軋轢の方がやっかいなのだ。
今回の調査はその中でも突出して危険度が高い、早い段階で調査が終わったら身を隠そうと考える程だ、そして調査が進むにつれて遺跡の価値は際限なく上がっていく、エルヴィスは開き直ってこの遺跡の秘密を解き明かすまでやる気になっていた。
墓所の中に踏み込むと螺旋回廊の入り口に設けられた足場は昨日のままだ。
「俺と用心棒で向こう側を調査する、あと魔術師ですが決まりましたか?教授」
エルヴィスは皆を見渡してからザカライアを見つめる。
下の通路は狭く大人数を送り込んでも混乱するだけだ、少数で向こう側の安全を確かめてから他の者達を向こう側に進出させる手はずだった。
エルヴィスは朝の会議でおおよその方向を決めていたが、魔術師の人選に関してはザカライアに一任していた。
「それはだなアスペル女史に決まった、彼女の強い要望でな」
ザカライアの返答はどこか歯切れが悪い、もしかしたら彼女に不安を感じているのかもしれない。
そこにシーリが進み出る、すぐ後ろにドロシーとスザンナがしっかりと守りを固めている。
「エルヴィスさん昨日はご迷惑をおかけしました」
彼女の言葉に既視感を感じた。
「向こう側に行った事があるのは私だけ、お役に立てると思います」
シーリはエルヴィスの目を真っ直ぐに見つめてくる、だがそれが気まずくて彼女と視線を合わせられない、昨晩の奇怪な夢を思い出してしまう。
それにこれはスザンナの意向が絡んでいると感じた、スザンナはシーリの行く処なら堂々と行くことができるからだ、いち早く向こう側を把握して、前に出る事で奴らが勝手な事をするのを防ぐ意図があると判断した。
スザンナに視線を向けると彼女の目は了承しろとエルヴィスを威圧している、その横のドロシーの目はシーリとエルヴィスを見比べていた。
「確かにその通り、アスペルさんお願いしますよ」
エルヴィスの返答にスザンナがニヤリと笑った、そしてシーリの顔は僅かに紅潮するとぎこちなく微笑んだ、それを見たドロシーの機嫌が五度くらい傾くのを感じる。
「よろしくお願いします」
シーリの言葉はすこし強張っていた。
螺旋状に降る通路は床に特殊なタールで縄梯子が固定されている、これは親方達の仕事の成果だ、手すり替わりのロープもあるので昨日より随分動きやすい。
「無理をしないでくれ、縄梯子が剥がれるかもしれないそうだ」
「わかっているよ!」
スザンナが陽気にそれに応えた。
エルヴィスと用心棒は縄梯子を踏みながら背をかがめて狭いトンネルを降りる、スザンナは両手両足でトンネルの壁を抑え縄梯子もロープも使わない、ドロシーも見事な身体能力を発揮して海の不思議生物の様に危げなく一番後ろから降りてくる。
シーリはロープを掴み後ろ向きにゆっくりと下っていた、床の縄梯子が役に立っている、彼女は魔術師のローブの裾が気になるのか一々直しながら進むので、逆に気になってしょうがない、時々彼女の白い足が姿を見せる。
彼女は砂漠の旅で乗馬パンツを履いていたはずだ、いつの間にかスカートに替えていた事に今更の様に気づいた。
いつしかエルヴィスは前だけを見るようになっていた。
「そこを曲がるとすぐだ」
少し先行気味に進む用心棒の声が穴の奥から聞こえてくる。
用心棒は腰のベルトの金具にロープの先端のフックを取り付けていた。
「異常があったらすぐに引く、まず向こうの空気を調べてくれ」
「エルヴィス心配するな魔術道具を予め起動させておく、異常があればすぐに戻る」
垂直の穴の途中まで縄梯子が垂れていた、親方達が長さを調整したのだろう。
彼はそれを危なげなく下っていく、そして真ん中あたりで慎重に周囲を調べ始めた、昨日は穴に落ちたシーリが豪快に向こう側に突き抜けている、無事に生還できたから良かったが改めて考えると冷や汗物だ。
シーリが前に出てきたので注意しようとしたが、スザンナの豪腕がシーリの腰のベルトを片手で掴んでいた。
「心配しなさんな」
スザンナがこちらの心配を察したのか破魔の魔神のように笑う。
下に降りた用心棒は縄梯子に体を絡めて支えていた、片手で発煙棒に火を付けると煙が生じそれは降って行く、その煙は見えない壁にぶつかるように降下を止めると横に広がり始めた、これで向こう側との境界面が見えてくる。
「ほう」
スザンナが片手で楽々とシーリをぶら下げて感心した様に呟いた。
「前に見た発煙筒と違うのかね?」
「スザンナこれは重い煙で下に流れる」
スザンナは危なげなく姿勢を維持しながらシーリを支えている、すると今度は背中に気配を感じ驚いて身じろぎすると何か柔らかい物に頭の後ろがぶつかった。
振り返ると薄茶の布地に鈍く輝く小物入れの真鍮のボタンが目に入る、そして胸の慎ましい膨らみが目に飛び込んできた、すぐ後ろにドロシーがいたのだ、彼女の顔が天井からこちらを見下ろしていた。
「ごめんなさい、前が良く見えなくて・・・」
彼女は騒ぐ事も無く、だが何時もと違う何とも言えない表情をしていた、本当は他に何かを言いたそうにも見える。
「ああ、危険なので少し距離を保ってくれ」
ドロシーは軽く頷くと半歩だけ後ろに下がる。
用心棒は短剣を煙の床に突き刺した、そして意を決して指先を入れ次に手首を入れる、その次に空気の成分を調べる魔術道具を壁の向こう側に差し入れた。
「今のところは呼吸できそうだエルヴィス、新しい空気が入って来ない場合は危険だぞ」
井戸の底から用心棒が声をかけてきた。
「向こう側で魔術が使えるならどうとでもなるさ」
シーリを見るとスザンナに半分ぶら下げられた姿で真面目な顔をしながらうなずいた。
「そうですわ、水の中でも呼吸できる術を応用します」
「わかったこれから向こう側に行ってみるぞ!」
用心棒が上を見上げる、エルヴィスはそれを了承した。
「よし、ドロシーもロープを持ってくれ何かがあったら引くんだ」
「まかせて」
ドロシーが更に後ろに下がるとロープを掴んだ、それを確認してから用心棒に呼びかける。
「準備できたぞ」
用心棒は縄梯子から手足を離す、彼はそのまま下に落ちるが煙の壁を突き抜けて減速する、巧みに姿勢を立て直すと腰の金具からロープを外した、今度は先に大きな金属の鉤爪を取り付けて井戸の出口の縁に巧みに先を引っ掛ける。
ロープの長さもそれを予想していたとしか思えない長さに調整されていた、用心棒はそのまま上に上がると周囲を観察していたが、こちらに向かって手招きする。
「後で縄梯子を継ぎ足すのさ」
エルヴィスがスザンナ達に説明すると納得したように頷く。
ふと背後を見ると薄緑の魔術眼がこちらを見下ろしていた、ザカライアが観察の為に送り込んだのだろう。
魔術眼はそのまま井戸の真上に移動していった。
「次は俺が行く、後からシーリも来てくれ、まず向こうで魔術が使えるかすぐ確認したい」
「幽界の門が通じるかはアタシでもわかるさ」
それが聖霊拳の上達者なのかと納得した。
「ドロシーは上との連絡役を頼む、安全なら呼ぶから来てくれ」
エルヴィスは縄梯子を下り煙が漂う境界面に向かって飛び込んだ、すると上下が逆転し軽い目眩と共に気分が悪くなる、なんとか姿勢を立て直しロープをたどり上に這い上がる。
そこは小さな部屋で約10メートル四方だ、部屋の真ん中に昇ってきた立坑の口が開いていた。
部屋の一面に通路の口が開きその奥も淡く白く輝き、部屋の入り口がいくつか見え正面に扉が見える。
部屋の中は清浄な空気で満たされていた、聖域に相応しい清らかな威圧感が伝わってくる、天井を見ると精緻な造形の環状の蛇のレリーフが施されていた、壁面にも隙間なく象形文字が刻まれている、だがこれを解いた者は未だにいない。
そして部屋の中には何もなかった。
「何も無いな」
エルヴィスは思わず用心棒と目配せをした。
エルヴィスは方位機を取り出して方向を調べるが針が迷走して機能しない思わず舌打ちをする。
やがて背後からスザンナが立坑を昇って来た、驚く事にシーリを背負ってロープを使わずに手足だけで昇って来たのだ。
「やれやれだ、だが幽界の門は通じているね」
スザンナは苦笑交じりにこちらを見た、スザンナにしがみ付いていたシーリが降りる。
「これから探知の術を使います」
シーリの魔術術式の構築を感じると魔術言語による詠唱が始まった、力がシーリを中心に放たれ広がって行く。
だがその直後に彼女は眼を見開き叫んだ。
「探知が戻ってきたけど変!」
「反射かい?シーリ」
スザンナの疑問にシーリが頭を振って答えたがかなり動揺している。
「違うわ、反転しているけど何かが違う、何なの?」
今度はシーリが右腕を上げて自分の正面を指す、再び魔術術式の構築が始まる、やがて力がシーリの腕が指す方向に力が放たれた。
「術が背中から戻ってきた!!」
シーリの顔が青くなる、スザンナとシーリが顔を見合わせた。
「まさか小さな閉じた世界なのかしら?」
「そんな事があるのかね?」
スザンナはシーリの仮説に懐疑的だ。
「皆何をやっているの?」
背後からドロシーの声が聞こえる、少し機嫌が悪そうな声だ、彼女は立坑から頭だけ出していた。
「忘れてた済まないドロシー」
「もう!」
拗ねた様に小さく叫ぶと片手で一気に上に跳び上がる。
「エルヴィス簡単に見ておくか?」
用心棒は通路の奥を顎で指し示す、だがエルヴィスは頭を横に振った。
ここは未知の要素が多すぎる万全の体制を期したった。
「ドロシー皆を呼んで来てくれないか?」
「また戻るの?」
エルヴィスは申し訳なさげに彼女に頼む、それだけ彼女の身体能力を買ってるからだ。
「さあ行っておいで、ここはアンタが最適だと思うね」
スザンナの一言にドロシーは従う、それでも未練はあるようだ。
「じゃあ皆を誘導してくるわ」
ドロシーは勇敢にも立坑に飛び込んだ、エルヴィスが慌てて覗くと彼女はもう反対側の壁を昇り切ったところだった。
まだ日の登らない薄明のアンナプルナの高原をキャラバンが東に進んで行く、東の空が次第に明るくなりそれを背景に監視塔の影が遠くに見えた。
その先頭を進むのはラクダに騎乗したラウルだ。
早ければ今日の昼過ぎに砂漠のオアシスに到達する、そこで水を補給し速やかに山脈沿いに南下する予定だ。
シーリ達の報告が正しければ時間との戦いになだろう、ペンタビアの本隊がオアシスに到着するのが早ければ逃げ場が無くなる。
ふと背後のアンナプルナ山脈を睨んだ、あの森の向こうにエルヴィス達がいる、焦りだけが募るが今はこのキャラバンを逃さなければならなかった、キャラバンを失えば文明世界に戻る足も物資も失われる。
「ラウル話がある」
突然金庫番に話しかけられラウルは驚愕した、この男はキャラバンの最後尾にいたはずだ。