犠牲者
天幕の入り口を塞ぐ厚手の布の隙間から朝日が射し込み入り口の近くで寝ていたドロシーの顔を照らす、彼女は眩しさからか呻き声を上げてから薄く目をあけた、だがまだ意識がはっきりとしない。
天幕の奥から衣擦れの音が聞こえて来た誰かが着替えをしている。
彼女はのろのろと上半身を起こした、しばらく目をしょぼつかせていたが突然何かを思い出したかの様に両手で顔を覆ってからうめいた。
「なんて事!」
「変な夢でも見たの?」
天幕の奥から落ち着いた女性の声が聞こえてくる、そこに着替中のシーリがいた、動きやすそうな身軽な服装で彼女はまるで野外教室の引率の女先生の様に見える。
「あ、気にしないでただの夢よ」
シーリが彼女らしくもない揶揄する様な薄い笑みを浮かべた、だが薄暗い天幕の中でそれを見ている者はいない。
「イヤラシイ夢?」
ドロシーは震えて信じられない者を見るようにシーリを見上げる、ドロシーの顔は僅かに怒りと羞恥で赤くなった。
「違います!」
「私も変な夢を見たわ、ドロシーが裸みたいな格好で剣舞を踊る夢を見た」
ドロシーは今度こそ驚愕し目を剥いてアゴが下に落ちそうになるまで口を大きく開けた、そして顔色が見る間に青くなっていく。
「破廉恥な事をしようとしたからそこで止めた」
「そんな・・・信じられない」
ドロシーの顔が真っ赤に染まった、薄暗い天幕の中でも解るほどに。
「昨日からいろいろおかしな事が起きる『星辰の刻』のせいかもしれない」
「星辰の刻って何かしら?」
話題が変わったのでドロシーはこれに飛びつく。
「占星術の象の事、惑星と星座の位置によりいろんな影響を及ぼすの、いろんな種類の象がある」
「その話前に聞いた事があるわ」
「珍しい星辰の刻が来ている、世界の境界が低くなるのよ、ここは大きな聖域があるから影響も強く受ける、人の心の境界も低くなるのかもしれないわ」
「だから同じ夢を見たって言うの?そういえばエルヴィスさんも夢の中にいたけどまさか!」
またドロシーは両手で顔を覆ってしまった、そのまま俯いて僅かに体を震わせている。
素朴な田舎娘が羞恥に震えているだけに見えるかもしれない、だがその息遣いははたしてそれだけだろうか。
シーリは美しい柳眉をほんの僅かだけ上げた。
ちょうど天幕に力強い足音が近づいて来た。
「さあ朝食の時間だよ!」
スザンナの大声と共に天幕の入り口が開け放たれて外の明るい光が差し込みドロシーの全身を照らし出す、ドロシーが小さな悲鳴を上げて毛布中に潜り込んだ、それを怪訝そうに見下ろしたスザンナが声を落とした。
「なんだいこの娘は日の光が嫌いになったのかい?」
笑いながらスザンナはシーリを見た。
「向こうが気になる、急いで戻らないとね」
シーリは黙ってうなずいた彼女の顔はもう魔術師の顔に戻っていた。
「そうねスザンナ」
毛布の中からドロシーの小さな声が聞こえてきた、スザンナは小首を傾げた。
朝食後にシーリ達三人は野営地の荷役人達に盛大に見送られながら砦の野営地を後にした。
すでに環状の蛇の神殿の前に調査団のメンバーが集まっていた、そこにザカライアとヤロミールの姿も見える、今日の昼前に魔水が引くので墓所の視察をするために同行する事になったのだ、アームストロング隊長の姿も見えるが彼の三人の元部下は臨時で荷役人に戻っていた、替わりに口の悪い壮年の傭兵と若い傭兵の二名が同行する。
ミロンは体調が悪いので今日は休息を取ることになった、先生は場所取りと教授達のアドバイザーとして地下に降りる事になる。
そこに親方達が背嚢に道具や資材を詰め込んでやって来た。
「親方大丈夫か?」
「なあに、総て持って行くわけじゃねえよ」
ラウルが荷役人達を率いてやってくる、彼らも機材と道具を手分けして運ぶ、幸いな事に天幕を運び込む必要が無いのでかなり助かった、壁代わりの仕切りがあれば十分だ。
最後にケビンが大きな背嚢を背負ってやってきた。
地図職人は地図の整理に今日一日費やすのでここにはいない、まだ地下洞窟に未探査地域が残っているが墓所に降りるルートが開拓された今その必要は低い、余裕があれはやるべきなのはエルヴィスも解っていたがその判断はザカライアに委ねられている。
もっとも地図を仕上げるのは帰ってからになる。
そしてバーナビーは留守番だ、彼は野営地の管理とドロシー達を迎え向こうの状況に関して報告を受ける役割があった。
エルヴィスは全体を見渡してから出発の合図を発した、ヤロミールが入り口を護る防護結界を解除する。
触媒の反応臭が妙に刺激的だった今日は何時にもまして感覚が鋭くなっている。
隊列は二度の小休止をはさみ大洞窟の中を慎重に進んだ、全員大きな荷物を運んでいるのでいつもよりその歩みは遅くなる。
小さな池のある洞窟にたどりついたとこで魔水が引き始める、シーリ達が見つけ出した周期に忠実に洞窟の中を嵐が吹き荒れて轟音が鳴り響く、その吹き荒ぶ灰色の突風の中におぞましき怪異の影が踊っていた。
これが見える者はこの中に何人いるのだろう?エルヴィスは突風に混じる細かな湿った砂礫から顔を守りながらそう想った。
嵐もやがて収まり静かになると誰かが安心からかため息を吐く音が聞こえてきた。
「みんなここで休息する、この先は長い下り坂だ十分休んでくれ」
そう指示を出すと三度目の休憩を取る事になった。
用心棒はその合間を縫ってリーノに隠し武器の使い方を仕込んでいる。
鍾乳石のテーブルに一人寂しく腰掛ける先生が気になった、先生の側にあの下働きの男の姿は見えない、先生達の荷物は荷役人の誰かが運んでいるのだろう。
ラウルが荷役人達を纏めているのでまずそこに足を運んだ。
荷役人達がエルヴィスに目礼を送ったのでラウルが気づいたようだ。
「エルヴィスなんだ?」
「様子を見に来た」
その中に隊長の元部下の男たちの顔も在る、その他に補充を含めて五人の荷役人達がいる、大きな機材は分解され二人がかりで運ばれていた、彼らは汗をかきかなり疲労の色が濃い。
そして元傭兵達は元気にニヤけた顔でこちらを見上げている。
「ご苦労さん、何かあるなら遠慮なく言ってくれ」
エルヴィスはそう気楽に語りかけた、荷役人達はそれに目礼を返すだけだ、だが元傭兵達は違っていた。
「早く街に帰って遊びたいっすね」
一人がそう言うと他の荷役人達も苦笑したそれが彼らの本音に違いない。
「女っ気が無いのが辛いですよ、俺たち若いですから」
もう一人が軽口を叩いた。
「居るじゃないか、それに若いって誰だよ?お前いい歳だろ」
「下半身は若いんだよ」
「どのみち守護魔神がいるからいないのと同じだ」
こんどは荷役人達全員が笑った、守護魔神はスザンナの事に決まっている。
彼らの軽口のせいでエルヴィスは昨晩の妖しい夢を思い出した、だが今はそれどころではない。
「これを乗り切れば先も見えてくるさ、皆たのんだぞ」
エルヴィスはそう言い残すと今度は先生の処に向かった。
先生も私物を運んでいるのかいつもより背嚢が膨らんでいた。
エルヴィスから声をかける。
「大丈夫ですか?」
「やあ、休みもこまめに貰ったから大丈夫だよ」
「ところでミロンの体調はどうです?」
「ミロン君は昨日の視察から体調を崩してね、教授達は瘴気のせいかもしれないと言っていたね、下働きの男が彼を看てくれる事になったよ」
やはりミロンはいわゆる『視える者』なのかも知れない、むしろその方がいろいろと説明が付く。
ヤロミールと話をしたかったが側にザカライアの姿が見える、諦めて隊列の先頭に戻り岩の上に腰をおろした、告時機を取り出し時刻を確認する僅かな時間だが体を休ませる事にした。
休憩が終わり隊列は長い下り階段を降りて始めた、やがて橋が架けられた亀裂を越え階段橋のある大回廊に進む、もうこの光景に驚く者はいない、だが荷役人の何人かはここに来たのは初めてだった彼らの顔に好奇心より恐怖が現れている。
既に魔水の周期と水位の関連は解っているので大回廊も安全かもしれないが、最高水位が大回廊の床から僅か二メートル下だ、調査団のメンバーのほとんどが大回廊を使うことを嫌がるのだ、結局階段橋の上の部屋に拠点を設ける事になった。
「寝ている間に溶けたくねえぞ?」
それはラウルの言葉だった。
部屋の奥に親方たちの資材を置くと、皆それぞれ重い荷物を床に降ろして解放される。
それぞれが使う使用スペースも始めから決まっていた、ここにいないドロシー達の場所も当然確保されている、ここを使う事になるかはわからないが。
部屋の真ん中の階段橋の入り口がある黒い箱の後ろは親方達の空間だ、組み立て式の仕切りが幾つも組まれ天幕の布で即席の壁になった、仕切りも総て親方たちが野営地で作った道具だ。
しだいに部屋が街の市場の様な姿に変わって行く。
ザカライアは早く下に降りたいのか少し苛ついた様子で透明な壁のそばで外の光景を見つめていた、彼の視線は墓所をまっすぐ見ていた。
作業が終わる前にエルヴィスと用心棒と修行中のリーノとヤロミールで大空洞を取り巻く回廊を一廻りし異変が無いか確かめる事になった。
最大の関心事は閉じたまま開かない二箇所の扉と銀の人形だ、変化が無いことを確認しながら回廊を一廻りする。
通路には瘴気に満たされ絶えず誰かに見られている様な視線を感じた、淀んだ空気の向こうに陽炎の様な影がゆらめき何かが動くような錯覚に悩まされる。
ヤロミールは不快な瘴気をはっきりと感じている、用心棒もここは空気が悪いと苦情を並べた、だが先生と親方とリーノはまったく平気な様子に見える、巡回の結果変化の兆候は見つからなかった。
彼らが部屋に戻って来た時には作業は終わっていた、昼食の後でザカライア達を下の墓所に案内する予定だ、ルートや注意事項を覚えさせる為に荷役人も含めて全員で下に降りる。
昼食の合図でみんな携帯食料に手を付け始める、ケビンが運んできた茶器と炭で薬草茶を沸かし始めた、これが非常に好評だったので、下働きはやはり必要だとエルヴィスは確信を深めた。
食事後いよいよ下に降りる事になった、今度はラウルと用心棒が先行しエルヴィスが最後尾を進む。
ラウルは決められた注意事項を全員に伝え終えると、大回廊の壁に開けられた通路に踏み入る、この先の階段は亀裂の底に降り、そこから大空洞の底に出る事ができた。
この通路も重い瘴気が立ち込めていた、以前通ったときより空気が穢れている、やがて調査隊は階段を下り切ると大空洞の底に出る事ができた。
目の前の小さな丘の上に青紫に艷やかに輝く墓所の姿が見える、その上の光源が白い強い輝きを放っていた、その上の大空洞のドーム状の天井は巨大で遥か高みに有る、目測では高さがつかめない程だった。
エルヴィスがさりげに足元を見ると急激に瓦礫が乾いていく、魔水が異界に還って行く。
そして墓所から不快な気配が押し寄せる、これが瘴気の正体なのだろうか。
ザカライアとヤロミールは周囲を興味深げに見回していた、だが荷役人達と傭兵達に動揺が広がって行くのが見て取れる、ただアームストロング隊長の部下だけは平気な顔をしていた。
ザカライアはそれに全く意識が向いていない。
「今日は視察するだけだ、これ以上の事はしない!」
エルヴィスが彼らを宥めなければならなかった、もしや瘴気が彼らを不安にさせるのかも知れないと気づく、感受性が低くても瘴気の影響を受けるのかもしれない。
とりあえず教授を墓所の扉らしき鍵穴の前に案内した、早く終わりにして引き上げたい、ヤロミールと先生と親方も丘を昇ってくる。
驚いた事に教授は石版の拓本をローブから取り出し鍵穴の窪みの文様と比較し始めた。
エルヴィスはこれにまた怒りを感じた奴は拓本まで用意していたのだから、先生の顔も微妙な物に変わる、親方の顔も苦虫を潰した様になったが幸いにも教授からは見えない、そしてラウルがこの場にいなくて良かったと心の底から思った。
彼は他の者達と丘の下で待機している。
エルヴィスはふと気になって魔水の周期表を確認した、今日はここにいられる時間は短い、だが明日は封印を開けるには絶好のタイミングになっている。
もちろん封印を開けても中がどうなっているかまではわからない、経験ではそこから更に地下に施設がある可能性が高い。
エルヴィスは引き上げを決断した、明日の準備と疲労回復の為に早めに引き上げるのだ、濃すぎる瘴気は人の心身に悪影響を及ぼすと疑いを深めていたからだ。
丘の中腹から調査隊全員に聞こえるように告げた。
「これで引き上げる、次降りる時まで注意事項を忘れないようにしてくれ」
ラウルを先頭に調査隊は帰路につく、帰りは身軽なので彼らの足取りも軽い。
調査隊が環状の蛇の神殿から出たところ、バーナビーが野営地から急ぎ足でやって来る、その後ろからドロシー達がこちらに向かって来るのが見えた。
「バーナビーどうした?」
ザカライアが息を切らせたバーナビーに苛ついた口調で問いかけた、だが彼の口調に不安が潜んでいる事をエルヴィスは見抜いている。
しかし見かけより頑強なバーナビーがここに来るだけで息を切らすのか、エルヴィスに疑念が浮かんだ。
「下働きの男が行方不明になった」
「なんだと!?誰だ」
ザカライアが怒鳴る。
「アンソニー先生の処に付けた男です教授」
昼頃になってミロンが下働きの男が居ないことに気づいてバーナビーに報告して発覚した、その男がフラフラと野営地から出ていく所を仲間が目撃していた、それを最後に誰も男を見ていない。
調査団のメンバーが用を足しに外に出たり、気晴らしに野営地の周りを散策する事は良くあるので誰も気にしなかっと言う。
そしてその男はエルヴィスがスパイでは無いかと疑い始めた男だった。
「私達も探すのを手伝っていました」
それはシーリの声だった、エルヴィスは昨日の夢のせいで彼女と目を合わすのが少し気まずかった、見るとドロシーはあらぬ方向を向いている。
エルヴィスの胸に嫌な疑念が湧いたが今はそれにかまっている場合ではない。
ふと脱走兵に魔術的な目印が会ったおかげですぐに彼らを発見できた事を思い出した。
「教授、その男は魔術的な目印になる物など持っていましたか?」
「残念だがそんな物は無い」
ザカライアは吐き捨てる様にそれを否定した。
「生きているなら探知できる」
シーリの呟きを聞いた者はみんな驚いて彼女を見つめた。
幾つかのグループに分けて男を探索する事になった、目撃から男が向かった方向は既にバーナビー達が調査していた、丸腰とは言え四人の傭兵たちを殺した野獣の危険があるので戦力にも配慮しなければならなかった。
そして三つのグループに別れた探査隊は野営地の周囲を手がかりを求めて探し始めた。
そして一時間程たった頃の事だった、野営地から北に五百メートル程離れた湿地帯の中の小さな林の中でその男は見つかった。
エルヴィスはそこに急行する、ラウルとヤロミールの班が彼を見つけたのだ。
その男は既に死んでいた彼の遺体は凄惨な状況だった、体中が引き裂かれ肉が失われ内臓までもが消えていた、スザンナがドロシーとシーリの二人に遺体を見せないようにしている、背後でドロシーとスザンナが言い争う声が聞こえて来た。
そこにアームストロング隊長も部下を率いて到着した。
エルヴィスが隊長に向かって顔を横に振ると隊長は苦しげな顔をした、彼も部下四人を失っているからだ。
「エルヴィス前と同じだな」
男の死体を見下ろした隊長は苦しげに呟いた。
「似ているな」
下働きの男は片目を見開いたまま事切れていた、もう片方の目は失われ暗い洞窟の様になっている、目を閉じてやろうと手を伸ばし気づく。
「隊長この目の穴を見てくれ」
「なんだと・・・・エルヴィス下がれ、許せ!!」
隊長は長剣を抜き放った、その巨躯から信じられない程の凄まじい神速の神技で男の首を跳ね飛ばす、頭が落ちる前に真っ二つに叩き切った。
「何をする!?」
誰かが叫んだがその叫びは続かない、二つに綺麗に割れた男の頭の中身が空洞になっていた、脳が綺麗に失われていたのだ、まるで目の穴から中身が吸い出されたかの様に、衝撃のあまり言葉を発する者は誰もいない、そこに他の班の者達が次第に集まって来る。