淫夢
明日の手配に数時間ほど費やしたが陽が傾く前に総て完了した、親方達は運び出す機材や道具の最後の確認に忙しい。
エルヴィスは焚き火の側に戻り丸太の椅子に座って作業の状況を見守っていた。
親方は弟子に指示を出すとこちらにやってきた、そして本部天幕の方を睨みながら声を落とす。
「エルヴィス、ところで奴らは本部のあの荷物を運び出すのか?」
親方は不愉快そうに顔を歪ませていた、それだけザカライア達のやり方が気に入らないのだろう。
「いや、奴らは明後日に墓所を開ける時に持ち出すそうだ」
「お前は墓所の鍵は見たのか?」
「最後に見せるとさ」
誰かがそれを聞いて舌打ちをする。
「全員下に引っ越すわけじゃねえんだろ?」
「あそこはそれほど広くない、荷物を置いたら数人しかいられないさ、階段の下を使えば余裕だがな」
「そうか・・・」
「親方、俺はあの鍵の出どころが気になるんだ」
「そうだな奴らどこからアレを出してきたんだ?ミロンか?」
「それも秘密だとよ、先生に聞いてみるつもりだ、先生は口が軽いから何かヒントが得られるかもな」
そうは言ったがエルヴィスは先生は知らないと考えていた、ミロンが仮に鍵を持ち込んだとしても先生は知らされていない。
だが先生の意見は役に立つし手がかりになる情報が掴めるかもしれない。
そしてあの鍵は聖域神殿か聖霊教あたりが出どころだと考えられる、スザンナが鍵に付いてそれらしい話をしていたか記憶を探る。
そういえば昔の聖霊教会による調査資料が散逸していると言っていた事を思い出した。
ここの場所が解らなくなるほど資料が損害を受けていると考えて間違いない、しかしノイデンベルクの聖霊教総本山の資料を荒らす事ができる者がいるとしたらそれは何者なのだろうか。
「嗅ぎ回って大丈夫かエルヴィス?」
「俺が先生に遺跡の話を聞いても何の不思議もないぜ?」
「そりゃそうだが、あとなミロンもいろいろ胡散臭い気を付けろよ」
「わかっているさ」
ミロンが西エスタニアからかなりの重さがある石碑の断片を持ち出す事に成功できた事に強い疑問を抱いていた、そして奴が同志がいると匂わせていた事も思い出した。
砂漠の旅の頃から彼は他の者と何かが違っていた、説明しがたい存在感と刺激的なまでの視線を感じていた。
まだ夕食まで時間がある、エルヴィスは明日以降の相談と称してアンソニー先生の天幕に足を向けた。
先生の天幕の前で下働きの男が明日運ぶ荷物を整理していた、彼が先生達の荷物運びを担当するのだろうか。
「先生いますか?」
中に呼びかけると僅かに間を置いて天幕から先生の声が聞こえてきた。
「エルヴィス君かなんだい?」
エルヴィスは周囲を見ながら少し声をひそめた、何気に下働きの男に注意を払う。
「墓所の鍵についてです」
すると天幕の入り口の布が開き中に招き入れられる、中でミロンが敷布の上で横になっていた。
「エルヴィスさん体調が良くないのでこのまま失礼します」
起き上がりもせずミロンは謝罪した。
「かまわんよミロン、明日もあるから休んでくれ」
敷布に腰をおろすと先生に向き直った。
「先生は墓所の鍵をご覧になりましたか?」
アンソニー先生は苦笑し笑いながら応えてくれた。
「昨日初めて見せてもらったよ、まさかあんな物があるとは僕もね知らされていなかった、本物かどうか確認する為に僕に見せたんだろうね」
先生は苦笑いを浮かべながら顔を横に振った。
「僕の見た限りあの墓所の鍵穴と対になる石版だよ文様が一致していた、それで開くかは僕には何とも言えないけどね、彼らはずっと僕に相談もせずにいたんだよ、そんなにも信用できないのだろうか?」
「教授は魔術師以外の人間を見下していますからねえ」
寝転がったミロンが口を挟んできた、彼は天幕の壁を向いているので背中しか見えなかったが、彼の言葉にはどこか侮蔑と嘲りの響きを感じさせた。
先生はそれを否定も肯定もせず、木のカップの中身を飲み干す、そして何かに気づいてこちらを見た。
「まさか君は墓所の鍵を見ていないのかね?」
エルヴィスは頷くことで肯定した、先生はまた顔を横に振った今度は苦笑すら先生の顔から消えていた。
「いけないね、考古学の調査は危険な事が多いんだ、僕は現地に出た事がほとんど無いけどね、お互いの信頼や団結心が欠けていると脆いって父に教えてもらったよ」
現地に出た事がほとんど無いと先生が語った時それを恥じているのではと思った、そして先生は遠い昔を懐かしむような顔をした。
「同感ですね先生、俺はチームの頭だが全体に対して仕切っているわけじゃない調査中は指揮をとれますがね、すでに犠牲者が出てしまった」
「脱走は隊長の責任ではないのかい?」
「まあそうですが、アームストロング隊長も調査団が集めた傭兵の隊長として雇われて日が浅いですから、下働きも俺の命令に従いたくないのが丸わかりですよ、荷役人達は契約に従って働いてくれますが」
そうなのだ下働きも傭兵もエルヴィスの指揮下にはない、バーナビーが実質運用しているがあくまでもザカライアが団長だ。
「もしや五人の犠牲は回避できたと考えているのかい?」
「ええ始めから問題があった、統率や情報の共有を含めて回避できたかもしれない」
「僕には良くわからないけど大変だね」
一息ついたところで本題にとりかかる。
「ところで墓所の鍵はどこから来たか先生はご存知ですか?」
だがエルヴィスの目は壁際で横になっているミロンの背中を見ていた。
先生は首をゆっくりと横にふった。
「僕も何も聞いてないよ」
「先生、エルヴィスさん僕にもわかりません、ですが今までも聖域神殿から流出した物があったらしい、そんな噂がありましたよ」
ミロンが口を開いたが彼はまだ壁を向いたままだ。
「ミロン、西エスタニアじゃ有名な話なのか?」
「魔術師や考古学者の中で囁かれてきた噂ですよ」
エルヴィスにある記憶が浮んだ、北の魔術世界は亡命者や禁忌に触れて追放された者たちによって築かれた独特の体系を持っている、もっともそれはヤロミールから聞いた話だが。
流出した遺物が北方に流れた可能性がある、ならばヤロミールの線も頭に入れて置くべきだろう。
まさかとは思うが聖霊教は関与しているのだろうか?スザンナとは利害を異にする派閥があるかもしれない、聖霊教会内部の争いに巻き込まれたくはなかった。
だがそろそろ引き上げる時間だ、ここに長く居座るのも良くはない。
「さて俺もそろそろ引き上げます、とても参考になりました」
その時天幕の外で砂利が踏みしめられるような音が聞こえた、小さな音だが研ぎ澄ましたエルヴィスの聴覚がそれを捉える。
「僕も楽しかったよ、また何か聞きたい事があったら聞きに来なさい」
立ち上がり天幕の外に出ると、下働きの男が火を起こす準備をしている、だが男の顔は見えなかった、振り返りもせずエルヴィスは仲間の元に向かう、背中に僅かに視線を感じエルヴィスは不敵に笑った。
砦の野営地は崩れかけたほぼ円形の石垣に囲まれていた、その東の端に塔の廃墟がある、天幕が幾つも立ち並び外でラクダ達がのんびりと過ごしていた。
東の遥か彼方に見張塔の影が小さく見える、その向こう側は砂漠まで降る大斜面になっていた、その先は蒼きオアシスに至る。
野営地の近くに古い集落の跡と小さな古井戸があった、荷役人達は革袋を持ち出し分担作業で井戸水を詰め込んでいる、北の森では樹木を切り倒し枝葉を落として適当な長さに手斧で輪切りにしている者がいる。
野営地は活気に満ちていた。
ドロシーは病院と化した大天幕でシーリの治癒の術を受けた荷役人の男が礼を言って去っていくのを見送っていた。
「シーリ大丈夫?病人の治癒は彼が最後よ?」
「まだラクダが残ってる」
「でも、その前に一休みしたら?」
「可哀想」
見かねたスザンナが前に出てる、彼女は天幕の奥に仁王立ちしてシーリやドロシーに色目を使う者達をずっと威圧していたのだ。
「シーリあんたはあまり体が強くないんだよ、ここまで歩いてきたからね、休憩をとるんだよ」
「アスペルさんあなた達の天幕の用意ができたよ、申し訳ないが食事の用意はそちらでお願いしたい、道具も食材も好きに使ってくれ」
天幕の奥から出てきたのはここの管理を任されていた通称『金庫番』の男だ、初老の男でエルヴィスチームの中で一番の年長だった。
只者ではない空気をまとっていたが、表面は穏やかで目立つ容姿の男では無い。
「ええ食事の用意はまかせてください」
ドロシーが勇んで立候補する。
「そうだね、今日は・・・」
スザンナは目で二人に合図を送った、金庫番の前でスザンナが指示を出すわけにもいかないのだろう。
シーリは頷くと敷布の上に腰を降ろす、金庫番は見回りがあると言い残すと去って行ってしまった。
「少し休んだら残りを片付けようか、あんたばかりに負担かけるね」
「いいえスザンナ様、いえスザンナ、私の仕事ですもの」
ドロシーは少し不機嫌になって遅れて敷布に座り込んだ。
「あんたは修行が必要なんだよ、お腹を壊したくないからね」
それを見たスザンナが笑いながら茶化すとドロシーの頬が僅かに赤くなる。
「今夜は私が見本を見せるよ、侍女って事になっているからね」
病気のラクダに治癒魔術をかけてやると荷役人達がシーリを見る目が尊敬に変わって行く、ラクダは彼らの財産で命綱だラクダを失う事は死に直結する。
そして休憩をとってから、井戸水の浄化と燃料の乾燥を片付けた。
調査団は食料の他に燃料を運び込んだが、燃料は帰りを考慮すると数日分しか無い、始めから現地調達の予定だった。
魔術道具の熱源や光源もあるがこれは非常時用の最後の命綱なので節約しなければならない。
エルヴィスはシーリに治癒や水の浄化の力を期待していたが燃料の乾燥は盲点だった、乾燥は火精霊術士が得意とする分野なのでそう思い込んでいたせいだ。
魔術師は貴重であまりお目にかかる機会も少ない、荷役人達はシーリの術に感心することしきりで彼女に対してますます恭しい態度に変わっていく、シーリも悪い気はしないのか得意そうなのが隠せていない。
総ての作業が終わる頃にはもう陽も落ち周囲は暗くなっていた。
「アスペルさん、今日は本当にありがとうございました、とても助かりました」
三人に割り当てられた天幕の前に金庫番の男がやってきた、すでに食事の準備は終わっていた、彼は目を素早く走らせてからシーリに丁寧に礼を述べた。
「ザカライア教授は何をされていたのかしら?」
金庫番の男はシーリの質問に困惑している。
「教授は風精霊術師で良い治癒の術が無いと仰せでして、外傷を癒やす術なら使えるそうで、昨日は防護結界の強化に専念されていました」
「風精霊術の上位に使える治癒術があります、でも個人差で使えない術者もいるの」
「そのようですな、教授はアスペルさんにここの問題を伝えると言っておられましたな」
そこでシーリは納得した様に頷いた。
「さて、お食事の邪魔をしたようです、私はこれで」
金庫番の男は引き上げていった。
「さて久しぶりに気楽に眠れそうだよ」
スザンナが呟く、三人は精霊王に軽く祈るとささやかな晩餐に手を付ける、食事が終わったらもう寝る時間だった。
エルヴィスは早めに天幕で眠りについていた、明日は早く起床しなくてはならなかった。
天幕の外では轟音が空高く鳴り響く、そこに甲高い悲鳴の様な音が混じる、夜の大気も澱みそれが不快で眠りを妨げた。
それでもやがてエルヴィスは深い眠りに落ちていった。
ふと意識が戻るとエルヴィスは暗闇の中にいた、現実感がまったく感じられない、あたりは真の闇に包まれ上も下もわからないが何故か落ち着いていた、やがて闇の彼方に温かいオレンジの光が浮かび上がる。
それに惹きつけられる様に光に向かって進み始めた、いつの間にか暗闇の中を歩いていた。
遠くからざわめきと激しい曲が聞こえてくる、その曲は調子よく優美さや格調高さからは遠かった、扇情敵で情熱的な懐かしい曲だ、やがて歓声の様な叫びと下品な野次が混じりはじめる。
エルヴィスは駆け足になっていた、これはあの懐かしい酒場の喧騒だ、香辛料を効かせすぎた料理の臭いと妖しい焚かれた薬草の煙が漂う懐かしい我が家。
その酒場の正面に半円形の扇を開いた形をした舞台が設けられていた、背景のだいぶくたびれた赤い幕と、舞台を囲むように設けられた客席の客筋は悪い、だが金回りだけは良さそうだ、中には見覚えのある男達もいる。
ここは子供の頃になれ親しんでいた踊り子酒場だ、エルヴィスは懐かしい名前を叫ぼうとしたがなぜか声にならない。
そしていつのまにかあの音楽は消えていた。
その時人影が舞台に昇る、観客席からどよめきと歓声が上がるがどこか虚ろだ。
美しい影から素晴らしい踊り子だと期待できる、細長い四肢に控えめな美しい胸に無駄のないそれでいて形の良い尻をしている。
だがその影に見覚えは無い、いや頭のどこかで知っていると誰かが訴えている。
その影はあの懐かしい女達とは違っていた、彼女達は見事に鍛えられ美しかったが豊満で艶美で卑猥な力強さと熱い生命力に満たされていた。
突然光がその人影を照らし出した。
『ドロシー!?』
エルヴィスは叫んだが果たして声になっていたのだろうか。
照らされた舞台の上にドロシーがいた、あの踊り子の女達と同じ扇情的な衣裳に身を包んでいた、肌の露出が多い衣裳だがそれが全裸よりもエロスを刺激する、それがあの街一番の名物酒場の踊り子の衣裳だった。
ドロシーは不自然なまでの満面の作り笑いを浮かべ客席に向かって挨拶した、またあの音楽が鳴り響き始めた、何度も聞いたあの定番の曲だった底抜けに明るく豪華な旋律が押し寄せる、これは酒場のテーマ曲で一番最初はこの曲と必ず決まっていた。
なんとか舞台に近寄ろうとするが体が動かない。
ドロシーはいつの間にか両手に僅かに歪曲した片刃の剣を手にしていた、それは奇しくもエルヴィスの愛剣と同じ。
彼女は剣舞の様に舞い美しい足技は軽やかで大胆で、凄まじい速度で回転し静止し逆に回転する、その速度を激しく変化させそれでいて揺ぎなかった。
彼女の動きは剣舞そのもので決して淫猥な踊りではない、だが大胆に天井を真っ直ぐ指した足の爪先、人とは思えない柔軟な肢体は曲芸団の軽業師の様に滑らかだ。
彼女の踊りは凄まじく扇情的で魅惑的だ。
観客は興奮して歓声を上げる、エルヴィスも彼女にいつの間にか魅入られていた。
そして何曲続いただろうか、突然曲が消えた。
後には光に照らされたドロシーだけが暗闇の中に残っている、雑然とした酒場も舞台も客も総てかき消えていた。
ドロシーは真っ直ぐこちらを見ている、不思議な微笑みを浮かべてこちらを見つめている。
彼女の両手の剣がいつのまにか消えていた。
エルヴィスの意識が警戒しろと警告したが、どこか遠くの出来事の様に意識の上を滑って行く。
ドロシーは片手を挙げてエルヴィスを招く、いつのまにか体が動いて惹きつけられる様に前に出た、ドロシーも近づいて来る、彼女の目は熱い光を帯び不思議な笑みが深くなった。
その微笑から彼女らしいどこか素朴な無垢さが消えていた。
やがて芳しい芳香に包まれた、天上の香水があるとするならばこんな香りだろうか。
目の前に近づいた彼女は両手を広げる、その時彼女は何も身につけていなかった、美しい裸体に目を奪われ足が止まった。
その瞬間シーリの美貌がエルヴィスの視界一杯に広がる、美しくも朧気な彼女の瞳は熱を帯びその唇は僅かに湿っていた。
エルヴィスは絶叫した。
暗い天幕の中で目を覚ました、全身汗に濡れていた、夜だと言うのに天幕の中は妙に生温かく空気が重い。