古代の回廊
エルヴィスは大空洞の神秘的な光景をただ漠然と眺めていた、死の水面は微細なさざ波で細やかに揺れている、やはり常世の水ではない。
物を溶かす液体が在るのを知っていたが特に臭いはしない、思い切って足元の小石を一つ掴んで投げ入れた。
小さな音を立てて小石は沈んで行くやがて見えなくなった。
「やっぱり石は溶けねか」
独り言をつぶやくと、誰かが近づく足音が聞こえてきた。
「干し肉は溶けたぜ?」
それはラウルの声だ彼はエルヴィスの横に並ぶ。
なかば呆れて背の高いラウルを見上げる、彼はエルヴィスチームの中で一番大きく、調査団の中でもアームストロング隊長の次に大きな体躯をしていた。
だが見かけによらず奴は頭が切れる、そうでなければ荷役人や盗賊団の頭は務まらない、剣の腕も立つがそのかわり教養や学問に欠けていた。
「もう試したのかよ?ラウル」
「小さな切れ端を持ってきたのさ、溶けるまでけっこう時間がかかったぜ」
「アイツはあっと言う間に消えたな」
あの下働きの男が見る間に溶けて消えて行く姿を思い出した、彼が苦痛を感じていない事が救いだ。
「ああ、そうだな」
エルヴィスは親方達の仕事ぶりを観察する、橋もだいぶ完成が近いようだ、幅五メートルほどの亀裂を越えて丸太が向こう側に渡されロープで補強されていた、手すりは無いがかなり幅が広い作りになっている。
壁際にアンソニー先生とミロンがいる、二人は安全な場所から大空洞を観察しながら議論に興じていた。
階段の入口近くでドロシー達がとりとめもないおしゃべりで姦しい、無意識にエルヴィスの視線はドロシーに惹きつけられていた。
「エルヴィス彼女達を誘うと決めたんだろ?」
ラウルの声は密やかで小さい。
「今夜にでも二人に正式に伝えるさ」
「たのんだぞ、シーリが生木を乾かして魔術師はすげえっなって思ったよ、なあスザンナがオマケに付いて来るとかねえよな?」
それにはエルヴィスは笑うしかない。
「彼女も仕事で来ている、それに彼女も只者じゃあないぞ、たぶん呼んでもこないぜ?」
「只者じゃあないのは解るがドロシーの同類か?知っているなら教えろよ」
ラウルはスザンナが高貴な女性の護衛を生業としていると誤解してるようだが無理もなかった、だが彼女が聖霊教の聖女と教えるべきか悩む。
スザンナはその判断を自分に委ねているように感じていたのだ。
「すまねー今は言えない」
「そうかい」
ラウルは顰め面をして肩を竦めてみせた。
エルヴィスは親方たちが作業をしている場所に向かった。向こう岸に職人が二人渡り地面に橋を固定するために杭を打ち込もうとしているが下が固くて難儀している様に見えた。
ふと完成するのを待たずに少し先を偵察しようと思い立った。
「親方、もう渡れそうかい?」
エルヴィスが話しかけると面倒くさそうに顔を上げてこちらを向いた、親方は仕事を中断させられると不機嫌になる癖がある。
「なんだ?まあ渡るだけならな」
右手奥を見ると壁際に荷役人達が休んでいた、アームストロング隊長の元部下の三人組と歓談している、隊長はスザンナと何か話し合っているが何を話しているかまではわからない。
「早く食べないと無くなってしまうのよ、食卓は戦場なんだから、良く噛んでなんていられるものですか!」
聞き耳を立てたがドロシーの声を拾ってしまった、彼女は少し興奮している。
「よく噛まないと太る」
シーリの落ち着いた美声が応えた。
「私は大丈夫です、あなたこそ運動した方がいいわ、肉をつけなさいな」
ドロシーがシーリの二の腕を軽く掴んだ。
「少し痛い」
「お二人さん何の話をしてるんだい?」
エルヴィスは空気を察して二人に慌てて割り込んだ。
「ドロシーのお家の過酷な食事環境についてです」
シーリがこちらを振り返ると即座に言い放った、エルヴィスはシーリが少し怒っていると感じた。
「どうしたんだ?」
「スザンナさんがドロシーがパンもお肉も飲むように食べると言ったものだから」
最後はシーリが笑っていたのを見逃さない、彼女が感情を表すのは珍しい、ドロシーが顔を赤くしてシーリの口を背後から塞いでしまった。
「そうか兄弟が多いんだったな・・・良いことだ」
「煩いしオカズの取り合いになるし大変なのよ、小さい子の面倒みているスキに無くなってしまうんだもの」
エルヴィスはなぜか大笑いした。
育ててくれた酒場の踊り子達が金持ちの客が差し入れた高級なお菓子を取り合っていた事を思い出したからだ。
「ドロシー、シーリを離してやれよ」
エルヴィスは笑った、シーリがドロシーに口を塞がれ苦しそうにもがいている、ドロシーは細身だが鍛えられているので肉体的な力では遥かに勝っている。
「あっ、ごめんなさい」
そこで慌てて手を離すとシーリはやっと解放された。
「エルヴィスさん助かりました、ありがとう」
「そ、そんなつもりじゃ」
「ところで私達に何か御用ですか?」
「おっと忘れかけていた、橋がかなりできたからこの先を偵察したいんだ、三人とも来てくれ」
エルヴィスは隊長の元に向かった、背後でまた彼女達が煩くなった、隊長は背後から近づくエルヴィスに気づいたのか、彼がこちらを振り返るとスザンナもこちらを向く。
この男もやはり只者では無いのだろう。
「この先を調べるから来てくれ、ああ荷役人と下働きの者はここで休んでくれ」
「もう橋ができたのかエルヴィス?」
隊長が訝しげに工事現場を見ている。
だがここにきて用心棒とリーノの姿が見えない、だが上に登る階段の途中で用心棒が何かをリーノに教えているのを見つける。
「二人共偵察だ来てくれ」
呼びかけると二人はこちらを見て降りて来た。
「まだ完成してねえから気をつけて渡れよ、一人ずつ行け」
親方の声はいつになく厳しい、橋も出来かけでしっかりと固定と補強が終わっていないからだ。
最初にエルヴィスが橋を渡った、足元をみると特殊な細工で丸太を組み合わせ長くしている事がわかる。
いろいろな方向に強い親方自慢の細工だ、製材されていない丸太をつなげるのは長年の経験と感のなせる技だった。
用心棒とリーノは危なげなく渡った、ヤロミールも問題ない。
次は女性陣の番になったので支援してやる事にする、まずドロシーが先陣を切る。
「レディどうぞ」
少々仰々しく手を差し伸べるとドロシーは笑いながら手を差し伸べてきたのでそのまま引き寄せてやった、もちろんドロシーは手助けなど不要だ。
だがシーリは亀裂の底を見て竦んでいた。
「少し前を見て、俺を見て」
エルヴィスが手招きすると意を決して歩き始める、途中から走り初めて胸に飛び込んで来た。
彼女は魔術道具の照明をヘアバンドで頭に付けていたので、いつもの鍔広三角帽子を被っていない、俯いていたので顔は見えなかった、だが彼女の淡い香水と触媒の臭いが鼻を刺激する。
「そういえば水精霊術に空を飛べる術があったよね?」
ドロシーの声が近くから聞こえてきた、声は彼女の機嫌の悪さを伝えてくる、先程のあれを引きずっているのだろうか。
「触媒と精霊力の節約です」
やけに素っ気なくシーリが応じる。
「さてさて先に進もうかね」
するとすぐ後から渡って来たスザンナがシーリをエルヴィスからパリッと引き剥がしてしまった、そしてドロシーの背中をいくぶん強めに叩く。
「あんたは重い慎重に渡れ!」
親方の声が聞こえたのでそちらを見ると、最後に隊長達が渡って来る、隊長は苦笑いを浮かべながらまったく危なげなく渡ってくる。
ラウルは留守番で奴がこの場の責任者になった、アンソニー先生達はあいかわらずこちらを見もせずに議論に耽っている。
さっそく通路の口を覗くが暗い、魔術道具を点灯し中を照らし出した、中は反対側の階段と変わらない荒い壁が続いていたが傾斜は無かった、水平な床が暗闇の向こうに伸びている、だが通路が僅かに左に曲がっているようも見えた。
すぐにシーリの青白い魔術の灯りが周囲を照らし出した、まるで海の雪の様に美しい光だとふと想った。
「階段はここで終わりだ」
背後から安心するかのようなどよめきがあがる、エルヴィスも密かに恐れていたのだ、階段の下があの死の水に満たされている光景を正直見たくは無い。
そのまま暫く進むと告時機を確認していたヤロミールが警告を発する。
「私の予想が正しければ、水が引く時間だ!」
エルヴィスは頬を撫でる僅かな空気の流れを感じとった、それは僅かに不快な気配を乗せていた。
「みんな止まれ姿勢を低くしろ、強い風が来るぞ!」
後ろに目をやると言われた通りに全員姿勢を低くしている。
やがてヒョウヒョウと風の叫びが聞こえて来た、前方から向かってくる風がしだいに強くなってくる。
埃混じりの風が強く当たると肌が痛い、顔を伏せて手の平で目を護った。
しだいに不快な気配が強くなって来たこれが瘴気なのだろうか、胸から精霊編成物質のナイフを取り出して何時でも抜けるように身構える、得体の知れない怪異の襲撃に備えた。
そして風が突然殴り付けるような暴風に変わると辺りを圧する轟音に押し包まれた、後ろが気になって見るとシーリの魔術の光球が風に負けて流され消えたところだった。
それからどのくらい時間たっただろうか、風が弱まりしだいに辺りを圧していた轟音が小さくなって行く、告時機を取り出し確認すると体感よりそれほど時間はたっていない。
風がほぼ止むと立ち上がった。
「みんなもう少し進むぞ」
ふたたび魔術の光が通路を照らす、シーリがふたたび灯りを灯したのだ。
調査団はまた通路を進み始めた、通路は緩やかな曲線を描いていた、今度は方位機を調べるといつのまにか進行方向が南西に向いている、この通路はもしや大空洞を囲んでいるのでは、そんな推理が頭に浮かんだ。
そして前の方に青白い光に照らされた白い壁が見えてきた、どうやら終わりが近い。
「なんだあれ?」
それはリーノ少年の声だ、先が何か大きな空間につながっている慎重に前進し出口に近づく。
用心棒がエルヴィスの横に出て来た。
「かなり広い様だ」
用心棒と顔を見合わせた。
その先は白亜の大理石の様な美しい石材のような物質で作られてる様だ、エルヴィスが通路から出て周囲を確認した。
そこは巨大な廊下の様な空間だ天井まで高く二階立ての建物ほどの高さがある、天井も薄く灰色がかった石材の様な物質で造られていた。
回廊は明るいが照明らしきものが見当たらない、壁や天井が自ら光を放っているのだろうか、エルヴィスには見当も付かなかった。
壁や柱には見慣れた古代文明の特徴的なレリーフが全体に施されていた、だがここまで保存状態の良い遺構は初めて見た。
左側は床から細い橋の様に階段が上に伸びて壁の中程に空いている通路に繋がっていた、右側はしばらく先に巨大な扉が見える、扉はしっかりと締め切られていた。
そして正面の壁には通路らしき入り口が見当たらない。
ふと気になり背後の通路を確認すると、まるで壁が破壊されて通路が造られた様に不自然な形になっていた。
「これは後から掘られた物であるな」
用心棒の口調から穴を作った何者かに対する敬意すら感じる事ができた、どうやって掘削したのか後で親方の意見を聞こう。
エルヴィスは再び魔術道具の方位機を確認すると正面はほぼ南を指している、もしかするとあの水面下に見えた大扉の真上ぐらいにだと当たりを付けた。
「まずはあのデカイ扉を調べよう」
調査団は西側の大きな扉に向かう。