悪夢の影
エルヴィスは悪夢にうなされていた、上も下もわからない暗黒の空間の中で立ち尽くしていた、だが足は硬い地面を踏みしめていた。
やがて彼方から闇よりも暗い何かが押し寄せる、そして唸るような咆哮がその彼方から聞こえてくる。
水よりも粘り気のある黒い瘴気に押し包まれる、その濁流の中に踊るように蠢く小さな生き物が無数に潜んでいた、それが人の指先だと気づいて叫び声を上げたがそれは声に成らない。
柔らかくしなやかな指の動きは淫靡でいて非人間的だった。
しだいに黒い嵐が静まって行く、嵐が薄れると黒い霧を通して鋭く輝くいくつかの光が見えてきた、それらは巨大な宝石のように瞬きもせずに輝いていた、まるで美しい星々のように。
だがそれ以外に光は無かった、背後は塗りつぶされた様な一面の暗黒、その星々から巨大な力が押し寄せてくる。
魔術師の力など問題にならない程の巨大な力が迫る、ザカライアの力が水の一滴だとしたらそれは大洋の海水のようだ。
やがて流れは一つの過流に変わっていく、その中心で巨大な何かが動こうとしていた、黒に近い紫の閃光が渦のまんなかから溢れ出した。
その光を背景に人の影が浮かび上がった。
それはほっそりとした長身で古めかしいドレスを身にまとっていた、そして腰までゆるく波打つ長い髪。
だが暗くて色まではわからない、形から女性らしいがそれ以外何もわからなかった。
その両眼があるあたりから真紅の光が溢れ出す、それは人の瞳の形をしていた、その人影は滑るようにこちらに近づいてくる。
しだいにその姿が明らかになる。
貴族的な端正な顔の輪郭、芸術的なまでに洗練された鼻筋、左右に長く張り出した長い耳。
エルヴィスの知識から答えを探り出す彼女は妖精族の女性だと。
彼女は古代文明のどこか非人間的なまでに理想化された美女の特徴を見事に現していた、エルヴィスは彼女を美しいと思ったが好みでは無い。
そして目の前に来た彼女には表情が欠落していたがその瞳は赤い太陽のように激しく燃え上がっている、しだいに血が人形に通う様に彼女の貌が変化して行く、エルヴィスは一瞬だけ彼女に魅了された、だがそれはすぐに砕かれた、彼女の笑みは底なしの悪意と残虐さに満ちていた。
彼女がニンマリと笑うと口から鋭い白い牙が頭を覗かせる。
エルヴィスの本能がそれを拒絶し恐怖した、人に流れる血が古代の恐怖を呼び覚ます、彼女は闇妖精族の怪物だった。
叫びを上げたがそれは声に成らない。
エルヴィスは敷布の上で目を醒ました、薄暗い天幕の天井を見上げていた、入り口から蒼い月と星の灯りが僅かに天幕の中に差し込んでいた。
そして外ではあの不気味な風の咆哮が吼え猛る、物悲しく獣の遠吠えの様な風の唸り声が遠く近く夜のアンナプルナの山々に響き渡っていた。
この音で悪夢を見たのだろうか、体が汗で濡れていて不快だ、今何時なんだと思い枕元の告時機をまさぐる、たしかこのへんにあったはずだが。
その時の事だった野営地の静寂を破るように誰かの叫び声が上がる。
「奴らが逃げたぞ!!」
エルヴィスは慌てて天幕から飛び出す、遅れて後からラウルと用心棒が飛び出してきた。
野営地の中心から白い光が溢れ出す誰かが魔術道具の照明を使ったようだ、何か騒ぎが起きているようで喧騒と怒鳴り声がここまで聞こえてくる。
「ラウル行くぞ!」
「わかったまさか奴らが逃げたのか?」
二人は急いで本部に向かった小さな野営地なのですぐに辿り着ける。
「何が起きた!?」
本部天幕の前で指示を出していたバーナビーに声をかける。
「エルヴィスか脱走兵の四人が逃げたんだ」
「なんだって?見張りはどうなった」
バーナビーが指を指すと、そこに武装した兵士が二人倒れ伏していた、彼らを下働きの男達が介抱している。
「どうやら息はある」
そこに隊長もやってきた、大きな体躯と膨大な筋肉の塊の様な巨人が姿を表したのだ、そこにいるだけで圧力を感じる。
「まさか奴らが逃げたのか?魔術結界を貼ったと聞いたぞ?」
隊長の声はどこか悲しみを感じさせる、部下たちの裏切りとその末路を嘆いているのだろう、二度目の脱走ともなるとより罪は重くなるのだ。
「牢獄の天幕の魔術結界が何者かに消された」
バーナビーの答えにエルヴィスと隊長は絶句した。
「魔術師の仕業なのか?」
バーナビーがこちらと隊長に目をやった。
「二人共よく聞いてほしい、この野営地は防護結界で護られてるのは知っているな?内部に犯人がいるはずだ」
「まずいな砦の野営地に行かれるとまずい、バーナビー奴らはいったいいつ逃げ出したんだ?」
「エルヴィスはっきりとした事はわからない、防護結界が張られたので見張りを減らしたんだ人手が足りなくてな、せいぜい二時間だろう」
「今何時だ?」
時間を知ろうと告時機を探していた事を思い出した。
「今はだいたい三時だよ」
「エルヴィス、バーナビー、奴ら以外にいなくなった奴がいるか調べるんだ」
隊長が重々しく告げた、バーナビーもはっとしてそれに気づいた様だ。
エルヴィスはつい砦の野営地の安否が気になるのでそちらに意識が向きがちになる、もしかすると脱走兵と共に魔術師がいるかもしれなかった。
バーナビーは慌てながら下働きの者達に命じて全員の安否を確認すべく動き出した。
そしてすぐに逃亡した四人以外全員いることが確認される。
バーナビーは何か思いついたのか急に駆け出した、バーナビーの進む方向に神殿の入り口が黒い四角い口を開けていた。
「奴らがどこにいるかわかるぞ」
エルヴィスが脱走兵の追撃の計画を立て始めたところで後ろから声がする、それはザカライア教授だった。
全員大天幕の方を振り返った、中からザカライア教授が黒いカラスの様な姿を表した。
「風精霊術は探知や追跡に長けている、そしてこの世界の運動を司る力だ、牢獄用の天幕の結界の他に奴らにも術をかけておいたのだ」
「何をされたのだ教授?」
隊長が尊大な魔術師に率直に疑問を投げかけた。
「神殿の結界が破られた以上、備えるのは当然ではないか、奴らがいる方角とおおよその距離がわかるように術をかけたのだ」
そしてエルヴィスは先程からヤロミールの姿を見ていない事に気づいた。
「ヤロミールは今どこにいる!?」
ザカライアは話の腰を折られて不機嫌になったが、すぐに気を取り直した。
「疑っているのか?奴は結界を調べているところだ、外から入ることができる場所を探している」
そこにシーリが例の二人をお供に本部にやってくる、シーリは眠そうに目を素手でこすっている。
「あの人達また逃げたようね」
そしてあくびをした。
「だが奴らは先程から動かないようだ」
ザカライアが言葉を濁し口を閉ざしてしまった、スザンナが何の話だと言いたげにこちらをギョロ目で睨みつけてくる。
「教授が奴らに魔術的な印をつけていたんだよ」
それを聞いたシーリが納得した様にうなずく、ドロシーはまだ良くわかっていないのか大きな目をキョロつかせていた。
そこにヤロミールが結界の調査から戻ってきた。
「結界に穴は無い」
「やはり犯人は内部にいるのか?」
それは隊長の声だわずかに震えた声が彼の内心の動揺を感じさせた。
「防護結界をすり抜ける事はできるのか?教授、ヤロミール」
ふと疑問を感じたので聞いてみる、幸いここには三人の魔術師が揃っていた。
「絶対ではないが、それができる者は人ではない」
ヤロミールがキッパリと断言したので全員の視線が彼に集まった。
「魔術師で無いのに防護結界を破壊する事はできるのか」
「過負荷を加えれば壊す事ができるがこの近さでは我々が気づく、気づかれず破壊できる者がいるならばそれも人ではないだろう」
その場に深い沈黙が広がった。
「バーナビーさんが戻ってきたわ」
その気まずい空気を破る様にドロシーが妙に明るい声で叫んだ、ドロシーが神殿の方から野営地に駆け足で戻って来る彼の姿を発見したらしい、バーナビーはすぐに本部天幕にやって来た、彼はまったく息を乱していなかった。
「神殿の防護結界は無事だった」
「では奴らを探しに行こう、奴らは先程からまったく動いていない北北西三キロ程の場所だ」
ザカライアが本部に集まった者達をゆっくりと見渡した。
「以外に近い」
誰かがささやく。
ザカライアが術式の構築を始め詠唱が終わると若緑色の光の矢が宙に現れる。
ザカライアの少し前方の頭上に浮いた矢印はクルリと回転すると北北西を指し示す、ザカライアはその先に向かって歩き始めた、隊長と復帰したばかりの三人の傭兵が続き、さらにシーリとお供達、エルヴィスとラウルが殿を務めた。
バーナビーとヤロミールの二人は野営地に留まり犯人の調査を行う事になった、気を失っている二人の見張りが目を覚ませば証言を得られるだろう。
そしてバーナビーが通過していく三人の傭兵を見て目を見開いたのをエルヴィスは見逃さなかった。
エルヴィス達は深夜の湿原を進んで行く、シーリが魔術で足元を照らし出してくれたおかげで歩きやすい、皆いつでも戦えるよう無駄口は叩かなかった。
時々湿地に足を踏み入れたザカライアの舌打ちが聞こえてくる、その度に湿地や池を迂回した。
だがザカライヤの矢はある一点を指したまま動かない、そしてこの方向は砦の野営地に向かうルートから外れている。
何かが変だった。
「うごかんな、あやつらに何か起きたのか?」
ザカライヤの言葉の端から困惑が伝わってくる。
「怪我でもして動けないのか?教授そろそろかな」
隊長が教授にたずねた。
「そうだ、そろそろだ」
隊長が部下に短く命を下すと傭兵達が前面に出て左右に広がる、隊長はザカライヤの前に出た。
エルヴィスは何か不吉な予感がしたので前列に出る、それにラウルが続く。
「そろそろだ・・・」
「まて誰かが倒れているぞ」
隊長の警告の叫びが上がった、その時エルヴィスの鼻を血生臭い臭気が突いた、そして抜刀すると同時に警告する。
「スザンナ!!」
「わかったよ!」
スザンナは警告の意味を瞬時に察した様だ。
「何がわかったのよ?」
ドロシーが呻き声を上げた。
エルヴィスが魔術道具の照明を点灯し少し前方の湿原を照らしだすと、その光の中に凄惨な光景が広がった。
隊長と傭兵達の呻き声が聞こえて来た。
「なんじゃこれは?」
そこにザカライアの恐怖を滲ませたうめき声が重なる。
その光に照らされて地に倒れているのは、酷く傷つき引き裂かれ刻まれた傭兵達の惨殺体だ、何か巨大な肉食獣に襲われたような凄惨な姿を地にさらしていた、辺りの湿地は血で赤く染まり生臭い臭いが立ち込めている。
「熊にでも襲われたのか?」
隊長が慎重に犠牲者に近づき遺体の検証を始める、元部下の傭兵達は隊長を守るかの様な位置に動いた。
囚人達は武器も装備も持たずに逃げ出している、とても戦える状態ではなかっただろう。
ある者は恐怖を張り付け、ある者は理解できないと言った顔を貼り付けたまま生き途絶えていた。
「ここは湿地だ獣の足跡が残ってるかもしれないぜ、俺たちが調べる」
そう宣言すると周囲の湿地をラウルと手分けして調べ始めた。
「あんたらは見るんじゃないよ?」
スザンナの言葉が聞こえてくる。
「大丈夫よ心構えができてるから」
「わたしも見れば何かわかるかも」
ドロシーとシーリの言葉が聞こえてくるが正直やめた方が良い、何か言おうとしたが隊長が立ち上がった。
「これは何か大きな獣に食われたな、内臓がかなり無くなっておる」
「ひっ!」
ドロシーの押し殺した悲鳴が聞こえてきた。
エルヴィスが周囲を調べても大型の獣らしき足跡は見つからなかった。
「足跡が無いな、クソ奴らの足跡しかねえ」
ラウルも諦めた様に立ち上がった。
「ここはかなり踏み荒らされておる、奴らも抵抗しようとしたか逃げようとしたようだ、あっと言う間の出来事だ、遠くまで逃げる時間は無かったようだな」
隊長はその凄惨な殺人現場をしばらく呆然と見下ろしていた。
多くは謎のままだった、だが危険な未知の獣がいる事が判明した、得られた事はそれだけだ。
一行は野営地に引き上げる事にした、向こうで犯人の手がかりが見つかったかもしれない、しだいに東の空が薄いピンクに染まって行く、まもなく夜明けがやって来る。