脱走兵の制圧
そこは鬱蒼とした薄暗い森の中、先日調査団が下草を切り開いた道が森の中を這うように縫っていた。
「まってそろそろかけ直すわ」
シーリの警告で全員足を止めた何度目かの身体強化の術をかけ直す時間だ。
シーリが全員に身体強化の術をかけて行く、慣れたのか始めの頃より早く終わった、総ての作業を終えた彼女に疲れの色が見えていた。
「シーリだいじょうぶか?」
思わず彼女に声をかける。
「いいえまだ問題ないわエルヴィスさん、でもこの術が役にたったのなんて初めてなのよ」
シーリの表情に乏しい顔に僅かな喜色が浮かんでいる、そして彼女はこちらを見ながら僅かに微笑んだ。
横にいたドロシーが三歩シーリに歩み寄った。
「本当に凄いわね、これだといくらでも走れる」
ドロシーは自分の肩の高さまで飛び跳ねてみせた。
「何を馬鹿言っているんだい、そんな事だからすっ転ぶんだよ」
スザンナがドロシーをたしなめた、エルヴィスがドロシーを見ると、彼女の乗馬服が泥で汚れていた、さきほど木の根に足を取られ派手に転んだばかりだ。
初めてアリシアの港町で会った時、彼女は女騎士の様な凛々しい態度をしていた、こちらが彼女の本当の素顔なのだろう。
ふと森の中で人影を見たのはこの近くだと思い出す。
「さあ急ぐぞ!」
今まで黙っていた隊長が重々しく口を開く、再び五人は砦の野営地に向って薄暗い道なき道を駆け出していた。
しばらく走るともう砦の野営地が見える距離まで近づいていた、先頭を進むドロシーが前を向いたまま走りながら大声で叫ぶ。
「アイツラの姿が見えないわ、本当にこっちに来たのかしら?」
「急げば四時間で野営地に辿り着く」
だがエルヴィスの中に不安が広がっていた、彼らが環状の蛇の神殿の地下に入ったならば、無駄な努力をしている事になるからだ、だが心からその迷いを追い出した。
砦の野営地の物資が損害を受けたら調査を続ける事ができなくなる、それどころか最悪生きて帰れなくなるのだ。
野営地からラクダと物資が奪われ天幕が燃え上がる光景が脳裏に浮かんだ。
「クソ」
思わずエルヴィスは舌打ちした。
しばらく走ると前方の視界がしだいに開けて来る、いよいよ森の終わりが近い。
森が途切れると眼前に廃墟の村が広がる、その向こうに崩れかけた砦の廃墟が目に入る、一見すると野営地に異常は見られない。
五人はそのまま集落に入ると崩れかけた壁を盾にしながら野営地に接近していく。
民家の壁に隠れながら、砦の城壁まであと数メートルの距離まで近づいた、城壁が邪魔でお互いに姿を見ることはできないが、なにやら激しく言い争う声が聞こえて来た。
「シーリ偵察できるか」
後ろにやってきた仲間達に声をかける。
「ええ任せて!」
その少し浮いた声にエルヴィスはなぜかぎよっとなってしまう、思わず後ろを振り向いてしまった。
彼女は厳しく口を引き結んでいたが、彼女の瞳は生き生きと輝き頬の血色も良く僅かに興奮していた。
彼女が魔術の構築を始めると力が湧き上がり収束しやがて詠唱が始まる。
目の前に朧気な姿の魔術眼がその姿を表した、魔術眼は宙に浮かぶとそのまま城壁を乗り越えて野営地の奥に向かって飛んでいく。
「たいへん!エルヴィスさんの仲間の人があ、あの人達に囲まれている、武器をつき付けているわ」
シーリの声は動揺していた彼女の舌が少しもつれる。
「他の奴らはどうしている?」
「みんなまわりを取り囲んで見ているだけよ」
物資管理の男が人質に取られたとホゾを噛んだ、だが傭兵二人と荷役人達はまだ奴らの側に付いてはいない。
「エルヴィスとドロシー、あんた達は奴らの注意をひきつけておくれ、私が片付けるよ人質がいるからね」
スザンナが淡々とした調子で提案してきた、まるで近所の八百屋で野菜を買ってくるかのような手軽な仕事の様に。
思わずスザンナを見たが彼女はニヤリと笑い返す、不敵で図太い笑みだこいつを心配するだけ無駄かもしれない、むしろ傭兵達の身が心配になる。
「スザンナ俺が隊長だぞ?」
少し困惑した口調で隊長が苦情を入れてきた。
「あんたが出張って奴らが逆上したら人質の命が危ないだろ?」
スザンナがそう言い放つと隊長はなんとも困った様な顔をして黙ってしまった。
「心配しなさるな手加減するよ、気絶させて無力化だね、それともやっちまうかね?」
エルヴィスは悩み始めた、傭兵が四人戦力にならなくなり逆に見張りが必要になる、捕らえて監視するにしても手間がかかるし物資も消費するわけだ完全な穀潰しだ。
そこでエルヴィスは隊長に尋ねた。
「軍規では奴らはどうなるんだ?」
「脱走だけなら営倉入だが、物資や資金に手を出したり人員を傷つけたら死刑もありえる、まだ未遂のようだが武器を突きつけて脅迫している様だ罪は重くなる」
隊長の部隊は編成から日が浅いが、見知った男たちの裏切りに彼は心を痛めているようだ。
信用できる傭兵でもこの有様だった。
「制圧しよう生け捕りだ」
エルヴィスは脱走兵の制圧を決めた。
「私は?」
不思議そうな顔でシーリがこちらを覗き込んできた。
「シーリとデクスターは様子を見て支援しな」
エルヴィスがシーリに指示を出す前にスザンナが決めてしまった、エルヴィスも同じ事を考えていたが複雑な気持ちになる、だがスザンナ達はエルヴィスの指揮下にいるわけではないのだ。
エルヴィスは廃墟から出ると砦の壁の崩れたところを抜けて野営地に入った、ドロシーもその後からついてきた、しだいに言い争う男たちの声が大きくなってくる。
「あそこは悪魔の住処だ、誰がこんな処にいられるか!」
「お前ら一体どうしたんだ?」
「さっさと金のある場所を教えろ」
物資管理の男の周りを傭兵達が取り囲んでいる、彼は窮屈そうに両手を上に挙げていた。
野次馬の様に遠巻きに取り囲んでいる荷役人達達も困惑し動揺しお互い顔を見合わせている。
「おい、こんな処にいたのかよ」
エルヴィスは中央の天幕の前までくると傭兵たちに声をかけた。
傭兵たちは突然の声に驚き一斉にこちらを振り向いた、周りで様子を見ていた荷役人達と傭兵二人も驚いていいる。
「エルヴィスか早いな、魔術結界の意味がなかったぜ」
物資管理の初老の男がこちらに気づくと強張った笑みを浮かべる、彼はエルヴィスチームの会計や物資管理など重要な役目を担っていた。
野営地はザカライア達が構築した魔術結界に守られていたが、だが傭兵達は防護結界を通る事ができたのだ。
エルヴィスの隣にドロシーが並んだ。
「アンタと照々坊主かよ」
傭兵の一人が驚きから立ち直ると笑みを浮かべる、エルヴィスとドロシーを見て侮ったらしい。
「どうするこいつらも殺るか?」
もう一人の傭兵に余裕は無かった。
「いやまてこいつらはかなり出来る、それにまだ他にもいるかもしれ・・」
その男は最後まで言い終える事ができなかった。
「その通りだよ、でも後ろががら空きだね」
その傭兵は物を言わずに崩れ落ちた、スザンナがいきなり男の後方に現れ何かをしたのだ、残りの傭兵達がスザンナから素早く離れる、スザンナは人質の男を背に庇う位置に素早く動いた。
「筋肉ゴリラかお前もいたのか!」
その一瞬の空きをドロシーは逃さなかった、一人の傭兵の肩に風車の様に回転したドロシーの脚が上から激しく打ち下ろされた、男の剣が手から滑り落ちて石畳に火花を散らすと装備を鳴らしながら男は崩れ落ちた。
「照々坊主?」
ドロシーは剣も抜く間もなく一人の傭兵を沈めてしまった。
だが彼女の声から怒りよりも悲哀と衝撃を感じたのだ、こんな状況なのにエルヴィスは笑いを堪えるのに必死になった。
「もう終わりだお前たち武器を捨てるんだ」
そこに巨人が現れた、禿げた頭に魁偉な顔そして大きな白い鳥のような白髭、アームストロング隊長が遂に姿を現した、残りの二人の傭兵があからさまに慄いて後ずさった。
だがスザンナが音もなく動いていた、一人の傭兵の後ろに立つとその首筋を掴む、その男は音もなく崩れ落ちる。
最後の一人は驚愕に目を見開き釣り上げられた魚の様に口を動かしている。
破れかぶれにになったのか突然叫び声を上げてスザンナに斬りかかった、その直後に剣は彼の手の中から消えていた、彼の手首は無理な方向に歪んでいた。
だが男には叫ぶ余裕すら無かった、そこにスザンナが大きく踏み込むと彼女の右の拳が傭兵の胴丸の上から叩き込まれる。
鈍い音とともに傭兵は反対側の天幕に叩きつけられ、厚手の布が大きくたわむと傭兵は動かなくなった。
「お前は本当に武器を振るう者には情け容赦ないのう」
アームストロング隊長はやれやれと行った風情で倒れた男達を見回している。
「眠たい事言うんじゃないよ、死なない程度に手加減しているさ」
スザンナが舌打ちをした、そして天幕にめり込んでいる傭兵を二人は見下ろす。
「エルヴィスおもったより早かったな」
そこに解放された物資管理の男が近づいてきた、エルヴィスチームの中でも最年長で経理や物資の管理を担っている初老の男だ、細面で地味な容姿の男で田舎役人の様な雰囲気を纏っていた。
彼は隠れ場所から出てきたシーリの姿に気付くと何かに思い至った様子だ。
「魔術師がいたんだな」
「そう言う事さ」
「なあエルヴィスこいつら一体どうしたんだ?」
物資管理の男が近づくと、彼は倒れ伏している傭兵達を見回した。
「こいつらビビッたんだよ」
そしてエルヴィスは環状の蛇の神殿の地下の探検の経緯を話す、定期的に連絡員をここに送っているがどうしても情報が遅くなるのだ。
それを周りにいた者達も聞き耳を立てていた。
「ああいった遺跡じゃ良くある事なんだがな、今回は格別なのか?」
「あれ程の物は今まで見たことが無い、親方もびびっていたよ」
「なあザカライア達を説得して仕切り治す道もあるんじゃないか?」
この提案にエルヴィスは驚かされた、たしかにもっと多くの魔術師や傭兵ではない正規の兵士と労働力を投入した方が良いのかもしれない、それは契約にも明記されていた。
「わかったザカライアに提案してみよう、こいつらの面倒はこっちじゃ無理だな」
物資管理の男が首を横に振った、ここにはこの男とラクダの面倒を見ている九人の荷役人達と傭兵が二人、そして雑用をこなす下働きの男が二人いるだけだ、もし四人に加担する者が出た場合に対応できない。
エルヴィスは周囲の荷役人達の態度を先程からずっと観察していたが、彼らに動揺の色が見られた。
「ロープを貸してくれ、猿ぐつわもする、コイツラを向こうに連れて行く、傭兵二人を借りていいか?」
「良いだろう」
これに隊長が即断した。
砦の野営地の護りは魔術結界にすべて頼る事になった、もっとも傭兵が二人いたところでそれほど意味は無い始めから予備戦力と労働力を兼ねていた、ここならば二人に必要な物資を遠くまで運ぶ必要は無い。
手分けして彼らを縛り上げると猿くつわをはめる。
「エルヴィスさん、いったい向こうはどうなっているんだ?」
少し落ち着いたところで荷役人の頭の一人が意を決して声をかけてきた。
「世紀の大発見だ、こいつらはビビったのさ」
エルヴィスは嘘は言っていない、だがあの地下の光景は口で言っても説明しきれなかった、不信に満ちた目のまま頭は引き下がった。
エルヴィスは荷役人監督がここにいたらと後悔したが、アリシアに帰還する荷役人達を纏められる者は彼しかいなかった。
エルヴィス達は四人の捕虜を連行し神殿前の野営地に還る事になった。