脱走者
ふたたびアンナプルナの山々に朝が訪れた、山脈の東側の野営地からは昇る朝日に白銀の峰々が照らされ美しく輝いて見える。
エルヴィスは天幕から出ると星が見えそうな程の深蒼の空を見上げて、深呼吸をすると肺の中から古い空気を追い出して新鮮な空気で満たした。
その時、遠くからエルヴィスの名を呼ぶ声が聞こえる、辺りを見回すと神殿の方角からシーリとドロシーが駆け足でこちらに向かってくる。
何かが起きたに違いない、そのまま二人を待つ事にした、さては防護結界に異変が有ったかも知れない。
「おはようございますエルヴィスさん」
「おはようエルヴィスさん」
すぐに二人が駆け込んで来る、シーリは軽く息を切らせドロシーはまったく平気そうだ。
丁度もう一つの天幕から出てきたケビンが眩しそうに二人を見ている。
「どうしたんだ?二人共」
「あの、ちょっと」
シーリが周囲を見回して当惑している、天幕の中からチームの仲間たちが出てきたからだ。
「わかった俺について来てくれ」
エルヴィスは二人について来いと合図を送ると野営地から離れ神殿の入口に向かって歩き始めた、二人が後からついてくる。
野営地から距離をとると歩く速度を落とした、シーリがエルヴィスの右側に上がってくると、なぜかドロシーはエルヴィスの反対側に並んだ。
「ここらへんでいいか」
エルヴィスは立ち止まった、そしてシーリの個性的な煙るような茫洋とした美貌を見詰める。
「あのエルヴィスさん、防護結界が破壊されていたの」
エルヴィスは驚きですぐに言葉がでてこない、その意味を理解しようとしていた、エルヴィスも多少は魔術の知識があるのだ。
「いつ破壊されたかわかるか?」
「防護結界の近くにいないとわからない」
「そうか」
そのまま三人は環状の蛇の神殿の入口に向って歩きだした。
「魔術師に破壊されたのか?」
「防護結界は魔術で解除するか、過負荷を加えて破壊できるわ、防護結界の強さは術者の技量や力で変わるの」
「君より格上の魔術師か?」
シーリはうなずいて肯定したが。
「あと数で押せば弱らせて破壊できるかな」
ふと会話に参加できないドロシーが少し不平顔でのぞき込んでいるのに気づいた、目が合うとあらぬ方向を向いてしまった。
「発見してすぐに俺の処に来たのか?」
「エルヴィスさんが責任者でしょ?」
エルヴィスは苦笑した探索や移動時はエルヴィスが指揮をとることになっているが、調査団の全体責任者はザカライヤ教授だ。
やがて三人は環状の蛇の神殿の入口に到着した。
「俺が見ただけじゃわからないか」
エルヴィスが入り口に手を伸ばしても抵抗を感じなかった、指先が入り口をそのまま通過してしまう、たしかに防護結界が消えている。
昨晩の夜に何者かが内部に入った可能性がある、そしてまだ内部にいないとも限らない。
そこに野営地からラウルと壮年の匠と用心棒がちょうどやってきた。
エルヴィスが状況を説明するとラウルは全員の点呼をとったらどうかと提案してくる、たしかにもっともな話だ。
ラウル達にこの場をまかせて野営地に向かう、まずはザカライア教授に報告し今いる人員の確認を急がなければならない、後ろからシーリとドロシーが追いかけてきた。
突然ドロシーが歩速を早める、その先にスザンナの大きな姿が見えた、そして野営地の端でスザンナが三人を迎えてくれた。
「何か起きたのかい?」
「防護結界を壊し神殿に入った奴がいる」
「な、なんだって!?」
スザンナは金壺眼を大きく見開いた。
「俺は教授に話がある」
エルヴィスはそのまま野営地の中心にある本部の大天幕に向った、ザカライアとバーナビーがちょうど良く外に出ていた。
「何だ?」
ザカライヤが不審に満ちた目でこちらを見透かす。
「会議にはまだ早いぞ?エルヴィス」
バーナビーもすぐにこちらに気付く、二人は怪訝な顔をしてエルヴィスを見た、朝の会議は朝食の後で開かれる予定だったからだ。
「環状の蛇の神殿の防護結界が破られた」
これにはさすがの二人も驚愕している、エルヴィスはザカライアの表情の変化を注視していたが、彼が犯人だとしたら見事な演技力だ。
「ラウルが点呼をとる事を提案している、一応調べてみないか?」
環状の蛇の神殿を見ると入り口付近にラウル達の姿が遠く見える、ザカライア達もそちらを見た。
「まだ地下にいるかもしれないと言うわけか?」
ザカライアは動揺を隠そうとしなかった、すると本部天幕の隣の小さな天幕からヤロミールが出て来る。
朝から黒いローブ姿でつば広の黒い帽子に顔をベールで隠していた。
彼の表情は伺い知れないが彼はこちらを見回した。
「話は少し聞こえました、ところでアスペル女史は?」
すると背後から物音が聞こえると落ち着いた女性の声が返ってくる。
「私からも説明した方が良いかと」
彼女の背後にドロシーとスザンナが守るように並んでいた、まるで魔術師のお供の様に見えて思わず笑いかけた。
彼女の口から防護結界の性質と発見した時の状況が簡単に説明された。
バーナビーがいそいで下働きの者達を呼び集めた、傭兵隊や荷役人の纏め役の者達に点呼をとり姿が見えない者がいるか確認するように指示を与えはじめた。
下働きの者達はすぐに散って行く。
暫くすると下働きの者達が戻って来たが人員に異常はない、そこにアームストロング隊長が本部にやってきた、体が巨大なので遠くからすぐにわかる彼は幾分か急いでいた。
「傭兵四人の姿が見えない」
「何だと!!」
全員の口からほぼ同時に同じ言葉が漏れた、エルヴィスは昨日の探索であの白い人の影の様な姿をした怪異に襲われた時の事を思い出した、傭兵達は酷く脅えアームストロング隊長がなだめて気合をいれていた。
戦に慣れているはずの傭兵たちもアレには参ったのかもしれない、最後にあの異様な空洞まで見せられたのだ、怖じ気をふるって逃げ出す可能性はあった。
敵よりも未知への恐怖がより上回る事がある、それに傭兵をやっている奴にまともな奴は少ない。
隊長の話では四人の傭兵達は暗いうちから目を醒まし、周りを散歩してくると仲間に告げて野営地を離れたらしい。
残された傭兵達はたいして気にもしなかった、だが彼らはまだ戻って来なかった、残っているのはあの壮年の傭兵と若い傭兵だけだ。
エルヴィスは頭を素早く巡らした。
何か事故にあって動けない可能性もあるが、だが奴らが逃げたとするなら砦の野営地の物資と金とラクダを狙うはずだ、向こうの野営地には物資管理の男とラクダを世話する荷役人が数人と傭兵が二人程いた。
もし傭兵二人が奴らの味方に付いたらどうなるだろうか、傭兵は簡単に奪略者に変貌するものだ、信用のできる傭兵でも絶対に安全とは言い切れない。
「奴らが逃亡した場合、砦の野営地の物資と金とラクダを狙う」
エルヴィスは懸念を口にした、隊長以外は皆息を飲んだ。
「ここから逃げるならラクダが必要になるわけだな」
バーナビーが同意を求める様にエルヴィスを見た、それにうなずいて返す。
「奴らが神殿の中に踏み込んだ可能性はあるのだろうか?」
そこにヤロミールが口を挟んできた、エルヴィスもそれに思い至らなかった。
傭兵では防護結界は破れない、それに昨日の脅えぶりからその可能性に思い至らなかった。
防護結界を破った者の仲間かもしれなかった。
だが可能性として砦の野営地に向っている可能性が高い様に思える。
「奴らが姿を消したのは四時間程前らしい」
隊長が振り絞る様な声を出した、彼の声は後悔と怒りと羞恥を滲ませている。
それならば神殿から地下に入るには遅すぎる様に感じられる。
「砦の野営地の奴らが心配だ、万が一向こうに行ったならちょうど真ん中を越えたあたりだ」
「今から間に合わないだろ?」
バーナビーが今から追いかけるのかと言いたげにエルヴィスを見つめる、そしてそちらを優先するのかと彼は目で問いかけていた。
「物資や金を荒らされたら調査が続かないぜ?ラクダが減ると帰るのに問題が出る、間に合わなくても向こうがどうなったか把握するんだよ」
「それはそうだな、わかった野営地の周りはこちらで調べる」
バーナビーもザカライアも納得したらしい、万が一物資や金が奪われたらそこで調査は終わりだ、傭兵も荷役人も無償では働かない、それに追撃を妨害する為に何かしでかす可能性も高かった。
「エルヴィスさん私の身体強化術があれば追いつけるわ」
それはシーリの落ち着いた静かな声だ。
「私が繰り返し術をかければ大丈夫、2~3人いても余裕よ」
「なら儂も行く傭兵隊長として責任がある」
隊長は自ら志願した。
「シーリが行くなら私も行くわ」
隊長が名乗り出るとドロシーとスザンナも名乗り出る、二人は絶対にシーリから離れる気がないらしい。
俺と隊長とこの三人組がいれば戦力的には問題はない、聖霊拳の上達者に関する噂が本当ならスザンナ一人でも余裕だろう。
「身体強化に関しては水精霊術が適任だ、シーリはエルヴィスと一緒に向こうの野営地を見てこい」
ザカライアは深く息を吸って吐いた。
「環状の蛇の神殿の調査は一時中断だ」
ザカライアが断を下した。
起伏に富んだ石灰岩大地の湿原をドロシーが素晴らしい速さで駆け抜けて行く、その後からエルヴィスと隊長が続きシーリが駆けた、最後尾からスザンナが余裕の表情で追いかける。
身体強化した体は疲れを知らず力強く大地を踏み抜く。
ドロシーの細い無駄の無い体が嬉々として躍動していた。
「早いわ!!鳥みたい」
彼女の楽しそうな叫びが聞こえてきた。
「バカやってんじゃないよ、ころんで泥まみれになるね」
後ろの方からスザンナの叱責が飛んできたが、スザンナもどこか楽しげだった。
あっという間に湿原の終わりが見える疎らな林が眼前に迫る。
五人はそのまま林の中に駆け込んだ、この速度なら四人の傭兵達が砦の野営地に付く前に追いつけるかもしれない、野生の鹿の様に跳ねまわるドロシーの後ろ姿を見ながらエルヴィスはそう確信した。