邪なる物
エルヴィスは霧にまかれる寸前に照明用の魔術道具を素早く起動した、その光に照らされた濃霧が壁の様に押し寄せてくる、その霧の中で無数の小さな黒い影が乱舞する。
無意識に後ろに手を差し伸べた、柔らかなそれでいて確かな指先に触れた、それを思わず力強く握りしめる。
霧に包まれると同時に耳鳴りの様な轟音に包まれた、誰かの悲鳴と怒鳴り声が微かに聞こえて来る。
その不快な感覚が砂漠で遭遇した赤い砂嵐を思い出させた、エルヴィスは僅かな異変も見逃すまいと身構える。
霧の中を半透明な小さな何かが無数に飛び回っている、仲間達に警告したが轟音の様な風の音に阻まれてその声は押しつぶされた。
ふところから精霊変性物質のナイフを取り出しあたりを舞う半透明の影を切り裂く、それらは予感した通りに霧の様に散って行った。
乱舞する半透明の影は様々な形をしていた、ある物は芋虫の様に昆虫の様にも動物の様にも何かの道具の破片の様にも見えた、エルヴィスの体にぶつかったそれらは服や肌にへばりついた、触れた場所が冷えて感覚が薄れた、やがて名残惜しそうにエルヴィスから剥がれ落ちて風に流されていく。
エルヴィスの手が強く後ろに引かれる、そしてまた強く引っ張られた、差し伸べた手が柔らかな手を握りしめていた事を思い出した。
三歩後ろに下がって振り返るとドロシーの背中が見える、握っていた手はやはりドロシーの手だった。
「どうした?」
エルヴィスは騒音の中で大声で叫ぶ。
「シーリが!!」
騒音の中からドロシーの声が聞こえて来た、エルヴィスはドロシーの手を離すとその後ろにいるシーリに近づいたがそこで足が止まる、その彼女の異様な状態にたじろいだ。
ローブ姿のシーリの全身に半透明の得体の知れない何かがへばり付きうごめいていた。
彼女の顔にもへばりつき耳や鼻や口からシーリの体内に侵入しようとしていた、肌にへばりついた悪霊の様な何かが徐々にシーリの肌から体内に染み込んで行く。
彼女の目から既に光が消えていた、いつの間にか魔術が生み出した光球も消えていた。
エルヴィスはその半透明の物体を掴んで剥ぎ取ろうとしたが、まるで空気か水の様に掴みどころが無かった、精霊変性物質のナイフでその半透明の悪霊共を切り裂く、見事に切り裂いたがシーリを傷つけるわけにはいかない。
「ここまでとはね、あたしがやるしかないようだね、さあ二人共おどき」
その声は峻厳で力に満ちていた、普段の皮肉屋でそれでいて優しいスザンナではなかった。
そしてスザンナはシーリの背後に立つ。
彼女が一体何をしようとしているのかエルヴィスには見当がつかなかった。
だがその直後に大きな力の動きを感じる、魔術師が術式を行使するのにも似ているがそれとも違う力の巨大な流れを感じた、それはスザンナの体の内から生まれていた。
エルヴィスはすばやく離れた、ドロシーが迷っていたので腕を掴んで引き寄せる。
スザンナがシーリの背中に手のひらを当てる、それは鳩尾のちょうど裏側辺りだ。
次の瞬間に力の爆発が生まれた、爆風こそ感じないが見えない何かが爆散しそれに魂が揺さぶられる。
シーリの体が一瞬光った様に感じる、彼女は背中に大きく海老反って魔術師のローブが風をはらんだ帆のように膨れ上がった。
シーリの体に張り付いていた得体のしれない悪霊共が混乱しながら逃げ惑った、そして陽を浴びた霜の様に溶けて消えて行った。
「まだ中に入り込んでいる、気の道に隠れているね」
スザンナはシーリのローブの隙間から腕を潜り込ませると彼女の腰の辺りに右手を当てた。
ふたたび大きな力が生まれる、先程より清浄で鋭い気配がスザンナから生まれ出して高まって行く、スザンナは優しく後ろから意識のないシーリを抱きかかえている。
「少し乱暴だけど耐えておくれよ」
次の瞬間またあの力の爆発が起きた、その効果はあまりにも劇的だった。
シーリがそのまま上に跳び上がった、エルヴィスの膝よりも高く跳ねる、そして彼女の瞳は黄金色に輝いていたが何も見てはいない。
そして二度三度と飛び跳ねる、意識のない彼女の体が人形の様に跳ね上がるのは不気味でそして恐ろしかった。
「シーリ!!」
ドロシーの泣き叫ぶような悲鳴が聞こえた。
やがてシーリの口や耳や鼻から半透明の悪霊共が慌てふためきながら湧き出して来た、それらは細かな粒子の様に砕けて消える、ローブの隙間から灰色の淀んだ不浄の気が吹き出した。
いつのまにか周囲の霧も薄れて騒音も小さくなっていた、灰色の霧が過ぎ去ろうとしていた。
スザンナがシーリをゆっくりと鍾乳石のテーブルの上に横たえた、そこにドロシーが駆け寄りシーリに呼びかけている。
エルヴィスはスザンナが何をしたのか理解できずに呆然としていたが、それよりもシーリの安否が気になった。
「エルヴィスさんこないで!」
だがそれをドロシーの声が制止した、それは静かだが決然とした意思を感じさせた。
シーリに近づこうとした足が自然と止まる。
ドロシーがこちらを振り返ったそれは今まで見せた事が無い真剣な表情を見せていた、エルヴィスはドロシーがこんな顔もできるのかと失礼な事を考えていた、そして彼女に対する気持ちがまた少しだけ高まった。
なんとなく事情を察したエルヴィスは何も言うつもりはなかった。
「俺はあいつを探してくるシーリを頼んだ」
「この娘はまかせておきな、あの碌でなしを探してきておくれ」
スザンナがエルヴィスを見もせずにシーリを介抱している。
しかしいつの間にかあの傭兵が碌でなしに降格したのか不思議に思った、まずは行方不明の傭兵を探ことにする。
いったいい奴はどこに姿を消したのだ?今の異変と関係があるのだろうか。
だが予想外にあの傭兵はすぐに見つかった、洞窟の入り口から少し外れた鍾乳石のテーブルの下に倒れていたからだ。
「おい起きろ!!」
近づいて乱暴に揺り動かしたやがてうめき声を上げて身じろぎを始めた。
「起きろ!!」
「ああ?エルヴィスの旦那か、俺は何をやっていたんだ?」
傭兵が身を起こした時、背後から魔術行使の気配が伝わって来た、シーリが目を醒ましたのだろう、魔術の行使はその後更に三回続いた、そして最後に青白い光の球が生まれた。
シーリ達も終わったようだそろそろ戻らなければならない。
「おい行くぞ」
エルヴィスはドロシー達のいる場所に戻る、背後で傭兵が立ち上がり装備の金属の音が鳴った。
シーリは上半身をスザンナに支えられて起き上がっていた。
「大丈夫か?」
「エルヴィスさんごめん迷惑をかけました」
だがシーリはまっすぐ洞窟の奥を見つめていた。
「気にしないでシーリこれは体質なんだから」
エルヴィスはドロシーの言葉が気になった、体質とは何だ?あの化け物共が群がった事と関係があるようだが。
「さあ行こうかね詳しいことは仕事を終えて戻ってからさ」
スザンナの瞳はいろいろ聞きたい事もあるだろうがそれは後だと語っていた、シーリはすぐに回復すると言ったのでもう少しだけ先を確認する。
ふたたび一行は前に進み初める、その長い洞窟は枝道も無く伸びていた。
だがシーリはまだ回復していないのかスザンナが助けながらゆっくりと進んだ、エルヴィスも彼女をせかすことはしなかった。
その洞窟はまだ先に続いていた、そして前方に大きな枝道らしき洞窟が左側に口を開けている、時間はまだあるがここまでだ。
「ここは有望だがここで引き上げる、ラウル達の状況と照らし合わせて先の事を決める」
皆を振り返ったエルヴィスは引き上げる決断を下した。
「まって向こうの洞窟を見て」
ドロシーが先を指差した、洞窟ではなくその反対側の壁が明るくなっている。
それは緑色と青が混じった様な暗い色をしていた。
洞窟の向こうから光る何かがやって来ようとしているのだ。
また先程の様な怪異だろうか、全員戦いに備えて身構えた。
だが向こうから硬い靴と装備の音が聞こえてくる。
「まて気をつけろ先の洞窟が明るいぞ」
聞こえてきた声はラウルの声に似ていた。
「デクスターが来たのかね?」
スザンナが思わず呟いた、アームストロング隊長のファーストネームがデクスターだったと思い出す。
スザンナの言うとおりそれはラウル達だった、どうやら向こうの偵察部隊と合流してしまったらしい。
やがて彼らが洞窟に入って来るとこちらに気づいた。
「エルヴィスなのか?」
「ラウルか俺だ!!」
「最後は一つなのかよまったく」
ラウルが苦笑いをしながら接近してくる。
「ラウルすまんがもと来た道を戻ってくれ、本隊を動かして俺たちが残した糸をたどって来てくれないか、俺たちの糸の回収も頼む」
「戻るのか?そっちの方が真っ直ぐらしいからな、わかった」
エルヴィス達から離れた場所でアームストロング隊長とスザンナが話し合っていた。
そしてヤロミールは周囲を見渡している。
「何かあったのか?」
ヤロミールがエルヴィスに近づいてきたそしてシーリを一瞥してからルヴィスに向き直る。
「今は詳しく言えんが、砂漠で出会った赤い砂嵐と似た事があった」
「そうだったか、やはり君は視える者なんだな」
「少しな」
「私にも見えたわ、初めてよ?」
割り込んできたドロシーの言葉にヤロミールの動きが止まった、顔が見えないが驚いているのではないだろうか。
「よほど濃かったようだな、普通の者に視えるとは」
「なあ不浄の聖地や星辰の刻と関係があるのか?」
ヤロミールはドロシーとシーリを見回してから僅かに考えていた。
「関係があると考える、ところで彼女に何か起きたのか?」
ヤロミールはシーリを見詰めていた。
「いや何も」
なぜか澱みなくその言葉が出てきた、今は話すべきではないと直感が告げていた。
そしてドロシーとシーリに目線を送ると二人も目で答えを返してきたこれで良いと。
「そうか・・・」
それ以上ヤロミールは語らなかった。
「よし引き上げるぞ、皆んな本隊に戻るぞ」
ラウルの合図にヤロミールが向こうの部隊に引き上げて行く。
「ラウル頼んだぞ」
「また会おう」
ラウル達はもと来た道に引き上げていく、次第に光が洞窟の奥に遠ざかっていく、そこにスザンナも戻ってきた。
突然シーリが崩れるように座り込む。
「大丈夫!?シーリ!!」
ドロシーとスザンナが慌ててシーリに駆け寄った。
「ごめん足に力が入らない」
弱々しくシーリが二人を見上げて笑った。
「本隊が来るまでゆっくり休もうか」
エルヴィスが半腰になって語りかけるとシーリは恥ずかしそうに微笑み返してきた、彼女の頬は少し赤く染まっていた、洞窟の暗い景色が朧気な印象を与える彼女の美貌によく似合っていた。
エルヴィスは改まってスザンナの前に立つ、シーリを介抱していたスザンナがこちらを見上げた。
「スザンナ先程のあの技はなんだ?」
「あれは聖霊拳の技さ、邪なモノを打ち払う力だよ」
エルヴィスは聖霊拳を修めている者達を幾人か知っているがそんな話は聞いた事が無かった。
「そんな話は聞いたことが無い、それにあの力はなんだ?」
魔術師が術を行使する時に感じるあの感覚に似ているが違っていた、あの胸を締め付ける様な圧迫感と体と魂をゆさぶる波動の力を聖霊拳の者達から感じた事は無かった。
「気づいていたんだね、しょうがないね、隠しておきたかったんだがアンタには話して置こうかね」
「あんたは聖霊拳の上達者の話は聞いたことはあるかい?」
エルヴィスは聖霊拳にそう詳しくはない、それでも知識の中に幽界への道を拓いた聖霊拳の達人の話を聞いたことがある、魔術師以上に希少で一国に一人いるかいないかとされている。
そして超人的な力を持ちその多くが聖霊教団に属し高い地位を占めているとも聞いていた。
「あんたはやはり聖霊教団の人間なのか?俺にそれを話してもいいのか?」
「最初の質問だがそのとおりさね、気に食わないがけっこう偉い立場にされてしまってね、聖女なんて大層な名前を押し付けられているよ」
スザンナは大笑いを上げた、それをドロシーとシーリが唖然と驚いた様な顔でスザンナを見詰めている。
「ええっ?スザンナが聖女様!?」そしてドロシーがプッと小さく吹いた。
スザンナは聖女様のイメージからかけ離れていたからだ、聖女の多くは聖霊教に長年つかえ尊敬と敬意を払われている功労者の老女か、僅かだが聖霊教の看板に成り得る若い美しい駿才の乙女だ。
エルヴィスも密かにドロシーと同じ意見だった、お前の様な聖女がいるかと問いかけたかった。
その瞬間少し身を乗り出したスザンナの平手がドロシーのお尻を強く叩いた、その瞬間スザンナの手の平から光を感じた、そして悲鳴を上げてウサギの様に飛び跳ね始めたドロシーを無視してスザンナは先を続けた。
「そして2つ目の質問だがね、誰に教えるかの判断は私に総て任せられているのさ」
エルヴィスが騒ぎながら踊ってるドロシーを指差す。
「ドロシーが言っていたがシーリの体質とはなんだ?」
スザンナが少し苦い顔に変わったそしてドロシーを一瞥した。
「聖霊教の分派で『霊媒体質』と呼ばれる体質だよ、あんたは幽界や魔界の存在がこの世に実在する為には物質の依代が必要なのは知っているかい?」
「俺はそれほど魔術には詳しくないが、精霊召喚を容易にするために依代が必要なのは知っている」
「上出来だよ、それを知らない人間の方が圧倒的に多いからね、シーリは異界の存在を降ろしやすい体質なんだ、特にシーリはさっきの様に禄でも無いものに取り憑かれ易いのさ、抵抗する力があまり強く無いんだね」
エルヴィスはシーリの目を見詰めた、彼女の目が総てを知っていると語っていた。
「あんたは邪な物を祓う為に雇われたのか?」
「私もシーリを護る為に雇われたのよ?」
いつの間にかドロシーがスザンナの隣に戻っていた、少ししかめっ面で腰の辺りをさすっている。
「邪な物を祓うね・・・そう考えてくれてもいいよ」
そこに遠くから騒がしい音が聞こえて来た本隊が近づいて来る。
エルヴィスは後ろを振り返ると、少し離れた鍾乳石のテーブルを背もたれにしてあの傭兵が居眠りをしていた。
「おい起きろ!!」
エルヴィスが軽く蹴りをいれると男は鍾乳石の床に寝転がった。