黒き箱
寒さのせいで朝早く目を覚ましたエルヴィスが天幕から出ると、冷たい肌を刺す朝の大気に身を震わせた。
「くそ!さみーな」
それでも朝の冷たい空気を胸いっぱい吸って眠気を払う。
「エルヴィスさんおはようございます」
若い親方の弟子が天幕の前で朝食の準備をしていた。
「よう、親方は寝ているのか?」
弟子は少し声を落として親方のいる天幕を見てから答えた。
「まさか道具の手入れですよ」
そして弟子は微笑む。
シーリとドロシーの二人がこちらに向って来るのが視界の隅に写った、シーリを先頭に後ろからドロシーがやってくる、本当にシーリを絶対に一人にしないつもりらしい、これはスザンナの命令だろうか。
「おはよう、お二人さん」
さっそく先に声をかけてみた。
「おはようございます、エルヴィスさん」
「エルヴィスさん、今日も良い天気になりそうですね」
ドロシーの言葉に釣られて空を見上げた、たしかに流れる雲一つ無い快晴だ、空の色も青を通り越して濃い藍色に感じられた、そんな空を背景に白く厳しいアンナプラナの山々の威容が迫ってくる。
「そうだな良い天気だ・・で何の様だい?」
シーリが三歩前に出てくると彼女の顔が迫ってきたので僅かに気押された、そして彼女はそれに答えた。
「精霊通信の入信があった、コードはC7とD12よ」
エルヴィスは懐から小さなノートを取り出すとコードを調べる、シーリがノートを覗き込んで来たが正直邪魔だ。
体の向きを変えると今度は後ろから覗き込んで来た、そしていつのまにか背後に回り込んだドロシーもシーリの反対側からエルヴィスの手元をのぞき込んでいた。
しかしドロシーの気配を感じさせない静かで素早い動きは見事なもので、彼女はこの俊敏な動きで非力さを補っていた。
これは足運びの巧さと彼女の脚力の賜物だろう。
「コードに意味を持たせていたのね、話は聞いていたけど実物を見たのは初めてよ」
ドロシーは記号の意味を理解したのか感心した様にささやいた。
「ドロシー精霊通信は文字数を増やせないからこうするのよ」
シーリがノートから目を離してドロシーの顔を覗き込むように説明してやる。
「砦の方も防護結界を完成させた様だ、今日中に本隊が総ての装備と一緒にこちらにくるぜ」
「お昼頃には着きそうですね、エルヴィスさん」
「そうなるなドロシー、そうだ」
「ご飯だよ、戻ってきなー」
向こうの天幕からスザンナの大声が割り込んできた、本当に絶妙なタイミングで水を刺してくる、あの女は超常の力でもあるのだろうか。
「私達は帰るわ、さあ行きましょうシーリ」
ドロシーがシーリの裾を引っ張ると二人はさっさと天幕に帰ってしまった。
すると親方達の天幕の入り口が開く、顔を出した親方がエルヴィスを見つけた。
「ザカライア達もこちらにくるらしいな」
「そうだ、あと総ての装備を持ってくるように昨夜指示を出しておいた」
「それでいいエルヴィス、先が見えないからな何が必要になるか見当もつかねえ」
するといい匂いが鼻を突く、若い弟子はケビンより遥かに料理の腕が良いらしい。
「準備できましたよ、みなさん出てきてください」
彼が大声を出すとエルヴィスの背後がにわかに騒がしくなる、ラウルと地図職人と用心棒の男が天幕から出てきた。
「くそ寒いな!?」
ラウルの舌打ちが背後から聞こえて来た。
正午を少しまわった頃だ、エルヴィスは天幕の中で地図職人が制作した神殿の図面を確認していた、そこに外から叫び声が聞こえて来る、慌てて外に出るとまた声が聞こえてくる。
「本隊が来たぞー」
今度ははっきりと聞こえた、やっと本隊が姿を表した様だ。
エルヴィスは野営地から出ると大きな岩にそって東に進む、見晴らしの良い場所に出ると北東の方角に人の一団の姿が見える、だがまだかなりの距離があった。
野営地に引き上げようとしたところ、バーナビーがこちらにやって来る。
「バーナビーか本隊がやって来たぞ、おれは一旦戻る」
「少し遅れたな」
「ああ、歩き慣れていない奴もいるからな」
そのまま戻ろうとしたところをバーナビーに止められた。
「あの足跡を残した奴があの中にいると思うか?」
ここには二人しかいないはずだがバーナビーの声は低かった、エルヴィスもザカライヤとヤロミールの可能性を考えてはいた、しかしバーナビーの言い草が僅かに引っかかった、あの中とは魔術師以外にまだ疑わしい者でもいるのだろうか。
「俺には何とも言えないね、砦の野営地とここの距離は結構あるぜ?」
「魔術師なら身体強化できる」
もしやバーナビーはザカライやヤロミールも信用していないのか?
「魔術師の身体強化は体力や筋力が上がる程度だ、馬より早く走れやしないぜ?」
「この世ならざる者ならば・・・」
「あの中に精霊や悪霊がいるとでも?」
エルヴィスは僅かに苦笑したが、それと同時にスザンナの言葉を思い出した。
「アンタはミロンも疑っているのか?」
バーナビーは何も答えなかったそれをもって肯定と受け止めた。
しかしバーナビーは何を警戒しているのだろうか、この男の目的がいろいろ気になる。
「アンタはペンタビアの政府の人間なんだろ?情報関係の仕事か?」
バーナビーは一瞬だけ悩んだ様子を表したがすぐに決意を固めたようだ。
「まあ隠しているわけじゃあないその通りだ、発掘物を安全に回収し持ち帰るまでが俺の任務だ、ペンタビア王国政府が真のクライアントなんだ、ザカライア教授は学術調査と信じたい様だがな」
「ペンタビア魔術師ギルドはどうなんだ?」
「あそこは関与する為に出資したのさ、背後には魔術師ギルド連合がいる簡単には断れない」
「じゃあ魔術師ギルドがシーリを監視に送り込んで来たのか?」
「違うんだよ、こちらからシーリの貸し出しを頼んだのさ、砂漠の向こうの荒れ地が目的地だったからな、治癒術も考慮すると水精霊術師が有利だった」
できれば水精霊術師が欲しいと注文を出したのはペンタビアに入ったラウルの独断だ、合理的な判斷なので問題にはならなかったが。
「それで今回の調査旅行に魔術師ギルドが気づいたわけか」
「そうだ、それに何時までも魔術師ギルドから隠し通せるわけが無い」
「そりゃそうだな」
ペンタビア魔術師ギルドと言うよりも背後にいる魔術師ギルド連合の恐るべき情報力は広く知られている。
「なあ、あの神殿の奥にある物が何なのか詳しく知っているのか?」
「具体的な事は言えない」
エルヴィスは無意識に手を伸ばしバーナビーの襟首を掴むと、今度はエルヴィスの腕をバーナビーの手が掴み返した、わずかに腕に痛みが走る。
「おい!!俺たちに必要な事を知らせずに危険に晒すことは契約違反だが解っているのか?」
「お前たちには危害を加えるつもりは無い、アリシアの街まで無事に帰還するにはお前たちの力が必要だ」
もっともらしい話だが、エルヴィスは『お前たちには』の言葉になぜか僅かな引っかかりを感じた。
「当たり前だ」
そこでエルヴィスはバーナビーの襟首を掴んだ手を離した。
「少し熱くなったすまねえなバーナビー」
「ああいいんだ、俺は本隊を迎える準備がある」
バーナビーはエルヴィスを一瞥すると野営地に帰っていった。
彼は特に特徴も無い平凡な容姿の男で、人当たりが良く無害な男に見えるがその目は高い知性の光を湛えている。
エルヴィスはバーナビーに掴まれた跡を見た、かなりの力で握られたのでその跡が赤く残っている。
奴の身のこなしからそれなりに出来る男なのは予想できた、こいつもまた注意が必要だと改めて思いを深くした。
次第に隊列が近づいて来る、エルヴィスは野営地の外で彼らを出迎える事にした。
先頭に傭兵と巨人の様なアームストロング隊長がいた、隊長と久しぶりだなと声を掛け合う、そして見覚えのある若い傭兵と挨拶を交わした。
続いてザカライア教授とヤロミールが続いた、彼らも大きな背嚢を背負っていた。
私物や触媒や魔術道具を詰め込んでいるのだろう、教授はかなり疲れて参っている様子だ。
ヤロミールは静かにうなずくように挨拶しただけで通過して行く。
二人を慎重に観察したがそれで何かがわかるわけもない。
「やあエルヴィス君、ずいぶん長く会ってなかった気分だ」
アンソーニー先生が気さくに声をかけてきた、ミロンとも朗らかに挨拶を交わす。
この二人も重そうな背嚢を背負っていたが、若いからかミロンは汗一つかかず元気そうだ。
「先生大丈夫ですか?」
「こんな荷物を背負って山の中を歩いたのは久しぶりだよ、明日の朝筋肉痛が心配だ、あはは」
「先生僕が少し持てばよかったですか?」
ミロンは先生の後ろから冗談を言った。
「僕を年寄り扱いしないでくれよ?じゃあエルヴィス君また後で」
二人はそのまま野営地に進んで行く。
エルヴィスは後から続く荷物に目を通す事にした、荷役人達が重い荷物を運んで通過していく。
まず目についたのは黒い頑丈そうな五十センチ四方程の金属で補強された箱が二つ、その後から奇妙な同じ材質の箱が運ばれていく。
二つの箱は背負う荷役人の様子から重そうに感じられた。
エルヴィスは資材管理の男が言っていた調査隊本部の奇妙な資材の話を思い出した。
奇妙な箱は長さが二メートルに及ばない、幅と厚みが五十センチ程の黒い箱だった、二人で運んでいる様子からそれほど重くはなさそうに見えるが。
はたして中身は触媒か魔術道具だろか、エルヴィスはこの四人の顔をしっかりと記憶に留める事にした。
その後から天幕の部材や食料などの補給品が続くと、その後から調査団の下働きの男二人が大きな背嚢を背負って通過していく。
その後ろから匠の男二人がやってくる二人共壮年のベテランの職人だ。
「よお!!」
「エルヴィスさんお元気で」
声をかけると二人共嬉しそうに声を返してきた、その二人の後ろにケビンがいた、彼も重そうな背嚢を背負い足元が怪しくなっていた。
「おいケビン、なんだなさけねーな」
「エルヴィスさんもうダメです、足に力がはいりませんよー」
「もう目の前だしっかりしろ!」
その後ろからエルヴィスチームの装備と物資を運ぶ荷役人が五人続いた、彼らも荷物が重いのか息が荒い。
エルヴィスは彼らに労りの声をかける。
「ご苦労さんだったな、もう少しだ頑張ってくれ」
荷役人達は軽く黙礼をしただけで通過していく、最後に顔見知りの壮年の傭兵が最後尾にいた。
エルヴィスはニヤリと笑って片手を上げる、向こうも気づいていたのか手を上げて笑い返してきた。
「エルヴィスさんお久しぶりです、ところでお天気人形さんとは上手く行ってますか?」
「うるせー、さっさと歩け!」
傭兵の背中を強く叩くと最後尾からエルヴィスも野営地に向かう。
野営地の決められた場所に運び込まれた荷物が次々と置かれて行く、ここまで荷物を運んできた荷役人の多くは休息の後で再び砦の野営地に引き上げる予定だ。
バーナビーとラウルが新しい天幕の設営の指揮をとっていた、エルヴィスが観察しているとあの用途不明な黒い箱を運んできた荷役人も荷を下ろすと野営地から離れた場所で休息を取り始めた。
下働きの者達が湯冷ましした水を彼らに配っている、彼らはそれぞれ持ってきた昼食を取り初めていた。
エルヴィスは彼らにさりげなく近づいた。
それに気づいた荷役人達がわずかに気まずそうに目礼を返してくる、せっかくの休息なのにエルヴィスがいたのでは休めないだろう、少し彼らに申し訳ない気分になった。
エルヴィスは黒い箱を運んでいた男達が同じ荷役人グループに所属しているらしい事に気付いた、これはとても都合が良かった。
「やあ、ちょっといいかな?」
リーダーらしき男がエルヴィスの相手をする、彼の顔に一体何の用なのかと書いてあった。
エルヴィスは彼らの前まで進むと腰を落とした。
「あのエルヴィスの旦那なんですか?」
エルヴィスは声を落としてささやいた。
「君達が運んで来た荷物の中身は何だ?」
その言葉でリーダーの男の顔が驚愕に変わった。
「ええっ!旦那も知らないんですか?俺たちも知りませんよ、ただ絶対に乱暴に扱うなと言われました」
リーダーも声を低めて答えてくれた、なかなか空気が読める男らしい。
「随分重そうに見えたが?」
「四角いのはかなり重かったですよ、でもあの長いのは軽かったですね、中身は見当も付きません」
彼らは大した事は知らされていないと見当を付ける、そしてエルヴィスは立ち上がった。
「いろいろ邪魔して悪かったな」
「いえお役に建てずにすみません旦那」
エルヴィスは軽く彼らに手をふると本部のバーナビー達の処へ向かった。