撤退か
体勢を立て直したドロシーがゆっくりと降下してくる、そして丘の上空15メートル程で止まった。
彼女の長く均整の取れた美脚が月の光を青白く受けて輝いていた、彼女の真紅のドレスの裾は大部分が失われ、真紅のヒールも失なわれ美しい素足を晒していた。
だが彼女のアラバスター細工のような美しい肌には傷一つ無なかった。
そしてルディはつい視線を彼女からそらしてしまった。
ドロシーの下半身は一度失われ再生されたがドレスは下半分失われたままだった、今や彼女の肌を隠す物は何も無い。
ドロシーは嫣然と微笑みながらルディ達を見下ろしている、感情の乏しい彼女らしくもない艶のある微笑みだ。
もしや激怒しているのでは?そんな不吉な想いがルディの脳裏をよぎった。
『アヤツもしや怒っておるのか?』
アマリアの声がどこか他人事に聞こえてルディは少し苛ついた。
「ドロシーその格好で何嘲笑っているのよ、恥ずかしい!」
遥か上空からエルマの叫び声が聞こえて来る、空を見上げたドロシーがそれに返した。
「貴女は子犬や子猫に裸を見られて恥ずかしいの?」
エルマも彼女の返しに続く言葉が見つからないのか沈黙してしまった。
だがその言葉にルディの内に怒りが湧き上がる、ベルやアゼルの表情も豹変した。
今まで彼らが血を吸ってきた犠牲者達は愛玩動物や家畜にすぎなかったのか、人が家畜を糧にするのと同様に闇妖精族にとって人は食料に過ぎないのかと。
それを思うと背筋が冷たくなって行く。
何としてでも真紅の怪物を倒したいと改めて決意を固めた、だが今はベルが老魔術師のホンザを抱きかかえていた。
ドロシーにどれだけ力が残っているのか知りたかった、右側に距離を置いた場所にいるアゼルに呼びかけた。
「アゼル奴の魔力の残りはわかるか?」
「殿下わかりません、奴は上位と思われる術を10回以上行使していると思います、人ならば強力な術者でも限界です」
「人ならば・・・か、わかった」
ドロシーを挟んで反対側にコッキーが対峙していた、今の彼女は恐るべき破壊力を秘めている。
だがドロシーは彼女に背中を見せてルディに正対している。
ルディにある予感があった、自分のずっと後方にベルがホンザを抱えて待機している、ドロシーが魔術陣地を作る事ができるホンザと無理な動きができないベルを狙っているそう冷静に計算していた。
ベルの戦闘センスは直感的で臨機応変に状況に対応できた、そして時に狡猾で残忍だ、だがベルはともかくホンザの体がベルの動きに追従できないだろう。
ベルにお前が狙われていると目線で素早く合図を送る、ベルもそれに目で応えてうなずいた、ここは意図が彼女に伝わったと信じるしかなかった。
ベルが精霊力を僅かに解放する気配を感じたその瞬間、ルディは力を解放し上空のドロシーに跳躍し襲いかかる。
ドロシーは瘴気の爆発と共に横に動いた、ルディは迂回されるとあせった、ドロシーがコッキーと戦った時に空中で移動方向を瘴気の爆発で変える非常識な機動をやってのけた事を思い出した、己の判断ミスに臍を噛むベルとホンザが危ない。
だがドロシーの移動先にアゼルの姿があった。
真紅の怪物の真の狙いはアゼルなのか?ドロシーの手の平がこちらを向いていた、ふたたび瘴気の爆発が目の前に生じルディは後ろに吹き飛ばされる。
視界が暗黒に包まれそのまま地面に叩きつけられた、それだけでは無いドロシーは瘴気の爆発を利用して更に加速していた。
「アゼル!!」
急いで立ち上がり瘴気を払うと、コッキーがアゼルの前に立ちふさがり棍棒でドロシーの剣を受け止めていた、そして左手の爪をドロシーに突き立てようとするがドロシーに腕を掴まれた。
激しい力比べが始まる、コッキーの白銀の金属の鎧に護られている腕が軋み不気味な音が聞こえてくる。
そのドロシーにふたたび魔界の力が収束しはじめた、この状態で魔術が行使できるとは信じがたい。
アゼルの顔が驚きに歪んんでいる。
「アゼル・・ハなれる」
コッキーは上手く言葉が発せられない、彼女が警告するとアゼルは大人しく距離を保つべく走り出した。
突然コッキーの白銀の鎧に護られた首が伸びてコッキーの腕を掴んでいたドロシーの左腕に噛み付いた、さすがのドロシーもこれに驚く、コッキーの腕を手放すと力ずくでコッキーの口から腕を引き抜いた。
真紅のドレスが切り裂かれて散った。
「ひー!!何よあれ!!」
上空からエルマの悲鳴が聞こえてくる。
ドロシーの左腕がドロドロに腐食し地面に泥の様にこぼれ始めた。
彼女は後ろに飛び跳ねコッキーから距離を保つと剣で腐食していく自分の左腕を自ら切り飛ばしてしまった。
切り飛ばされた腕は瘴気の霧になって霧散する。
コッキーも潰されかけた右腕をかばっているのか動きが鈍い。
だがその間も魔術の構築は止まらない、コッキーも魔術の発動に気づき目を見開いた。
そしてそれを見逃すルディではない、なんとか妨害すべくドロシーの背に斬りかかる、だが突然下から大きく硬い物体に突き上げられた。
慌てずバランスを保ち飛び退けると、数本の腕が覆いかぶさりルディがいた場所に襲いかかった。
下から現れたのは身長六メートル程の巨人で三本の黒い太い足に頑丈な巨大な樽の様な胴体、そして六本の巨大な腕が胴体の周囲に生えていた。
丸い頭には赤く輝く目が頭の周囲を取り巻くように幾つも輝いてる、それと同じ赤い目が樽の様な胴体にいくつも散りばめられていた。
「なんだこれは!?」
「殿下、ホンザ殿がおっしゃっていた召喚精霊だと思います」
離れたところからアゼルが大声でアドバイスをくれた。
「ドロシーやっと本気になったのね?相手を嘗めているから恥ずかしい格好になるのよ!!」
また上空からエルマがドロシーを責める。
「油断していたわけではないの、力を無駄遣いしたくなかっただけ面倒くさいし」
「それが油断なんだから!!」
ドロシーはコッキーの攻撃を片手の魔剣でいなしながら、素早い身のこなしで回避していく、ドロシーの瞳は断ち切られた腕を見詰めていた、その腕の切り口から突然血が吹き出した。
その血は生ける物の様に形を成し、やがて腕の形に変化し色も変わっていく。
やがて鮮血の赤から青白い美しい肌に変わって行く。
ルディは目の前に現れた三本足の巨人の相手をしなければならなかった。
腕をかいくぐりながら足を攻撃する、一本でも破壊できれば動きを止める事ができる、見事な一撃離脱で腕の攻撃を躱しながら巨人の足の一本を魔剣で集中的に攻める。
幸いな事に巨人はあまり賢くなかった、巨人を翻弄しながら確実に痛めつける。
ドロシーはコッキーの攻撃を巧みに交わしながら、再生した腕を振り回し調子を確かめていた。
氷の槍がドロシーに向かって疾走る、それを再生したばかりの片手で叩き落とした。
ルディは焦り始めていたドロシーの魔力量の底が見えない、更に召喚精霊が増えたらどうなる?
そして上空を見た、青い光の泡に包まれて真紅の怪物の眷属のエルマが宿屋の少女を抱えていた。
白いドレスのエルマも侮れない力を持っている。
エルマが抱きかかえるマフダとそれほど親しいわけではない、だが話した事もある素朴な街の娘だ。
六碗の巨人と戦いながら決断に苦しんだ。
ルディの頭に撤退の文字が浮かぶ、そこでベルを思い出して苦笑した。
無意識に彼女を前に立たせる事を避けてしまうのだ、バーレムの森でもそうだった。
だが彼女は幽界の魔物を呼び出すことを嫌っている。
巨人の攻撃を交わしながら足をついに一本打ち砕いた、六碗の巨人は体勢を崩し音を立てて倒れた。
手足をばたつかせていた六碗の巨人は突然瘴気に還って行った、召喚者が元いた世界に戻したのだろう。
「ルディ、替わって!!」
ルディの心境の変化を察した様に後ろからベルが声をかけて来た。
自分が前に出る事を考えていたに違いない、昔から無神経に見えて周囲の空気を読む事ができた、自分が思いつくまで待っていたのかもしれないとまた苦笑した。
反対に乳母姉妹のアマンダの方が謹厳実直に見えて自由気ままで空気を読まない処があった。
「おう!」
ルディはこの機を逃さず下がった、ホンザを草の上に寝かせたベルが一気に横を駆け抜けすれ違う、そのままドロシーに襲いかかって行く。
ルディは草地の上に寝かされたホンザの処まで疾走ると老魔術師を抱きかかえた。
老魔術師は既に意識を取り戻していた。
「ルディガー殿か足手まといになって申し訳ない」
「今は何も話さなくて良い、回復に専念してくれ」
そして改めて戦場全体を見渡した。
『奴の魔力は底が見えぬ』
アマリアが呟いたそこから彼女の畏怖を感じる事ができた。
アゼルはコッキーと連携して戦っているようだ、時々水精霊術の力がここまで伝わってくる。
遠くでベルが瘴気の塊に弾き飛ばされた、しだいにベルの力も強くなって行く。
「あれは魔術なのか?」
『力そのものをぶつけているな、人の魔術師には不可能じゃよ、聖霊拳の幽界の門を開いた者に近いやもしれん』
「ああ!そうだったのか解ったような気がするぞ」
『お主聖霊拳の上達者を知っておるのか?』
「知り合いにいるのだ」
『前にも聞いたかのう?ならば話は早い』
すると先ほどと同じ三本足の六本腕の巨人が大地から姿を現す。
「とんでも無い女じゃのう」
ホンザが心底呆れながらルディに抱きかかえられたまま苦笑した。
そして続いて魔界の力が集まると、細身でコウモリの翼を生やした人型が姿を現した。
「あれはバルログか・・・」
ついにドロシーが召喚精霊を複数呼び出し始めたのだ。
そしてベルの力が更に高まる、精霊力の輝く塊としてルディの超常の感覚が捕らえた。
ベルは幽界の魔物の力を自らの中に導くのを嫌っていたが、ついに幽界の獣の力を解放したのだ。
『話は聞いていたが、女神アグライアの魔豹か?』
「やっと姿を見せたのね待っていたわ」
ドロシーの声は世間話をするように静かだった、だがなぜか彼女の声はここまでよく通る。
ルディはハイネ城の地下で負傷したベルが変異した時の姿を思い出した、それは昨晩の出来事だ、ここからはよく見えないがベルの肢体が僅かに不自然に変化していた。
そしてドロシーが発する力も急激に増加していく。
「ルディガー殿、わし一人分隠れる陣地ならなんとか作れそうになった、儂にかまわず彼女達を助けてやってくれ」
ルディはホンザにうなずいた、ホンザを草地に立たせるとホンザはすぐに魔術術式の構築を始める。
ルディは愛剣を握り締めると戦場に再び還るべく疾走った。