闇妖精の力
落下するような浮遊感に続いてルディの体を軽い衝撃が襲う、続いて近くに誰かが落ちる音がした。
すばやく周囲を探るが先程まで隠れていた倉庫裏の狭い空き地にいた。
たしか白い霧が押し寄せて来たはずだったが?
「すまぬなお主達を強引に引きずり込んだ」
目の前に老魔術師のホンザがいた、彼は少し疲れたように微笑む、背後でアゼルがよろよろと立ち上がる気配がする。
「宿に二人がいる」
「わかっておる、何とか二人を引き寄せる少し時間をくれ予め印を付けてある」
それにルディはうなずく。
『いったい外はどうなっておるのじゃ?』
「アゼル、ホンザ殿二人をまかせた」
「まってください殿下!」
アゼルの声が終わる前にルディは前に出ていた、ホンザの結界は一定の距離だけ離れると外に出てしまう事はわかっている。
路地裏から宿屋の前に数歩出ると僅かな違和感を感じて現実界に戻った。
すでに吹き出した霧は消えていた、だが宿屋を囲む白い霧の壁が立ちふさがる、宿屋は霧に阻まれて中の様子がまったくわからない。
そして路に何人か人が倒れている、あの霧に巻き込まれた通行人だろう。
そして霧の壁の向こう側から命の存在感を感じられない、ベル達が死んでいるのか感覚が妨害されているだけなのかわからなかった、探知を放つがこれも壁に阻まれた。
あせりだけが募って行くベルとコッキーの安否が気になるのだ。
ふと右手が愛剣に触れていた、この切れない物を切る事ができる己の体の一部となった謎多き魔剣、その柄がほのかに暖かったその温もりを感じて気持ちが少し落ち着く。
精霊変性物質を加工した武器ではなく初めから剣だったとアゼルがその由来を教えてくれた事がある。
その無銘の魔剣を抜き放ち白い霧の壁を切り裂いた。
何の手応えも無いが壁が切り裂かれた一瞬だけ人の命の存在感を感じる事ができた。
更に力を解放すると魔剣の腹で白霧の壁を振り払った、そして加速しながら目にも止まらなぬ速度で魔剣を振り回し霧の壁に穴を穿った。
その穴の奥から不愉快な瘴気の気配を捕らえたその瞬間に決断した、瘴気の源を断つべく総ての力を爆発させて解放する。
石畳を踏み込み魔剣が開けた穴から中に飛び込んだ、宿の向かいの倉庫の壁に向かって跳ぶと壁を踏み台にして方向を変えた、視界に真紅のドレスを捉えた、そのままバリスタから放たれた矢の様に真紅の化物に向かってルディは飛んだ。
一気に真紅の怪物の背後から無銘の魔剣を叩き込む。
だが細身の漆黒の直剣が無銘の魔剣の斬撃を受け止めた、この世の物ではない物質同士の激しい衝突により虹の様に煌めく火花が星の様に飛び出した、火花は生きている様に二人の周囲を彷徨いながら消えて行く。
そして激しい金属音を五感で感じた、その波紋は遥か世界に深く広がって消えて行く。
それは総て一瞬の事だった。
その交わった刀身の向こう側から真紅の化物の鋭い眼光が赤々とルディを射抜いた。
ルディは訝しんだ、真紅の怪物はここまで鋭利な貌をしていただろうか、強力な威圧感を発していたが朧気で蕩けた様な、目の前にいるのに遠くにいるそんな掴みどころの無さがあった。
だが目の前の化物は以前より圧倒的に強大な存在感を放っている。
だが躊躇していられない続いて剣を叩き込んだがそれも軽々と受け止められた。
前よりも遥かに早く重いそれが剣から伝わってくる。
「ルディガー殿、二人は儂の結界に収容したアゼルが起しておる」
何処からかホンザの声が聴こえて来た、これで懸念の一つが消えた。
ふたたび剣を真紅の化物に突きこんだ、それも剣で安々と軌道を逸らされてしまう。
力も以前より比較に成らないほど強くなっている、ルディは焦りを感じ始めた。
その直後に真紅の怪物が左の手の平を向けた、魔術の行使を警戒したが瞬時に瘴気が収束し放たれた、まるで個体の様な高密度の瘴気の塊に叩きのめされ吹き飛ばされた。
背中が何かに激突し瘴気が体と精神を蝕んで行く、ルディの意識が遠くなった、そしてふたたび落下の感覚に捕らわれた。
「消えた?ここは奴らの戦場か」
ドロシーは敵が消えた霧の壁の向こう側を見詰めてつぶやく、そして窓際にいるエルマを振り返った。
「エルマ戦いやすい場所に行く」
二人の戦いを呆然と見ていたエルマはそれに慌てだす。
「わ、わかったわ、でも大丈夫なの?」
「問題ない」
ドロシーは空を見上げた雲ひとつ無い夜空に満月に近い月が輝いている。
エルマはマフダを抱きかかえてお姫様抱っこをする、エルマの力なら彼女の重さなど無いのと同じだ。
マフダは夢うつつで抵抗しないどころかドロシーを蕩けた様に見上げていた、それに気がついたエルマが顔をゆがめる。
マフダは私のお友達なのよ?彼女の目はそう語っている。
二人の悪鬼はそのまま空に登って行く、やがて高密度な瘴気の塊が二人の周りに生じ漆黒の嵐となった。
そしてそれは跡形もなく突然消え失せる。
それと同時にマフダの宿屋を包んでいた白い霧の壁も崩壊しやがて霧散し消えた。
ホンザの魔術陣地の中でルディはアゼルの治癒を受けていた、壁に叩きつけられたルディをふたたびホンザが回収したのだ。
「殿下!!」
「アゼル大丈夫だ大した事はない」
ベルがルディを上からのぞき込んでいる。
「ルディ、真紅の怪物にやられた?」
ルディはまた意識が薄れかけたが精霊力で体を整えていく、この力が回復力を異常な水準まで高めてくれる。
「お前も無事だったか」
「いきなりアイツが来たので間に合わなかった」
ベルが少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「コッキーも目が覚めたようじゃ」
ホンザの声がきこえてきた、そちらを見るとコッキーも起き上がるところだ。
『あれが闇妖精か、生きている妖精族をここまで間近でみたのは初めてじゃ』
ペンダントがとりとめもなく呟いていた。
「僕が外を見てくる、どうなっているんだ?」
ベルがそう言い残すと街に飛び出した、ホンザがそれを呼び止めかけたがベルが動くほうが早かった。
すぐに彼女の後ろ姿が消えてしまった。
魔術陣地に慣れてきたのかもうそれに驚く者はいない。
「やつらは去ったようじゃ、魔術陣地を解除する」
一瞬周囲の風景が揺らぎすぐにそれは収まった。
宿屋の前にベルの後ろ姿が見える、すでに白い霧の壁は消えていた。
「ホンザ殿もう戻ったのか?」
『魔術陣地は術が浅いほど現実界とのズレが少なくなり必要な力も減る、そのかわり見つかりやすく破られやすくなるのじゃよ、じゃが深すぎると現実界に干渉できなくなる』
アマリアのペンダントが教えてくれた。
すぐにベルが仲間がこちら側に現れた事を察して戻って来た。
「もう奴らはいないあの娘もいない!」
「北の別邸か?それぐらいしか奴らの行き先に思い当たる場所が無い」
ルディはこれに当惑した。
その時何か鳥のような羽ばたきが聞こえる。
こんな夜更けに鳥が羽ばたくだろうか、全員が空を見上げると月夜の空を背景にコウモリが一羽空を舞っていた。
しばらくするとコウモリは北東の空に向かって飛んで行く。
「殿下あれは真紅の怪物の眷属でしょうか?わざわざ我々を案内するとは」
「アゼルさん追いかけましょう!」
「まってまだ中に武器があるんだ」
ベルが手元に剣が無いことに慌て出した。
「ベル、一階の窓が開いているからそこから入れ、俺達はアレを追いかける」
「ベルさん私の棒もお願いします、ラッパはここにあります!」
コッキーは胸から下げたトランペットを指差した。
ベルは一瞬不満げな顔をしたが取りに行くのは一人で十分だ、二人は最小限の荷物しか持って来ていない、ベルは宿屋の狭い庭に駆け込んで行った。
「よしコウモリを追いかけるぞ、ホンザ殿は大丈夫か?」
かなり疲労が目立つ老魔術師が気になった。
「なんとか行けるわい、だがあまり期待してくれるなよ、力が戻るまで時間がかかる」
「わかった」
四人はコウモリが飛んで行いった方向に走り始めた、やがてハイネの北東区の高級住宅街を越えてハイネの大聖霊教会を通り過ぎると、それは城壁を越えて更に飛んでいく。
四人は旧市街を囲む城壁を乗り越えてコウモリを追いかけた、コウモリは彼らがついて来るのを見届けると北東の空に向かって飛んで行く。
新市街を越えたその先にハイネ市の東を南北に走る丘陵がある。
そこは牧草地で丘とその周囲は木々が切り払われ見晴らしの良い草地になっている。
その邪魔一つ無い見晴らしの良い丘の頂上に濃密な瘴気の塊があった、それは暗黒の闇の力を放っている。
まるで光一つ放たない漆黒の太陽の様に輝いていた、それは奇妙な例えだが光なき闇の力でそれはギラギラと輝いていたのだ。
コウモリはその瘴気の暗黒の輝きに引き寄せられて消えた。
アゼルとホンザは距離をとる、ルディとコッキーが遠巻きに包囲する位置に着いた。
『凄まじいな、ペンダント越しでもわかるぞ』
ルディの胸から呆れた様なアマリアの声が聞こえてくる。
「愛娘殿が万全なら勝てるか?」
『懐に入られたら終わりじゃ、盾になる者がいれば戦えるかのう』
伝説の精霊魔女にしてこの評価だ。
『妖精族は人を越えた身体能力と高位の精霊術師でもある、手足を動かすように精霊術を使えるのじゃよ、本来詠唱など必要としない、今は講義をしている場合ではないか』
薄青い光球に包まれた白いドレスの人影が空に昇っていく、その人影は少女を抱きかかえている。
「あれはマフダだ!白い奴はエルマだな見覚えがある」
『あ奴も高位の眷属であろうが戦力外扱いかのう?』
その直後の事だ黒い瘴気の塊から真紅のドレス姿が飛び出した、ルディは進路を妨害しようと動くが敵の動きが想像以上に早い、ルディも人に成らざる速度を出したが間に合わない。
ルディは後悔した怪物の進路の先にホンザがいたからだ。
真紅の怪物は真っ先にホンザを狙ったのだ。
アゼルの驚愕する顔が視界の隅をかすめた、ホンザの表情はよくわからない、つば広の帽子に顔の上半分が隠されていた、ホンザは動こうとしなかった。
そこにホンザの後方から強烈な精霊力の輝きが矢のように迫って来る、それはベルの精霊力の輝きだ。
そしてホンザを追い抜くと真紅の怪物と激突した。
魔剣同士の激突が煌めく火花を生じ、この世ならざる火花は蛍の様にあたりを飛びかう。
そして金属音とともに精霊力の波紋が広がり散っていく、だが力では真紅の怪物が勝っていたのか弾き飛ばされたのはベルだった。
だがベルが作り出した時間は無駄ではない、そこにルディが無銘の魔剣の斬撃を背後から叩き込む。
だがそれを剣で受け止めず漆黒の瘴気の塊を叩きつけてきた。
ルディは回避もできず後方に吹き飛ばされてしまった。
「コッキー、受け取って!!」
素早く起き上がっていたベルが腰の帯剣ベルトに挟んでいたコッキーの棍棒を投げる。
かなりの距離が離れていたが見事な放物線を描いて正確に飛んでいった、だがコッキーもこちらに向かって走っていたせいでコッキーの頭を越えてしまった。
「ありがとなのです!」
コッキーは飛び跳ねて異界の昆虫の触角を宙で捕まえようとした。
その間にアゼルとホンザは更に間をとろうと動いていた。
だが突然真紅の怪物がその場で一気に跳ぶ、ルディは予想外の方向に跳んだので彼女を見失ってしまった、だがベルの顔が驚愕に変わるのを目撃した。
真紅の化物は空中で棍棒を捕まえたコッキーに向かって跳躍していた。