白き濃霧
ハイネ城市の北側に美しい森に包まれた丘陵地帯が広がっている、そこは富裕な人々の邸宅が立ち並ぶ別荘地になっていた。
ハイネの近くは治安が良いがそれらの邸宅は要塞の様に厳重に護られている。
そしてひときわ小高い丘の上に煉瓦造りの瀟洒な舘が建っていた、そこからハイネの夜景が眺望できる、その館はハイネの有力者コステロ商会の会長の別邸として知られていた。
だがその館の二階には灯り一つ無かった、その真っ暗な二階のバルコニーに月の光に照らされて二つの人影があった。
二つの人影はハイネ城の水堀を見下ろしていた、城は普段より警備が厳重で水面に落ちる篝火の灯りもいつになく多い。
丘陵地帯も深まる夜の闇に深く閉されようとしていた、多くの邸宅の窓から灯りが漏れていたがその光も少しずつ消えていく。
そして雲ひとつ無い夜の空に月が丸く輝いていた。
大きな人影が隣にいる小さな人影にささやく。
大きな人影は真紅の古風なドレスを纏い同じ色のボンネットを被っていた、彼女の右手は細身の直剣を握り締めていた片手剣としては細く華奢で頼りなげに見える。
「エルマそろそろ時間」
エルマと呼ばれた小さな影が応えた。
「ねえドロシー、ヨハンを連れて行かないの?」
「今日奴らがいた、私達を見張っていた、上手く隠れていたけど私には敵がいればなんとなくわかる」
「私には全然わからなかったけど」
「あいつらも腕を上げた」
「じゃあヨハンはお留守番ね、あの子まだまだ頼りにならないもの」
「貴方を連れていくのはマフダの顔見知りだからよ?」
暗にお前も頼りにならないと言われたのだ、エルマの顔が暗闇の中でむくれた。
そこにリビングの告時機が真夜中の時を告げる。
ドロシーは手にした細身の直剣を高々と掲げる、黒ぐろとした滑らかな刀身が月明かりを反射した。
月の光の反射をうっとりと眺めてから隣の小さな影に視線を落とした。
「武器は持ったエルマ?」
エルマはうなずいた彼女は刃渡り30センチほどの黒い刃物を見せびらかす様にクルリと回転させて見せた。
「私達は外に出るわ」
「いってらっしゃいませお嬢様方」
背後の灯り一つ無い居間の奥から若い女性の声が応えた、彼女は灯り一つ無い部屋の中で待機していたのだ。
ドロシーとエルマの影がその直後バルコニーからかき消える、あとに梢の間を吹き抜ける風のざわめきだけが残っていた。
小さな宿屋の小さな室で小さなマフダは寝付けなかった、目を瞑ると昼間出会った女性の真紅の靴の色が目に浮かんでくる、なぜか時間が経つほどそれが鮮明になって行く。
そして見たことも無い美しい女神様のような女性の姿が浮かび上がって来た。
黒い肩までの髪に細面の繊細な美しい顔に細身ながら優美な肢体、彼女の宝石の様なエメラルドの瞳に見詰められると吸い込まれる様に心が遠くなった、だがそのエメラルドの瞳がルビーのような赤い真紅の色に染まる、そこでマフダは目が覚めてしまう。
「ねむれない・・・変だわ」
マフダは目を覚ますと狭いベッドの上で寝返りをうつ。
その時何か奇妙な感じになった、何が起きたのかわからない、部屋の中を見渡すが真っ暗で何も見えない、窓の鎧戸の隙間から外の灯りが僅かに射し込んでいた。
だがしだいに部屋の中が白くなって行く、霧のような白いものが少しずつ湧き上がり濃くなって行く。
強い眠気を感じて意識が遠くなった、何か大変な事が起きていた、だが何もできないうちに深い眠りに落ちて行った。
窓の鎧戸が叩かれる音でマフダは目が覚めた、いつの間にか寝ていたらしいでも頭がはっきりしない、しかしこんな時間に窓を叩く人がいるなんて。
何か予感を感じて粗末なベッドから起き上がり窓辺に近寄った。
「誰なの?こんな夜更けに」
窓の外の怪しい人物に声をかける。
「その声はマフダね?会いたかったわ」
「やっぱり貴方はエルマね!」
「そうよ窓を開けてよ」
マフダの心の何処かで警鐘がなっていた、だが夢の中で操られているかのように体が動いて窓の鎧戸を開け放つ。
目の前が白い霧に閉されていた、窓から隣の商家の生け垣が見えるはずだが白い壁が立ちふさがって何も見えない、霧は嵐の様に渦巻いていた。
そして目の前に白い瀟洒な美しいドレスを着た少女がいた、少女は間違いなくエルマだった。
だがマフダの記憶の中のエルマは新市街の貧しい家の子でこんな高価そうなドレスに縁はない、手入れされた金髪は豊かに波打ち薄い化粧まで施されている。
エルマはお金持ちの家に引き取られたのかな?
少し心の奥が締め付けられる、さんざん心配したのにお金持ちの家で幸せになっていたのだから。
それが嫉妬だと気づいて急に気まずくなった。
「エルマ今までどこにいたの?」
それに応えもせずにエルマは身を乗り出す。
エルマの肌は以前よりも一段と白くなり、汚れも垢も何ひとつ無い肌と真っ赤な唇が美しい。
また心の中が騒がしくなる。
「マフダを迎えにきたのよ!」
「迎え?」
「とても楽しい処よ、そこで永遠に幸せになるの」
マフダはその世界に行きたかった綺麗なドレスを着て美味しいご飯を食べたい。
だが宿の厳しいが誠実で頼りになるご主人、見かけはふっくらとして優しいがもっと頼りになる女将さん、だらしなく頼りにならないが悪い人では無い父親の姿、そして行方不明になった修道女のサビーナの姿が脳裏をよぎる。
「エルマはどこに住んでいるの?」
「大きなお屋敷にいるのよ、お友達も親切な使用人もいるの」
エルマはキャラキャラと笑った、その唇の隙間から何か白い鋭い物が見えた気がする、でもさっきから頭があまり回らない。
そしておかしな事に気づいた。
自分の部屋は一階だが窓の高さは地面からそれなりにある、エルマの顔がなぜ正面にあるのだろう?
窓の下を見て驚いたエルマの足が宙に浮いていたからだ。
ひっ!!
すると目の前に滑らかに真紅に輝く靴と真紅のドレスの裾が上から降りてきた。
彼女はボンネットを片手に掴んで顔を晒している、目の前まで降りてくるとエルマの肩に片手を添えた。
真紅に包まれた女性の肌は病的なまでに白を通り越して青味を帯びている、細く筋の通った鼻と切れ長の目に瞳はルビーのような赤い輝きを帯びていた。
髪の色は黒で髪型はボブカット、その芸術的なまでに均整のとれた美貌は人形の様に作り物めいていた。
そして彼女の両耳は長く細く先が尖っていた。
その瞳を見てるとすべて吸い込まれそうになり体がよろめいた。
「あの、あなたは女神様ですか!?」
彼女は目の色が違うけど夢に見た女神様にそっくりだった、きっと昼間の女の人だとマフダは理解した。
「私と来なさい、まずは私の印を受けなさい」
それは絶対の命令の様に感じられる。
「はい・・・」
女神は窓際に近づくとマフダの方に凄絶な美貌を近づけた、マフダはもはや逃げようとも抵抗しようともしなかった。
赤く滑る血の色をした唇がマフダの額にそっと触れる。
となりで見詰めていたエルマの顔が赤くなる。
「これで貴方は私の物になった、さあお屋敷に帰りましょうそこで私の下僕になりなさい」
マフダはそれにふんわりと微笑んだその目は遥か遠くを見ていた。
「やったわ!!これで貴方も本当のお友達になるのよ!!」
エルマが興奮しながらキャラキャラと笑う、その唇から白い鋭い牙が頭をのぞかせた、だがマフダはそれを見てももう何も驚かない。
そこに強烈な爆発する精霊力と共に、黒い影が白い霧を突き破り真紅の怪物に襲いかかる。
高速に振り下ろされる漆黒の斬撃はドロシーの頭を正確に狙っていた。
それをドロシーの細身の剣が瞬時に受け止めた。
この世の物ではない金属同志の激突はこの世の物ではない火花を散らした、その衝撃音は奇妙な理解し難い波動を生むと世界に広がって消えていく。
精霊変性物質の武器がそれぞれ人外の者に振られ激突した事が今まで果たして何度あっただろう。
「やはりお前達か、何処にいた?」
ドロシーは受け止めた剣の先に視線を流した、そこに宿敵の一人の顔を認めた。
「ドロシーこいつだわ!!まさか蛇女もいるのかしら?」
エルマの口調には僅かに動揺と恐れの色があった、エルマは周囲を見回し始める。
「ルディガー殿、二人は儂の結界に収容したアゼルが目を覚まさせておる」
何処からか年老いた老人の声が聴こえて来た、ドロシーの顔に微かな不審の色が流れた。
「わかった早く頼む」
ルディがすかさず魔剣で鋭く彼女を突く、だがそれを細身の魔剣で無造作に払う、彼女は左の手の平をルディに向けると瘴気の爆発が生じた。
ルディは瘴気の衝撃に激しく撃たれ霧の向こう側に吹き飛ばされ姿が見えなくなった、そして何かが激しくぶつかる音がした。
「魔術陣地・・・土精霊術師がいるようね」
真紅の化物は霧の向こうを見透かすように呟く。
それは戦いが始まる前の事だった、ベルとコッキーがマフダの宿に入り込みのんびりと食事を楽しんでいたころ、ルディとアゼルとホンザの三人は宿屋の近くの倉庫の裏に潜み戦いの準備をはじめていた。
彼らが今晩ここにくる保証はなかった、だが準備には時間がかかる、彼らが動き出した後では総てが手遅れになってしまう、そして早ければ良いわけでも無いのだ。
運良くルディ達が魔術街で彼らを目撃し、彼らが隠れ家から出てくる機会を掴んだ、彼らを滅ぼす絶好の機会に賭ける価値はある。
アゼルの作業を眺めていたルディの顔が僅かにかわった。
「愛娘殿か」
『もどったぞ』
ルディの胸のペンダントが話し始める、最近ルディは通話が始まる直前にペンダントが力を発する変化がわかる様になった。
「愛娘殿いろいろ忙しいようだな」
『まあな、お主達が連れてきたカラス共のおかげでずいぶん動きやすくなったからの』
「アマリア様、用意できるものは用意できましたが」
『アゼルか・・・短い時間でよく揃えたな、頼りないがまあ無いよりはましか』
「街を走りまわりました」
アゼルの手元には慌ててかき集めた対吸血鬼戦に使えそうな物が集められていた、だが彼らの顔を見るとあまり期待していないのがあからさまだ。
『ホンザはどうした?』
「ホンザ様は魔術陣地を作られています、こちらも簡略型だそうですが魔力の消費がきついようです」
『あやつは戦いに加わるには厳しそうじゃな、セナ村の魔術陣地の維持でかなり消耗しておろう』
アゼルが告時機をふたたび確認した。
「まもなく日が変わります」
それは突然始まった。
マフダの小さな宿屋の上空に瘴気の塊が生じ巨大な力が生まれたのだ、遠くから敵が徐々に接近してくると思い込んでいたルディ達は意表を突かれた。
その瘴気の塊の中で魔術術式の構築が始まった、そこに膨大な瘴気いや魔界の力が注ぎ込まれるのを感じた、その直後詠唱もなく術が発動した。
白い霧でできた円筒形の壁が宿屋を中心に生まれた。
アゼルの呻き声が聞こえる。
「無詠唱だと?」
さらに魔術術式の構築が始まる、膨大な力が注ぎ込まれ間をおかず術が発動した。
瘴気の塊から霧が吹き出した、濃厚な白い霧が周りに吹き出し広がっていく、濃くなっていく白い霧に何も見えなくなった。
街が霧に覆われていく。
『いかんこれは闇妖精の中でも上位じゃぞ』
白い霧がルディ達のいる場所に押し寄せて来た、その霧にふれた瞬間意識が遠くなった、この霧は南の聖霊教会の戦いの前に真紅の怪物が使った術と同じだった、だがそれより遥かに強いと薄れゆく意識の中で理解した。
足元が溶けるように失われ体がそこに落ちて行った。