妖艶な修道女
セナ村とハイネ城市を結ぶ曲がりくねった小道を北に進む二人の影があった、陽は中天に昇り今日は朝から雲一つ無い晴天でおまけに風も無かった、歩くだけで汗ばむほど暖かい。
「屋敷に籠もるのはもったいない陽気だな」
「そうですね殿下、死の結界があるとは思えません」
「ああ」
ルディは眩しそうに空を見上げた、まばらな林の木立の枝葉を透かして木漏れ日が眩しい、樹々と若草と畑の肥やしの臭いが入り混じってほのかに薫る。
田舎の小道を道行く人も無く静かだ、だが二人はセナ村の住人と鉢合わせしないよう周囲に気を配りながら進む。
アゼルの肩にエリザの姿が無かった、彼女は魔法陣地の中で留守番をしている。
やがて林の向こうにハイネの旧市街を囲む城壁が見えて来た、セナ村からハイネの新市街まで歩いて僅か一時間の距離だ。
「今日は別行動しないお前にも俺の買い物に付き合ってもらう」
「私は古本を買うので手伝ってもらいます、捕虜になった時に総て失いましたからね、もう一度資料を集め直します」
「わかった、だが魔術道具屋で長居しないでくれよ、昨日の今日だからな」
小道の先に新市街の乱雑な家並みが見えて来た聖霊教会の廃墟も近い、そこで急に不愉快な気分に襲われる、空気の澱を五感が感じとったのだ。
「殿下どうしました?」
いつのまにか立ち止まっていた。
「・・・アゼル、もう殿下は止めてくれないか?」
「長年のクセですね」
アゼルが苦く笑った、アゼルはルディガーの遠縁で幼馴染で魔術で高名な名家の生まれだが身分は平民にすぎない、長年の習慣はなかなか改まる事は無い。
「アゼルわかるか?瘴気が南東に流れている」
「あの墓場の瘴気ですね私にも微かに感じられます、あの方向はやはりドルージュでしょうね」
「ああドルージュに瘴気を集めているようだな」
二人は陽炎の様にゆらめきながらゆっくりと南東に流れて行く瘴気の流れを見上げていた。
再び歩き始めるとすぐ左手に聖霊教会の跡が視界に入って来る、木造の部分が燃え落ちて土台だけが残っている、無残な焼け跡を昼間に見たのは初めてだ。
すでに後片付けが進んでいるのか焼け炭や瓦礫は片付けられた後だ。
「サビーナ殿は上手くやっているかな?」
淋しげに廃墟に目をやりながらつぶやいた。
先日アラセナに無事到着したと精霊通信が伝えて来たがそれ以降の話は聞いていない。
二人はそのまま旧市街の南西門を目指して新市街を進んだ、まず最初にハイネ城に関する噂話を集める為に旧市街に入る予定だ。
南西門から入るとジンバー商会を避け倉庫街からハイネを東西につらぬく大通りに出た。
そこから中央通に向かって進むと魔術街の入り口を通り過ぎる、するとどこからともなく良い香りが漂って来た、その覚えのある香りに記憶がよみがえる、以前ベルの案内で立ち寄った屋台の香りと同じだ。
だが見渡してもあの屋台が見つからない、替わりに大通りに面した場所に小さな店が出ている、そこから芳しい香りが漂って来る。
「アゼルちょうど良い店がある話を聞こう、同じ男が店主なら話が早い」
庶民的で少しおしゃれな小さな店を指差した。
その店の緑の扉の上に『ハイネのお洒落なモリニエ』と書かれた看板がかかっていた、入り口の緑の扉の隣にカウンター付きの大きな窓がある、人夫らしき男が料理を買うとその場でかぶりついている。
窓から中を覗き込むと若い男が忙しく働いていた、その男には見覚えがあった。
奥に小さな調理場が設けられ店内に二人ほど客がいた。
「店主、屋台から店に変わったのか?景気がいいじゃないか」
ルディは満面の笑みで若い男に話かけた。
男の顔に『こいつ誰だ?』と一瞬流れたが、すぐに商売人の笑顔に変わる。
「やあ兄さんお陰様で店が持てたぞ、みんなお客様のおかげさ!」
「アゼルそいつとこいつは辛いから気をつけろ」
ルディは壁に貼られたメニューに目をやると、アゼルに親切に教えてやる、アゼルが眉を僅かに顰める、二人はさっそくテレーゼの郷土料理を注文した。
「毎度ありー」
店主はさっそく調理に取り掛かかった、この料理は働く者が片手間で腹を満たせる料理で上品な物ではなかった、そのかわり通行人にそのまま売れるので小さな店でも商売しやすいのだ。
料理ができるまでしばらく間ができる。
「そういえば、知り合いの家族にハイネ城の役人がいるんだが、昨日城で何があったのか知らないか?」
調理中の店主に何気なく話しかけると店主はふりかえりもせずに応えた。
「ああー、事故があったとか聞いたな、怪我人が出たとか聞くが詳しい話は知らん」
「城が崩れたのか?」
「わからん、城には誰も入れない場所があるらしいぞ、そこで何か起きても表にでないさ」
「ほほー興味があるな」
「まあなんだ、関わらない方が良いこともあるぞ?」
「ご忠告いたみいる」
ルディは軽く苦笑するしかなかった、すでに深入りしすぎているのだから。
「できたぞ!」
店主が木製のトレイに料理を乗せて窓の外のカウンターに置く。
具をパンで挟んで焼いた素朴な料理でテレーゼの庶民的な料理をベースにアレンジした物だ、アゼルは物珍しいのか指で触れてから慎重に手づかみで口に運ぶ。
ルディも料理を味わいながらさり気なく話しかける。
「最近この街も景気がいいな」
「ん?おかげさまでな、最近大分落ち着いてきたからな、昔とくらべれば良くなったよ」
「店主はここの街の生まれなのか?」
「ああこの街の生まれさ」
「十年前に大きな戦があったそうだな」
その時店に新しい客が入ったので会話が途切れてしまった。
「知っているのか?」
店主は律儀に話しかけて来た。
「リネインの知り合いが家を焼かれてな」
「ああーリネインはその時燃えたんだ、ここじゃあ時々大きな戦が起きるんだよ、今度こそ平和が続いてくれればいいんだが」
「キナ臭い話でもあるのか?」
「北のグディムカルと上手くいって無いらしい、難しい事はわからんけどな」
食べ終わったところで店主に別れを告げるとそのまま中央通広場に向かう。
中央広場に出ると南の端に人だかりができていた、そこから美しい美声と見事なリュートの演奏が聞こえてくる、特に珍しくもない吟遊詩人の大道芸だ、彼らは娯楽を提供すると共に街から街へと情報を運ぶ、おかげで密偵が扮する三大職業の一つと言われるほどだ。
ちなみに残りの二つは聖霊教の修道僧と薬の行商人だ。
娯楽と安心と健康を運ぶ仕事柄どこにでも需要がある、そして旅をしても怪しまれず諸国の事情に通じていても疑われる事もなかった。
どうも見た処その人だかりは女性が多いようだ。
二人はそのまま通り過ぎるつもりだったが、歌の中からドルージュ要塞の威容を語る一節が聞こえて来たので思わず足を止めてしまった。
人混みに近づくとやっと歌い手の男の吟遊詩人の姿が見えてくる、彼は石の長椅子に腰を降ろし演奏に興じていた。
その吟遊詩人は長身で細身の若い男でかなりの美形で気品のある顔立ちをしていた、白に近い長い金髪を後ろで束ねて背中に流している。
お決まりの吟遊詩人の衣装をまとい色とりどりの繊細なアクセサリーで異国情緒を醸し出していた。
静かにだがよく通る声でリュートを奏でながら英雄物語の物語を歌い上げる。
ベルかアマンダならば彼がリネインの広場にいた吟遊詩人と同一人物だと驚いた事だろう。
彼の前に置かれたつば広の帽子は投げ銭で半ば埋もれていた。
彼が歌い物語るのはテレーゼで人気のドルージュの騎士達の活躍と忠義と悲劇の物語。
コッキーから話を聞いた事があったが実際にこの歌を聞くのはこれが初めてだ。
吟遊詩人の視線が通り過ぎ一瞬だけ目が合う、彼の瞳は赤いワインを落とした様に透明で赤い。
観客の様子を見ただけなのかすぐに視線は外れる、だが背筋がゾワリとする赤い瞳があの真紅の怪物を思い出させたから。
ふと前にどこかでこの瞳を見た事が有るような気がしてきた。
二人は彼の詩につい聞き入ってしまった、ドルージュに興味があったが彼が歌の名手なのは間違いない。
ふと背中から誰かがささやいていた、気づくとそれはアゼルだ。
「若旦那様この歌は先が長いようですそろそろ行きましょう」
彼の声で我に返った小銭を帽子に投げ入れるとその場を静かに離れた。
最後に吟遊詩人の視線を背中に感じた気がして振り返る、だが彼は不審な様子もなく歌い続けていた。
二人はハイネ城に向かって中央大通りを北上する、コステロ商会の前を通過すると正面にハイネ城の正門が見えて来た、やはり正門の警備が遠くからも物々しく感じられた。
「警戒しているようだなアゼル」
「やはり警備が厳しくなっていますね」
正門に近づくと警備兵がジロリとこちらを睨みつけてきた、目立たぬ様に正門の前の道を西に向かう。
「外からではやはり瘴気は感じられないな・・・」
ルディはハイネ城の高い内壁を見上げた。
「結界で封じ込められているようですね、魔導師の塔も同じ処理がされているはずです」
北東の大尖塔の方を見たがここからでは壁が邪魔で見えない。
やがて城壁が終わるとそのまま西に進むとその先は魔術街だ。
「若旦那様こちらです」
魔術街に入ったところでアゼルの案内で北に曲がった、正面にハイネ魔術学園の門の鉄柵が見えてきた。
昼休みが終わった後なので人通りは少ない、するとエミルの魔術道具屋『風の精霊』の辺りから修道女が姿を現すとこちらに向かって来た。
エミルとは少なからず因縁があるので二人に緊張が走る、ルディはその修道女に見覚えがある様な気がするが思い出せない。
その修道女はとても蠱惑的な体形をしていた、それを修道女の服がまったく隠し切れていない、むしろその禁欲的な衣装が彼女の魅力を強調している。
行き過ぎる通行人の男が時々彼女に目を奪われて振り返った、彼女の後ろを歩く男の視線は彼女のゆったりと揺れ動く豊かな腰に固定されている、ルディは彼女と行き過ぎてから思わず苦笑いを浮かべた。
もしここにコッキーかベルがいたら彼女の正体に気づいた事だろう、蠱惑的すぎる修道女はテヘペロその人だった。
魔術道具屋『風の精霊』の前にさしかかるとドアベルの調べの余韻が残っていた。
「エミルの知人か?思い出したぞ聖霊拳の使い手と合う前に見かけた修道女に似ている」
「修道女ですか・・・例の神器は聖霊教会の地下から出たとエミルが吐いたそうですね」
ベルがエミルを締めて知っている事を吐かせた事があった、エミルと言う男にはいろいろ不信がある、ジンバー商会やセザール=バシュレ記念魔術研究所と深い関係がある。
アゼルはジンバー商会の捕虜になった時エミルらしき男と接触していた。
「一度調べて見たいな、ハイネ聖霊教会は大地母神メンヤと縁がありそうな場所だ」
「若旦那様、聖霊教会は古い神殿や聖地の上に立てられている事が多いのです」
「地下に遺跡があるようだが古地図などで調べてみるか?」
「本屋はそこですよ」
アゼルは魔術街の北の外れに近い古書屋を指差した、二人はその店に入って行く。
それはルディ達が魔術街に現れる前の事だ、魔術街はちょうど昼休みに入り通りにハイネ魔術学園の生徒が溢れていた、魔術師の才能は天性のもので幼い頃から素質が明らかになる者もいるが、多くは磨かなければわからない者が多い、魔術師が自分の子どもになんとか跡を継がせようと学園に送りこむ場合がとても多い。
親戚や一族に魔術師がいる経済的に余裕のある家の者は、もしやと期待して子供をここで勉強させようとする者もいるぐらいだ。
魔術師になれば多くの利益が見込まれる。
エステーベ家のカルメラ嬢のように、主が外に出すのを惜しんで家臣の中から娘の結婚相手を探そうと考え始める程度に貴重なのだ。
そして魔術師に成れなくても学んだ事は無駄ではない、一般教養も身につくので役人や教師や錬金術師や薬剤師になる者も多い、極一部の者は学者の道を選ぶ。
魔術道具屋『風の精霊』の店主のエミルはどこか眩しいものを見るような目で生徒達を眺めている。
突然、店の扉のドアベルが音を立てた。
思わす顔を上げると修道女の姿がある。
待ち望んでいた彼女の豊満にして蠱惑的な姿にエミルは思わず立ち上がる。
「エミルさんこんにちわ♪」
「・・・テヘペロさん」
テヘペロがカウンターに近づいて来た、静かに扉が閉じると可憐なトアベルの音が奏でられた。
彼女は更に一歩踏み込んできた。
どこか甘い香りに僅かに触媒の香りが混じりエミルは魂を殴られた様な衝撃を受けた。
「どうかしら、聖霊教会の地下の事教えてくれるのよね・・・まだ心が決まらないのかしら?」
「覚悟を決めたよ君の研究の力になりたいんだ、地図を手に入れたが君にあげるわけにはいかないんだ、早く元の場所に戻さないと・・まずい事になる」
「それは残念ね・・・」
テヘペロはあからさまに不機嫌になった。
「いや心配はいらないよ地図の複製を作ったよ、上の部屋に置いてあるんだ見て欲しい」
エミルの顔は紅潮していた、僅かに震える手で奥の部屋を指し示す、この奥に上への階段がある。
テヘペロは察した様に妖艶な微笑みを作った、彼女の頬のホクロもあわせて少し釣り上がる、少し顔を前に乗り出して軽く息を吹きかけた、だがカウンターが邪魔でそれ以上二人の間が縮まる事は無い。
彼女は微笑みながら無言でうなずく。
少し俯いた彼女の微笑みには欲望と軽蔑と嘲笑の成分が僅かに混じっていたがエミルがそれに気づくことは無かった。
エミルは慌てて入口の扉に閉店の看板を出しかんぬきを掛けるとテヘペロの隣に戻って来る。
二人は事務所の入り口のカーテンをくぐった。
「ありがとうエミルさん、じゃあ見せてもらおうかしら、え?くれるの?」
やがて階段を昇る足音だけが聞こえてくる。