恐怖の巨人
「ルディ街に遊びに行こう!」
聖霊教会から宿に帰ると、ベルはさっそく退屈しはじめた。
「貴女は本当にお子様みたいですね、ベル嬢」
アゼルはテーブルで触媒を小さな革袋に小分けする作業をしていたが、その手を休めるとベルを呆れた様に見上げた。
「昼食を食ったばかりだ、もうすこししたら買い出しに出るから付き合ってやろう」
ベッドの上で横になって寛いでいたルディが面倒くさげにのろのろと起き上がった。
「ところでアゼル何しているの?」
テーブルの上に魔術的な意匠の大きな布を敷き、その上に幾つも置かれた木製の小皿の上に鉱物や薬草や動物の干物やら得体のしれない物質が盛られていた。
「術に必要な触媒を術単位に小分けしています、分けなくても術は使えますが、それでは使用済み触媒と混ざってしまうのですよ、こうして混ざった使用済み触媒を選り分けています、これをしないと魔術の運用にさしさわりが出るのですよ」
アゼルは変色した使用済み触媒を選別して布の上に乗せて行く。
「そう言えば僕が集めた死霊術の使用済み触媒もなくなったんだね」
「非常に残念ですが奪われてしまいました、今となって理解できる事が多いですね、僅かに帯びた瘴気は魔界由来の力と思えば説明ができます、機会があればまた手に入れたいものですが」
「そうだ昨日の夜、街で妖しい瘴気の様な何かを見つけた気がしたんだ、確認する間もなくすぐ消えてしまって、気のせいかもしれないけどね」
布の上の使用済み触媒の臭いを嗅いでからポツリとベルはつぶやいた。
「ベル解っている範囲で良い、詳しく話してくれないか」
ルディは完全に起き上がりベッドを腰掛け替わりに座った。
「聖霊教会の礼拝堂の尖塔に登って、リネインの人の命の光を見ていたんだ、その光の海の中に小さな影の様な淀みがあった、場所は中央広場近くだ、そこに人がいた様な気がしたけどすぐに消えた」
「命の光の海か…瘴気とはあの吸血鬼やハイネの墓場にあった物に近いのか?」
「そうだねどこか似ていると思う…あっ忘れてた、リネイン北の墓地にあの瘴気の流れが無かったんだ」
それにルディとアゼルが顔を見合わせてからうめく。
「…うかつだったな、あんな物は無いのが当たり前だからな」
「ええ、私にはお二人ほどはっきりとはわかりませんが、たしかに不快な気配がありませんでしたね」
ルディがベッドから立ち上がり外出の用意をはじめる。
「ベル外に出たら、その瘴気を感じた場所に案内してくれないか?」
「えっ、いいよ近くだから」
「私は触媒の整理をしなければなりません、お二人で出かけてください」
アゼルは二人を見もせずに作業に没頭していた。
リネインの中央広場に近い小さな繁華街の宿屋から二人の男女が現れる、一人は目を奪うような銀の長い髪と硬質な美貌の若い女性、高級使用人風の黒いドレスを纏いそれが彼女にとても良く似合っていた、だが厳つい帯剣ベルトに小ぶりの剣を佩きそのアンバランスさが不思議な色気を醸しだしていた。
もう一人は長身で浅黒い肌の短い黒髪の逞しい美丈夫だ、整ったそれでいて親しみ易さの中に気品を感じさせる姿、そして司祭服に不釣り合いな長剣を佩いている。
聖霊教の司祭服がまったく彼には似合って居ない。
田舎町の雑踏に繰り出した二人は周囲から浮いていた。
「すぐだよ、こっちに来て」
中央広場に出るとベルは北東の方角を見る、その視線の先にはリネイン聖霊教会の高い尖塔が広場を囲む石組み作りの建物の屋根の上から飛び出している。
「あの上から広場を見たんだ、だからここらへんかな」
円形の広場の南西の隅に二人はやってきた、だが特に気になる物は何もない無かった。
「ここらへんに一瞬だけ陽炎に包まれた人影が見えたんだ」
「特に変わったものはないな」
「失礼しますそこのご婦人、リネインの墓地の場所を教えていただけませんか?知人の墓があるらしいのです」
石畳を観察していたベルの耳にルディの声が飛び込んでくる、声の主を探すとルディが通りがかりの中年の婦人を呼び止めたところだった。
一人の婦人がルディに呼び止められて驚いて立ち止まっている、少し痩せた神経質そうな女性で籠に野菜を詰め込んでいた。
「北と南どちらなんだい?」
「二ヶ所あるのですか?」
「そうさ、南は街道沿いに少し進むと東の森の中に見えてくるよ、北は少し解りにくいかもね、聖霊教会のだいたい真北にあるからそれを目安にしなさい」
ベルはルディが何をしようとしているか解り始めていた、リネインに墓地が一つとは限らない他の墓地も確認するつもりなのだろう。
「ありがたい、呼び止めて申し訳ない」
「お墓参りなんだろ?良い心がけだから気にしないことさね」
その婦人はベルに気づいて一瞬驚いた顔をしたがそのまま去って行ってしまった。
「ベル南の墓地に行こうか?」
二人は何も言わず並んで歩き始めた、南北を貫く大通りに入ってすぐベルの足が止まった。
ルディがそれにすぐに気づいて警戒を強める。
南の大通りをベルが見覚えのある男が向かってくる、その男は昨日中央広場で見事な芸を披露していた吟遊詩人だった。
若く美しく気品のある長身の男で、薄い白に近い金髪を長く束ねて背中に流し、吟遊詩人らしい衣装をまとい大きなツバ広帽を深くかぶっていた、背中に背嚢を背負い古風なリュートをかかえている。
向こうも二人に気づいて立ち止まる。
「お早うございます、銀髪のお嬢様またお会いしましたね」
優雅にカティシーを披露した。
「また演奏なの?」
男はまっすぐ顔を上げるとつば広の帽子をとる、すると男の白皙の美貌が顕になった、男の血のような赤い瞳にベルはかすかな戦慄を覚えた。
「いいえ、私はこれから西に旅立ちます」
「ゲーラで演奏?」
「気が向きましたら、私は風に流される身いつかお会いする事もあるかもしれません、では私はこれで」
そしてベルは直感のまま精霊力の探知の網を放った、それは極僅かなものだった、それは隣にいるルディが気づかない程度の力だった。
そして美貌の吟遊詩人はそのまま去って行った。
「なんだアイツは無礼な男だな」
無視された格好のルディは少しいまいましげに吐き捨てた、だがベルは沈黙したまま立ち尽くしている。
「どうしたベル?」
ベルは黙ったまままったく身動きしない、ルディはベルの肩を掴んで軽く揺すった。
「何も見えなかった…何も見えないんだ、黒い穴があるみたい」
「まさかベル、探ったのか?」
彼女はそれに頷いた、ベルもルディも普段は人を精霊力で探査するのを避けていた、近くだと見たくないものが見える事があるからだ。
「ああ、この感じ覚えがある、あの馬車と出会った時と似ている、そうだアイツはどこだ?」
ハイネの北の丘陵地帯で黒塗りの窓の無い馬車を探った時の虚無とその戦慄を思い出した、悍ましい何かがあるのではなく何もない感覚、それは例えようが無かった。
二人は慌てて中央広場に戻る、だがあの吟遊詩人の姿が見当たらない、広場の露天商に聞いても吟遊詩人の姿を見た者がいなかった、
西門に向かったが結局あの吟遊詩人の姿はどこにも見つからなかった。
「嫌な感じがするルディ」
「ああ、俺もこれからは注意しよう」
二人はしばらく中央広場で立ち尽くしていた。
ベルは見えない敵の包囲の網が少しずつ迫ってきている、そんな予感に震えた。
ふとルディが肩に手を置いた、いつもなら手で払い除けていたかもしれない、今はその手の平の暖かさがベルの心を落ち着けた。
ハイネからはるか西のセクサルド王国との国境近くの裏街道を密輸商の商隊が進んでいた。
商隊は幌馬車10両程の規模の商隊だ、禁制のソムニの樹脂を始めとするテレーゼの数々の悪徳を運んでいた、幾つかの馬車の中から人の泣き声が漏れるどうやら非合法の奴隷商を兼ねているらしい。
テレーゼは統一的な権力が無いため人をさらっても領境を超えれば司法の力が及ばない。
王国が実質崩壊して久しかったが、グディムカル帝国と敵対し多くの内患を抱えたセクサルド王国は混乱したテレーゼに対し積極策をとれなかった。
またこの地域はテレーゼの有力者ヘムズビー公爵の勢力圏で彼らは独立王国並の力を持っている、そのことがセクサルド王国の手がテレーゼに伸びるのを防いでいたと言われていた。
この近にあるラングセル要塞は未だにその機能を失ってはいない、ヘムズビー公爵が守備隊を置いて管理していたからだ。
同じくセクサルド側の砦も禁制品を取り締まっていた、それが熱意に欠けていたとしても、建前まで捨ててはいなかった。
ゆえに商隊はこの裏街道を進んでいく。
本街道より整備が行き届いていないとはいえ、幌馬車隊が通過できる程に整備されていた、口の悪いものはこの街道を『悪徳街道』と呼ぶ。
セクサルドとヘムズビー双方の利益の為にこの抜け道は見て見ぬふりをされている。
おまけに意外とこの街道は安全だった、強力な犯罪組織が睨みを効かせていたのでむしろ小悪党の働く余地がないからだ。
ソムニの樹脂は悪魔の蝋と忌み嫌われていたが、極めて高い利益率を誇る、さらに奴隷に禁制品の魔術道具と薬品と偽造された美術品など、それらの高価な商品と代金を護る為に街道の治安は積極的に守られている。
そんな街道を悪徳と欲望を乗せて馬車の車列は西に進んでいた、その馬車の車列が怒号と命令と共に突然激しく乱れ急停止した。
商隊長は中央の幌付き馬車に乗り込んでいたが、商隊案内人の命令が出たあと馬車が激しく動き停止した事に強い不審を感じていた。
「何だ?おい前に行って確かめてこい!」
その叱咤に二人の男が慌てて馬車から降りて前に駆け去る。
だが盗賊の襲撃に付き物の激しい剣戟も喚声も聞こえてこない、それがかえって不気味だった、ただ何かのどよめきの様な音と人馬のざわめく気配だけがする。
商隊長は外が気になり幌の隙間から外をのぞいた、そして目を見張ったまま固まる、商隊がいつのまにか道の脇によっていたからだ。
「なんだ?」
そして次に見たものが商隊長の理解を越えていた。
商隊の前の方から巨大な男が戦鎚を担いで商隊の横を通り過ぎようとしていた。
その巨人は軽く2メートル半ばを越える程に背が高く、横幅も負けずに規格外に広かった、全身が筋肉の鎧に覆われ、肌は黒く日に焼けて全身切り傷だらけだった、
ただの大男ならここまでの驚きは感じなかっただろう、その男の姿は例えようもない禍々しさに満ちていたからだ。
全体的なバランスが不自然で見ているだけで不安になる、筋肉の塊の様な肉体は肩幅も腰回りも巨大で、まるで正方形の塊に見えた、その巨大な肩の上に申し訳なさげに頭がちょこんと載っていた、その頭を薄い金髪が覆っている。
服の代わりに古代の剣闘士の様な革鎧の防具を着込んでいた、だが露出部分が大きく防御効果があるとは思えず急所のみを重点的に護っていた。
その大男が巨大な戦鎚をかつぎ悠々と通り過ぎて行く。
この大男にまとわりつく異様な禍々しくこの世の物では無い気配に、商隊長は本能的な恐怖に襲われた。
商隊の馬たちが怯えそれを使用人達が必死になだめている。
先頭の馬車にいる商隊の案内人はこの巨人を刺激しない様に道を譲ったのかもしれない、商隊長は彼の判断を責めようとはもはや思わない。
この化け物に敵意がないなら一刻も早く行って欲しかった、商隊長は切にそれを願って怪物の後ろ姿におののいていた。