逢魔ヶ時の影
「私の拙い唄を最後まで聴いていただきありがとうございます」
その吟遊詩人の閉幕の挨拶が余韻に浸っていたベルの意識を呼びもどす、吟遊詩人は周囲の客に優雅に礼をすると最後にベルとアマンダに向き直りまた深く一礼した。
観客の拍手に送られながら、最後に振り返り一礼するとそのまま去って行く、そして観客も三々五々と散って行った。
「素敵ね、吟遊詩人の唄なんて聴いたことなんて無かった、貴女が大道芸が好きなのもなんとなくわかる気がするわ」
「しまった!!」
ベルは突然叫んだ。
「何がしまったのかしらベルちゃん、ああ、私も試練の冒険をしてみたいわね、貴女が従者になってくれるなら楽しそうなのに」
うっとりとしたアマンダを見てベルはふるえた、思い出したのだアマンダが流浪の英雄譚が大好物だった事を、拳の聖女に憧れるのも彼女が聖霊拳のグランドマスターだからだが、彼女にまつわる放浪伝説と数多くの逸話がアマンダの魂に深く刺さるからだ。
ベルは立ち上がるとアマンダの頭の上に手の平を置いて揺すった、それをペシリとアマンダが手で叩き落とす。
「僕たち何やっていたんだ?唄に聞き惚れていつのまにかこんな時間になってる、あいつらを見張らなきゃならなかったのに…」
ふたたび空を見上げた、オレンジ色が濃くなりかけた陽が輝いていた、日没まであと2時間程だろうか。
アマンダも我に帰って愕然としている。
「なんか唄を聴いた辺りから頭が緩くなってたみたいだ」
「と、とにかく宿に戻りましょベル」
アマンダがベルの背中を叩く、二人は急いで宿へ足を急いだ。
宿に戻った二人はアゼルに説教される事になった。
「ベル嬢はともかくアマンダ様まで…」
「申し訳ありませんつい気が緩んで」
「明日の準備に出かけたお二人が全然戻らなかったので心配しました。お二人をどうこうできる者などまずいませんが」
司祭服を来たままのルディは窓際に立ち外の景色を眺めていた。
「アマンダは結構有名だぞ?自覚が足らなかったな、その夫婦が奴らの仲間かはわからない、そうでないとしてもリネインでアマンダを見たと言う噂がエルニアで広がるかもしれん…とは言えいつまでも秘密にはできないだろうが」
「ごめんルディ」
「申し訳ありませんルディガー様」
「さあ、そろそろ聖霊教会に行こう、サビーナ殿と司祭長殿に明日の準備が整った事を伝えなければ」
ルディに促され全員で聖霊教会に向かう。
リネイン中央広場にほど近い宿屋の一室に、ジンバー商会特別任務班のメンバーが集まっていた。
ローワンはラミラ達の報告に大いに驚いていた。
「思わぬ大きな成果だ、奴らがエルニアの赤毛の悪魔と接触していた事がわかった、密偵説の裏付けになったな」
「そのアマンダ=エステーベはエルニアの貴族だったか?」
口を開いたのは職人風の大男のドミトリーだ。
「調査部の資料ではそうなっているが情報が少なすぎる、我々はコッキーの調査の為にここに来たのだからな」
「明日の朝一番でハイネに報告を送りたい、これは至急伝えなければ、バート絵の方はどうだ?」
「もうすぐ仕上がる」
バートは机の上に完成間際の絵を置く。
北方民族特有の厳しくも豪奢な美貌が紙の中からこちらを見上げている、木炭画の為に色は無いが、まるで彼女の髪が燃え上がるような髪質を感じさせる表現力、まったく見事な肖像画の完成度だ。
「相変わらず上手いね、そっくりだよ」
ラミラは思わず唸った。
「バート解っていると思うが明日の朝までに赤毛の悪魔の絵を三枚作ってくれ」
「ええ、わかっていますよ、やりますよローワンさん」
どこか投げやりにバートが応じる。
「しかし奴らはあの後広場で何時間も遊んでいたのか?ジム」
バートが部屋の隅に立っているジムに話しかけた。
「ええ、そうっす、あの二人呆けたように吟遊詩人の唄に聞き惚れていました、かなりいい男だからじゃあないっすかね?若い女ですし」
「そんな玉じゃないでしょ」
ラミラがジムの感想に苦笑した。
「そういえばあの二人仲が良かったね、親友と言うには歳が離れているね、姉妹の様な感じだった」
「ところでアマンダと言う女が馬と馬車を買ったようだな?修道女と子供をどこかに動かすつもりなのか?」
ドミトリーがジムの報告を検証する。
ラミラはそれに対して顔を横に振った。
「聖霊教会で緘口令が出ているみたい、口が重くて中の様子が全然わからないの、コッキーの事も解らないわ、あの娘入ったきり教会から出て来ない」
「修道女と子供の行き先に関しては興味はあるが、コッキーの調査が我々の任務だ…正直手詰まりだが」
ローワンは判断に悩んでいた、例の四人がリネインに来てしまった上に赤毛の悪魔までもが現れたのだから。
「ローワンさん俺がハイネ自警団の調査員の名目でまた聖霊教会に行ってみますか?」
バートがローワンに聖霊教会の内部の様子を見てくる事を提案した。
「いや、向こうから実力行使に出てこられると打つ手がない、ハイネから新しい命令が出るはずだ、それまで最低限の監視だけに留めるんだ、みんないいな?」
非常に消極的だが、敵が向こうから押しかけて来たのは彼らとしても想定外だったのだ。
「今日の午前、奴らがここに現れた事とバーンとアリアの肖像画をハイネに送った、向こうが判断をくだして明日の朝伝令を出すとして、到着は明日の夕刻になる、我々がエルニアの赤毛の悪魔の情報を送るのは明日の朝だ…ハイネは遠いな」
ローワンは真剣に考え込み初めた。
「しかし、奴ら強すぎるでしょ?手がでませんよ」
ジムが憂鬱そうな顔して泣き言を言った。
「コステロ商会が奴らに対抗できる特殊な人材を呼び集めているようだ、エイベルさんがそれを匂わせていたな、しばらくは耐えるんだ」
ローワンも同感だといいたげな表情でジムをなだめる。
ジムは身を震わせてから肩を竦ませた。
「また化け物が出てくるんですか?テレーゼに来てから常識が壊れてしまいましたよ」
疲れたようなため息をもらして天井を見上げた。
日没間近のリネインの街、その連なる屋根の上に黒い細身の人影が佇んでいた、その銀の長い髪の少女から大人になりかけた硬質な美貌が黄昏の光に良く映える。
彼女の少々野暮ったい服が彼女にまったく似合っていなかった。
大きく深呼吸をすると精霊力の探査の網を大きく広げた、薄く広くもっと広くもっと薄くと。
しだいに街の人々の命の煌きで光の雲海の上にいるような気分になっていく。
ベルはバーレムの森から出て急激に力の使い方を進化させていた。
その意識下から注目すべきでないものを落として行く、バーレムの森と違いテレーゼに出てから人が多すぎて精霊力の探査が使い物にならない場面が増えた、バーレムの森では大型の生き物は光点に、虫や小動物の小さな命の煌きは薄い霧の様に捉えていた、その薄い霧をベルは無意識に不要な物として排除していた。
同じ様に不要な反応を無視できるように調整できるのではないかと思いついたのだ、輝きの源の特性から特定のものだけ拾ったり排除していく、それがベルが開発しようとしている新しい力の使い方だった。
やがて独特の輝きを持った光だけが残っていく。
リネイン聖霊教会に四つ見つかった、一つは誰かすぐにわかるこの独特の力はコッキーだ、残りは教会に属する魔術師だろう。
宿屋のエドナの岩肌から反応が二つ、弱々しい光はアゼルで片方は馴染み深いルディの力だ、アマンダは完全に力を遮断しているにちがいない、普通の人間として除去されていた、ベルはまた背筋が寒くなった。
アマンダの様な危険な存在が探知からもれる危険は深刻だった、アマンダが力を解放するといったいどう見えるのだろうか。
そして上位魔術師のアゼルの反応が弱々しいのは彼の強みでもある。
東のリネイン城から三つの光を感じる事ができた、リネイン伯に仕える魔術師とみて間違いない、そして魔術道具屋がある細い路地や市内にも幾つか反応があった。
コッキーを探っている敵の中に魔術師がいるかもしれない、それがアゼルのアドバイスだ、だから光のある場所をすべて探る事にした。
魔術師は下位であっても攻撃、探査、治療、精霊通信など非常に有益なので敵にいる可能性が高い、それがアゼルの意見だ。
さっそく市街の反応から洗おうとした時の事だった左側から人の視線を感じる。
目を向けると商家の小間使いの少女が屋根裏部屋の窓から屋根の上のベルを見つけて驚いた顔をしていた、こんな時間に屋根の上にいるのだ不審人物以外の何者でもない、ベルが笑顔で手を振ってごまかすと少女もつられて手を振り返してきた。
その瞬間ベルは屋根の上から消えていた、少女は逢魔時の銀の髪の魔性と思ったに違いない。
ベルは市内のめぼしい光の源を一つずつ探っていく、その多くは魔術道具屋だ、なかなか怪しい者は見つからない。
大きな街では無いが10以上の反応があるのでベルは驚いていた、魔術師の才能を持つものは五百人に一人と言われている、全員が才能を開花させるわけではないが、リネインを含めた周辺地域の人口を考えるとこれくらいいても不思議ではないだろう。
しだいに闇が広がるリネインの街の二階建ての屋根の上に立ったべルは、ハイネで遭遇した真紅の化け物を思い出していた、きっと今が逢魔時だからだろう。
そしてあの力を探る事ができるのだろうかとふと思いついた。
あの瘴気の様な力を強く意識する。
再び大きく深呼吸をすると精霊力の探査の網を大きく広げて行った、薄く広くもっと広くと。
だが何も見つからない、やり方が悪いのか本当にいないのか区別がつかないのがもどかしかった。
「あっ、リネインの墓場にあの瘴気の流れが無かった…無いのが当たり前だから気づかなかった、まさかハイネだけ?」
つい独り言を呟く。
ベルはリネインの北に向かうと一気に城壁を乗り越えて墓地に向かった、あっという間もなく墓地に着いてしまう、灯りもなく暗闇に墓地が溶け込んでいく、だがハイネの墓地にあったようなおぼろげな瘴気はまったく存在しなかった、そこは静かに寂しく清浄な空気に包まれている。
「瘴気が無いのか…」
街に駆け戻ると聖霊教会の屋根に飛び移り聖霊教会の礼拝堂の尖塔の上まで飛び上がった、そして聖霊教のシンボルを右手につかむ、シンボルは鋼鉄製の真っ直ぐな棒の周りを螺旋状に金属の細い棒が巻き付いていた、その直ぐな棒の先端にロータスに似た金属の花弁が付いている。
こんな近くで見たことが無かったなと思い返す。
ふたたび意識を広げていくと街の人々の命の煌きの光の海に漂う気分になって行く。
だがその光の海に僅かな何かが紛れていた…
(なんだ?)
今度は意識をそれに集中していく、それは何かの影の様な奇妙なわだかまりだった、中央広場の方向にそれはいた。
そこに誰か人の様な小さな影があるかなり遠い、ベルの視力は精霊力により鷹よりも鋭く強化された、その直後それは消えていた再度意識を巡らせても何も捉える事はできない。
今のは何だったのだろうか?
「ベルさんそこで何をしているのです?」
驚いたベルが下を見ると、コッキーがひょこひょこと礼拝堂の尖塔を這い登ってくるところだった。
「街をみていたんだ」
「街ですか?」
リネインは中央広場に近い小さな繁華街だけ明るい、残りは僅かなランプの照明が窓から漏れているだけで闇に沈み込んでいた、東のリネイン城の城壁が警備の篝火でオレンジ色に照らされている。
やがてコッキーも尖塔の上まで上がってきた。
コッキーの疑問を理解したベルが教えてやった。
「力の探知で街の人の命の光を見ているんだ」
「私も練習していますが近くしかわからないんです、猫はかわいいのですが床下のネズミが見えるんですよ」
コッキーはとても嫌そうな顔をした、それにベルはつい笑ってしまった。
「慣れれば遠くまで見えるようになるよ」
「ベルさん今どんな風に見えているのですか?」
「星の海の上に浮かんでいる見たいだ」
「私にはお空の星しか見えません、ベルさん昼も本当は星がでているそうですね」
「そうかも、たまに星が見える事があるよ…」
「青いお空に星が見えたら良いのにって、そう思います」
ベルはコッキーが何を言いたいのか理解できなかった、ただそれが見えたら綺麗かも知れないと何となく想った。