アリアの肖像
リネイン聖霊教会の司祭長室に先程までの喧騒が嘘の様に静寂が戻っていた、修道女長のカーリンは窓際から宿に帰るフェストランド司祭一行の姿を見送っていた。
そして執務机の前の老いた司祭長を振り返る。
「ミカル様、サビーナ様達の身の置きどころが決まった様で何よりですわ」
「うむ?そうですなカーリン…」
ミカルは少し疲れているのか小さな欠伸をした。
カーリンはそれを微苦笑を浮かべながら古い先輩のミカルを見守っていた、ミカルはカーリンより10歳ほど年長だった。
「ミカル様、お疲れならばお休みになってはいかがかしら、残りの仕事は私が片付けますわ」
ミカルは椅子に深く腰掛けると天井を見上げた。
「そうだコッキーは、あの娘はいつまでここにいるのだろうか?」
「アゼル様がこの街を離れる時に一緒に旅立ちます、何か気になることでもありますかしら?」
「いや、燃える前のリネインを知っている子がどんどん減って行く…」
カーリンはミカルの言葉に胸を突かれた、リネイン大火から10年経った今、あの後に生まれた子供達の方が多くなっていた。
「本当にそうでございますわね」
その時ドアを叩く音がした、カーリンが中に入るように促すと若い修道女が入って来た。
「司祭長様お客さまです、ハイネ評議会の法務委員会のお役人のワーロン=ホプキンソン様だそうです」
「昨日はハイネ警備隊の調査部の方がお見えになっていましたわね、何かしら、ここにご案内差し上げて」
しばらくすると先程の修道女に案内されて、30前後の痩せた背の高い男が執務室に入って来た。
身のこなしが軽快で良く鍛えられている事がうかがい知れるほど俊敏そうだ、刈揃えた黒い短い髪と黒い目と浅黒い肌の色からテレーゼの人間ではない様にも見える、そしてどこか愛嬌のある整った顔つきをしていた。
服装はまずまず上等でいかにも役人風のコートを纏っている、そして手に木製のアタッシュケースを下げていた。
その男はジンバー商会の特別任務班の通称雑用係の長ローワン=アトキンソンその人だった。
若い修道女は一礼し下がると扉を閉めた。
「司祭長様でしょうか?私はハイネ評議会の法務委員会に属するワーロン=ホプキンソンと申す者です」
半分眠りかけていた司祭長だったが、急に生命力を吹き込まれた様に立ち上がり挨拶する。
ワーロンは執務机の上に精緻な構図の身分証明書を置いた、それは上等な羊皮紙と蝋の上にハイネ評議委員会の印が押され、評議会長のサインなどが記述されている。
「私はリネイン聖霊教会司祭長のミカル=ベルマンです、こちらが当教会の修道女長のカーリン=フェルドです、ところで当教会にどんな御用でしょうか?」
「お二人はハイネ通商同盟が発足したのはご存知でしょうか?」
「知っておりますぞ、それがなにか?」
「ハイネ評議会ではハイネ通商同盟の発足に伴い、長年放置されていた周辺地域の土地の所有権や財産権の整理をはじめました、そしてそのラリースランの近くに…ハイネの南にラリースランの街があるのをご存知ですか?」
「はてのう?」
そんな司祭長の様子からミカルに変わりカーリンが応対することにした。
「はい名前だけは存じておりますわワーロン様、それが?」
「そのラリースランの近くに、30年以上前の大戦で滅んだご領主がおりました、お名前を明かすことはできませんが、その相続問題の整理の過程でリネインの住民台帳の中からこの家に使えていた騎士の名前が偶然見つかりました、尊い身分のお方が関わる問題なので私が出向くことになったのです」
「ここに来ると言うことは、まさか!?その騎士の方はバーンヴィレム=ヴァン=フローテンさんではありませんか?」
「ご明察ですカーリン様」
「なぜ今ごろになって?」
「相続問題の整理が始まった事と、この孤児院に所属するコッキー=フローテンが関係した事件が起きた事で表に出てきた様です、騎士の名前は目立ちますのでそこから照会されたのでしょう、私は犯罪捜査が担当ではないので詳しい事情はわかりかねますが」
その言葉でカーリンの顔色が変わった。
「コッキー=フローテンはハイネに向かったあと消息不明になっておりますの」
「カーリン様私は犯罪捜査が目的ではありません、コッキー=フローテンの母アリア=フローテンはバーンヴィレム殿の血縁者でしょうか?」
「いいえ、バーンさんは娘ではないと明言されておりました…まさかその滅んだお家の縁者なのでしょうか?」
「はいアリア嬢はその貴族の相続人のお一人の可能性が高い、名前を変えておられる可能性があります」
「まさかあの娘に相続権があると?」
「相続人であったとしてもアリア嬢にはありましたが、コッキー=フローテンには貴族としての権利はありません、それでも財産の一部を相続する権利があります、もっともまともな財産は殆ど残っていませんが」
ワーロンはカーリンが言葉を理解するのを待つように間を保つ。
「ところでコッキー=フローテンは何かアリア嬢から形見の様な物を受け取っているでしょうか?」
カーリンの顔色が更に変わる、あの焼け焦げたラビスラズリのペンダントを思い浮かべた、あれはかなり高価な宝石で一庶民が持てるような物ではない。
「そうですね、たとえば美しい黄金のトランペットです」
カーリンはワーロンの言葉に意表を突かれて戸惑う、てっきりあのペンダントの事だと思ったからだ。
「トランペットですか?見たことはありませんわ、バーン様もアリアもその様な物は持っていませんでした」
小さく顔を横に振ると正直にカーリンはありのまま答えた。
「実は、滅びた貴族の遠縁の筆頭相続人が権利の回復を求めておりまして、残念ながら今更領主権の回復は不可能ですが、ハイネ評議会は領主権の正式な放棄と引き換えに財産の一部の回復を認める事になったのです」
司祭長はすでに執務机の前で船を漕いでいた。
「そういうことでしたか…財産の回収の為に」
ワーロンはそれにうなずいた。
「その為には彼女の身元を正しく知る必要があるのです、私はその手がかりを探しています、協力をお願いしたいカーリン様」
だがカーリンは目の前の男を信用すべきか懊悩していた、疑うにしろ信じるにしろ根拠が薄い、フェストランド司祭やサビーナ達が警告した様にハイネの犯罪組織に関わる者かも知れなかった。
そしてカーリンの疑いは当たっていたのだ。
正直な話カーリンにもアリアの身元を知りたい気持ちがある、だがそれが生きているコッキーを幸せにするとは思えなかった、滅んだ家ならば滅ばした家があるはずだ、カーリンはわずかに身を震わせた。
あのリネインの大火で焼かれた傷ついた宝石を思い出す。
(事実であろうと嘘であろうと、あれはアリアの形見です、あの娘以外には譲りませんわ)
ローワン=アトキンソンが去った後、カーリンは決断を下していた。
「コッキーに話がありますわ」
カーリンは司祭長の執務机の上に有る呼び出し用のハンドべルを鳴らした。
リネインの宿屋『エドナの岩肌』の下階の酒場に周囲から浮きまくったの四人の男女が饗宴を楽しんでいた。
周囲の宿泊客の注目を浴びていたが、彼らがちょっかい出すにはあまりにも異様過ぎる集団だった、そのせいか様子を見るような無遠慮な視線を集めていた。
「こうやってこの顔で集まるなんて何年ぶりかしら?」
アマンダは既に麦酒をあおり顔が僅かに赤く染まっている、麦酒は弱い酒で水の質が悪い地方では水代わりに飲まれることもある酒だ、大して飲んでもいないのにアマンダの顔が赤くなりはじめている。
ベルはそれが気になって酔っていられる気分では無かった、アマンダは酒があまり強くないし飲ませすぎると悪酔いする。
「アマンダお前には苦労をかける、さあ飲んでくれ」
ルディがテーブル上の麦酒の木の樽を手に取ってアマンダの酒盃に麦酒を注ぎ始めた、ベルはすかさずテーブルの下でルディの足を蹴った。
ルディは何だと言った顔でベルを見たがそのままアマンダの酒盃に麦酒を注いでしまった、ベルはまたテーブルの下でルディの足を強く蹴った。
「ひさしぶりではないか、皆で楽しんで何が悪いんだ?」
ベルは内心で楽しいのはお前だけだろ、いつも僕やカルメラが被害者じゃないかと心の中で罵倒した、そういえばベルの母のララベルもアマンダを酔わせて遊ぶのが好きだった。
それを思い出して心の中でエドナ山塊を駆け上がる雲のように暗雲が立ち昇り始めた、アゼルに目を走らせると彼も困惑しているのがまるわかりだった。
「まあ美味しいわね」
アマンダは見事な飲みっぷりで麦酒を一気に飲み干してしまった。
「ひっ!!」
「ベルどうした?お前も呑むが良い」
「何が呑むが良いだよ?成人の義からまだ三年経ってないだろ?」
ふとルディの酒盃と口から強い酒精の匂いが漂って来る、鼻の良いベルをごまかすことはできない。
「ああ!?ルディ蒸留酒飲んでいるな?」
いつ注文したのだろうかベルはテーブルの上に何時の間に置かれた小さな木の樽に目をやった。
「いいじゃないか、これぞ命の水!」
ルディは逆にいくら飲んでも表に出にくい、見えにくい分アマンダよりたちが悪い。
ベルは慌てて店内を見渡す、すると奥の酒房のカウンター席が目に入る、先程席を発った時にそこで直接買ったに違いない。
「チッ!!」
そこに店員が酒の肴の塩漬け肉を持って来た、ルディに言わせると塩味が強いがそれが酒に合うらしい。
ベルには塩っぽいだけで肉の味が楽しめないのが不満だった、ちゃんと調理すれば美味しいのに、それをルディはお子様だと以前笑ったものだ。
それを思い出してさらにベルの心の暗雲が成長した。
「ああ、全部放り出して世界中を温泉巡りの旅をしたいわ…」
アマンダがふと愚痴をこぼす、ルディが再び麦酒で彼女の酒盃を満たしてやる。
それをアマンダがまた一気に飲み干してしまった。
「本当にアマンダは温泉が好きなんだね」
「温泉は異界が近い場所なの、大地と火と水の力が合わさり溢れる場所なのよ、前も教えたでしょまったくもう、温泉が聖域なのは伊達ではないのよ」
「知っているけど…ねえ、前から聞きたかったけど、アマンダも酔っているようだし聞いていいかな?」
アマンダは早く言いなさいよといいたげな少し妖しくなった目つきでベルを睨む。
「ねえ破魔の聖女様はなぜ裸なの?アマンダが尊敬する聖女様も裸の聖女様ってよばれているんでしょ?」
「おお、俺も興味があったのだ、だがなかなか人に聞きにくくてな」
「そうねー色々説があるけど、有力なのがパルティア12神教の女神ディケーネア様の巫女が起源という説よ…興味ある?ねえねえ聞きたい?」
「アマンダ様酔ってますね、そろそろ控えた方が」
アゼルが心配げにアマンダに忠告した。
「なによ?私だって酔って何もかも忘れたい時もあるのよ!?なぜ私が酔っちゃだめなのよ、酷い…」
ルディがアマンダの背中を軽く叩いてアマンダの酒盃に麦酒を注いでやった。
「アマンダこれを飲んでくれ俺からの気持ちだ」
「ルディガー様、お気持ちありがたく存じますわ、ううっ」
「ねえアマンダ、そのディケーネア様の続きをはやく」
ベルも何時の間にか用意されていた麦酒を無意識に飲み干していた。
「ええ教えて上げるわ、ベルちゃんその替わりに私の計画を手伝うのよ?」
ベルちゃん呼ばわりは危険な兆候なのだベルは少し焦りはじめた。
「なにそれ、とりあえず先を」
「ディケーネア様は美と闘いを司る女神様なの、闘いとは戦争ではないわ、個の闘いを司っているのよ、古代の剣闘士や拳闘士がお守りにしていた神様よ、そして女神ディケーネアの神殿ではレスリングを神前競技として女神に捧げていたの、その為に専門の戦士を育成していた、勝敗も重要だけどその鍛えられた肉体の美しさも神への捧げ物だったの、一握りの貴人だけが観戦を許されたと言われているわ」
「もしやそれが聖霊拳の起源なのか?破魔の聖人の起源なのか」
アマンダはうなずいた。
破魔の聖人とは聖霊教の礼拝堂の入り口を守る男女の聖人像の事だ、特に破魔の聖女は教会公認のエロスとして芸術家達の格好の題材になっている。
「ルディガー様それが一番有力な説ですわ、私はいつかこの神前競技を再現して見たいと思いますの、今では西方世界でも廃れてしまったらしくて」
「あのさ、それがアマンダの計画じゃないよね?昔のレスリングって裸になってオリーブ油塗って闘うんでしょ?」
ベルは少し逃げ腰になっていた。
「よく知っているわねベル、その通りよ!!」
真っ赤な顔をしたアマンダはベルに手を差し伸ばしてきた。
「いやアマンダから教わったんだけど?再現ならカルメラでやればいいじゃないか」
捕まるまいとベルは椅子から腰を浮かしかける。
「だめよ、あの娘は普通の女の娘なのよ」
その一瞬アマンダに寂しそうな影が流れたが酔っぱらい達は気づかなかった。
「いやだよ、なんでアマンダと裸で取っ組み合いしなきゃならないんだ」
「オリーブ油塗っているから気持ちいいわよ…うふふ」
「何いってんだよ、この変態おなら女!」
「ああん?今なんて言った!?このおねしょおもらし娘が!!」
アマンダが中腰に立ち上がった、精霊力が放出されるがかなり乱れている、ベルも対抗して立ち上がりアマンダと鼻を突き合わせた。
「まあまあ二人共喧嘩なら外でやりなさい」
ルディは鷹揚な態度で笑いながら酒場の出口を指差した。
「ルディガー様止めてください!!」
アゼルの悲鳴じみた声がルディをたしなめる、リネインの夜はこうして更けていった。
そんな酒場から離れたリネインの西門近くの宿の一室、聖霊教会から帰って来た雑用係の長ローワン=アトキンソンが訪れていた。
その部屋は同じ雑用係のバートの作業場を兼ねていたのでバートが一人で借りていたのだ。
「バートどうだった?」
それに冴えない容姿の若い男が応える。
「ローワンさん、10年以上も前に死んだ女です、それに戦火の後なので生き残りを探すのも大変でしたよ、そこでコッキーを25歳程にした絵を描いてそれを修正していく方法をとりました、それがこの絵です、コッキーは母親に似ているらしい」
バートは机の上に何枚かの絵を広げて行く。
一枚目はハイネで作成したコッキーの似顔絵よりも生き生きとした彼女の姿が描かれている、前の絵は死霊に操られた彼女を目撃したジムの証言から作成した似顔絵で情報不足だった、これはこの街で新しく修正し作り直された絵だと言う、それは素晴らしい出来だったローワンの背筋が寒くなるほどに。
二枚目はそのコッキーを25歳ほどにした感じの女性の肖像画だった、ローワンはこの絵を見せられた街の者はさぞかし驚いただろうと苦笑する。
そして次の絵こそが、この絵を叩き台にしてアリアを知る僅かな人々の記憶から作り上げた絵だと言う。
絵の中から非常に美しい女性がこちらを見上げていた。
たしかにコッキーに良く似ていた、絵の中に唇がコッキーより薄く細面な非常に美しい女性がいた、長い髪とどこか意思と気品すら感じさせる目元と眉の線、その気品や意思の力はコッキーには無いものだった。
「ローワンさんこちらがバーンヴィレムの似顔絵ですが、こちらは更に苦労しました」
最後にバートは絵を一枚取りだす、それは40代程に見える男の絵だった、端整で気品があるがどこか疲れた容姿の中年の紳士の顔だった。
「紋章や家紋が残っていれば身元を絞れるのだがな、名前も本名とは限らん」
ローワンが感慨深くその男の似顔絵を見詰めていた。
「この三枚の絵の複製を2セット作り1セットをハイネに送りたい、大変だと思うが明日の朝までにやってくれ…明日の午前は休んでくれ」
「ええ、わかりましたよローワンさん」
うんざりした顔でバートは請け負った。
「まてよ明日聖霊教会に行ってこの絵の反応を見よう、それで精度が確認できる」
ローワンは思索に入り込み無言になる。