破滅の光
夕闇迫る森の中を男が一人さまよっていた、日も既に没して空には星が瞬き始めている。
「くそ村が見えねえ!」
テオ=ブルースは吐き捨てた、街道で馬が倒れた後で地図にある間道を進んだはずだが道の荒廃が想定以上に酷くいつのまにか道から外れてしまっていたのだ。
「ここで休むか…」
暗闇の中を無闇に歩き回るのは愚かな事だ、無理せずここで一夜を過ごし朝になったら東に向かおうと決意したその時、南西の方角に僅かに灯が見えた様な気がした、慌ててしばらくその方向に進むと木々の隙間から灯が見えてくる、オレンジや赤い光が幾つも灯っていてそれは間違いなく街の灯だった。
「行き過ぎたのか?助かったぞ」
手元の地図では小さな村だが今はもっと大きな街に発展したのだろうか、テオは森の木々の隙間から見える温かい街の光に導かれる様に進む、あの光の下には温かい料理と酒とベッドが待っている。
森の下草を踏みしめ小枝をかき分けて道なき道を進む、街の光はテオを導く様に暖かく輝いていた、まるでテオの明るい未来を告げるかの様にその光は優しく輝いていた。
テオの体に活力がよみがえり更に足を前に進ませる。
街の灯が昔の記憶を刺激した。
思えば細工職人として一人前になり、手先の器用さを生かして錠前職人や時計職人としての技も磨いた。
ほんのつまらない事から合鍵を作る仕事に手を出し、やがて錠前破りから故郷を追われ、あちこちを渡り歩いてつまらない悪事から大きな悪事に加担した。
ここ二年ほどはピッポ達と組んで退屈しない旅を送りついにテレーゼに流れてきた。
街の明かりが遠く捨ててきた故郷を思い出させたのだ。
『テレーゼは流れ者が行き着く先、生きて出たものはいない』
そんな諺を思い出し寒気を感じる。
次第に森の木々がまばらになり視界がひらけて行く、いよいよ街も目の前に近づいてきた。
足元が柔らかくなり水の音がする、足元を見ると泥濘と僅かに水が溜まっていた、ふと周囲が気になった。
ふりむくと背後の森の木々の上から赤い小さな月が光を放っていた、テオは混乱し驚愕し訝しんだ。
だが最近日没後に青い月が登るのを思い出した、大気のせいで赤く見えるだけだと自分に言い聞かせると胸をなでおろす、それにしても不吉な色だ。
とにかく街に進もうと前を見た瞬間今度こそ何も考える事ができなくなった。
あの暖かな街の光がすべて消えていた、夢か幻だろうか?
だが良く見ると夕闇の薄暗い空を背景に石造りの建物の影が連なっている、その数は多くかなり大きな街の影だ、だが先程までの街の灯はまったく存在しない。
死の街のように灯はすべて絶えていた。
テオの背筋に寒いものが這い登る。
そして街の左側の丘の上に巨大な城郭の影が聳え立っていた。
「ド・ルージュの廃墟!?」
テオは自分がいつの間にか悪名高きド・ルージュの廃墟に到達していた事を知った。
(あの街の灯はなんだったんだ?)
あの暖かな人の街の灯は幻だったのか?
テオはこの廃墟におびき寄せられたのではないかと迷信じみた疑念に震えた、ここから早く逃げるべきだと直感が訴えている。
(街道を探す?いや天の狼の目を目印にとりあえず東に進もう)
天の狼の目を目印に東に進むと決める、東進してどこかで南下すればマドニエ=ド・ルージュ街道に出るはずだ。
決断をしたら行動は早かった、素早く街から離れる方向に小走りで動きはじめる。
赤く染まった天の狼の目を目印に東に進むのだ、これならば方角を誤る事はない。
その時またテオの道具箱の中で小さな音がした、その不可解な音に初めて気がついたがそれを気にしている余裕は今のテオにはなかった。
木々の隙間から見える小さな月を目印にひたすら東を目指した。
どのくらい夜の森を進んだだろうか?始めは赤く見えていた月も高く登るに連れ冷たい青白い輝きを取り戻していく。
その見慣れた輝きにすこしずつ不安が消えていった、不運が重なったが森で一泊すれば明日にはマドニエに出るはずだ、そこで旅の準備を改めて整えオルビアを目指せば良い。
体力を温存するため少し歩調を緩める。
その時突然足元が柔らかくなった、靴が僅かに水を跳ねる音がする、森の泉か沼地にぶつかったのだろうか?
青い月は光が弱く遠くまで見通せない、白い月は新月を過ぎたばかりですでに地平に沈んでいる。
それでも暗い夜の森の先の前方が大きく開けている様に感じられた。
テオは慎重に前に進んで行く。
進路の先から蒼き天の狼の目が全てをしめし降ろしていた。
やがて彼は足を止めた。
前方が広大な湿地か沼地になっていた、真っ直ぐ進むのは愚かなので迂回する、もと来た方向に戻リ始める。
その時暗闇の中に動く影を見た様な気がして足を止める、動きを止めたらまったく静かになった。
だが何も異常は無い、気のせいだと思いまた進む、その時遠くから人が話すような声が聞こえた、それを訝しんだテオは足をまた止めた。
だがまったく何も聞こえなかった、また進もうとすると、誰かが小声で会話をしている様な音が聞こえてくる、テオの背筋に悪寒が走った。
また別の声が別の方向から聞こえてきた、ささやかな声なので会話の内容までは聞き取れない。
テオはいそいで小走りに走り始めた、靴が泥水を跳ねる。
森の端まで戻るとこんどは北に向かう、不気味な沼を迂回する為だ、だが目の前の森の先が大きな影に遮られていた。
その影はまるで丘か山のようだ、テオは足を止めたこの付近に丘や山があっただろうか?
そしてすぐ異変に気がつく、周囲の木々が枯れ果てて骨のように枝を広げている、そこは不気味なまでに荒廃した死の森だった。
その丘の上を仰ぎ見る、丘の上に何か不自然な影が連なっていた、テオの背中に冷や汗が流れ下り鼓動が早くなる、それは聳え立つ巨大な城郭の影だった、崩れかけた尖塔に石垣の荒廃の爪痕が荒々しい胸壁。
ド・ルージュ要塞!?
そのテオの叫びはもはや声にならなかった。
なぜ元いた場所に戻っているのかわからない、蒼い月を探すが空はいつの間にか雲が低く立ち込めて月も星も見えない、その雲は薄っすらと上から青く照らし出され、その雲を背景に城の輪郭がかろうじて映えている。
その時の事だ要塞の中央部の一角で薄暗い緑の光が生じた。
「なんだあの光は?」
弱々しくも淡く熱を感じさせない緑光に巨大な大城郭の石壁が照らし出されていた。
それは松明や焚き火の光からかけ離れた不自然な光だった。
テオの直感が危機を告げている、速やかにここから立ち去らなければならないと、だがはたして逃げる事ができるのだろうか?
しだいに絶望が広がっていくがそれでも彼は動いた。
森の縁に沿って南と思われる方向に走った、テオの頭には北にド・ルージュの城下町があるはずだが、方角感覚に自信を無くしていた、焦る気持ちを抑え小走りに走りながら体力の温存をはかる。
左手の沼の方から水をかき分ける無数の音が聞こえてくる、群衆のざわめきまでも聞こえて来た。
沼の上には薄い霧が湧き出していた、湿った空気が夜になり冷えたのか、沼から湧く瘴気なのかは定かではない、視界に蠢く影が見え隠れする、叫びたい気持ちを押さえつけそれでも冷静を保った。
その時の事だ何かが走るテオの足首をつかむ、そのまま湿地に転んで泥に塗れた、さすがのテオも我慢ができずに叫ぶ。
背嚢が傷みかけていたのか肩掛けのところから破れ、目の前の泥の上に投げ出され中身をあたりに撒き散らす。
足首に感じた感触は既に消えていた、だが目をこらすとそこに泥で汚れた手形の跡があった、テオはそれに戦慄し恐怖に慄いた、だがかろうじて呼吸を整え冷静さを取り戻そうとつとめた。
慌てて背嚢の中身を集めようとした時、トランペットの音がどこからとも無く聞こえて来る、テオは思わず工具箱から後ろずさりで離れようとした。
テオは何が起きていたか悟り始めていた、連続する不運と異常事態は『神の器』に手を出した呪いだと。
(くそ、もうこんな物いらねえっ!!)
泥の上の工具箱から離れようと後ろずさる。
そのトランペットの音は曲を成していた、そしてその曲にテオは聞き覚えがある、この音楽はテレーゼを讃える歌だ、国歌の様にテレーゼの人々に昔から親しまれてきた曲だ、酒場でたまに歌われるのでテオも良く知っていた。
トランペットの音はやがて古風で素朴でもっと太い落ち着いた音に変化していく、それと共にまるで地から湧くような無数の人々の声が重なりゆったりと歌が流れ始めた。
だがその歌には熱も力も無かった、市井の人々の生活の喜びも悲しみも何もない空疎な歌だ。
首の後ろの毛が逆立ち全身に悪寒が走る、背後から危機が迫っていると直感が警告していた。
理性が背後を確認すべきと主張している、だが本能は何も考えず全力で走れと訴えていた、わずかに躊躇したが背後を確認してから対処しようと思い切って背後を振り返ってしまう。
もはや言葉にならなかった、目から入ってくる光景が理解を越えている。
緑色に光り輝く巨大な半透明な髑髏が宙を浮きながらこちらに向かってくる、その周囲に数体の一回り小さな髑髏が周囲を彷徨いながら巨大な髑髏と共に迫りくる、それを取り囲む様に無数の淡く緑に輝く光球が追従していた。
テオの目は限界まで見開かれた、逃げようとするが体が麻痺した様に動かない。
その巨大な光の群れは凄まじい速さで向かってくる、体が動いたところで逃げられる速さではない。
目をそらす事もできずにそれを見つめることしかできない。
そして総てを理解した、髑髏を取り囲む光球の正体を知ってしまった、それは知らない方が良かったし知る必要も無い事だった。
それを知る事は死を意味しているのだから。
それは数対の人の手首だった、淡い光に包まれながら何かを掴もうとするかの様に指をうごめかしながら宙を飛びかっていた。
手首だけではなかった、後ろから無数の人体の一部が淡い緑の光に包まれながらこちらに殺到してくる。
ただ絶望だけが残されていた。
目の前に巨大な髑髏が迫りすべてが緑の光に包まれた。