魔界と幽界
セナ村の南東の方角の森の中に小さな古い炭焼小屋がある、その忘れられた小屋は長い間使われた様子が無かった、その無人のはずの小屋の朽ちかけた扉がコトリと鳴る。
「アゼルさん!誰かが近づいてきます!」
それは少し鼻にかかった癖のある若い女性の声だ。
「若旦那様でしょうか?」
「あっルディさんです!戻ってきました!」
焦りと無為に耐えていたコッキーからは喜びが隠せない、アゼルもあからさまに気を緩めた、敵が再び襲い来る危険の中でルディの帰りは頼もしい。
やがて茂みをかき分け踏みしめる音と共にルディが小屋の前に現れる、彼は大きな籠を下げていた。
「戻ったぞ、いろいろ相談事があって戻るのが遅れた」
「若旦那様サビーナさんの様子はどうでした?」
「気落ちされていた、聖霊教会が無くなってしまったのだから無理もない」
「しかしいつまでもあそこにいる事はできませんね」
「まあ話の前に腹ごしらえしてくれ」
ルディは大きな布を草地の上に広げるとその上に籠を置く、中には薄いパンに具を挟んだテレーゼの郷土料理が入っている、ファンニと老婦人達が用意してくれたものだ。
そして粗末な木製の水筒を側に置いた。
「ありがとうございます若旦那様」
「うう、昨日から食べていなかったのですよ」
コッキーは食事に襲い掛かるとむしゃぶりついた。
「食べながらでいい」
二人が少し落ち着くのを見はらかってルディが本題に入る。
「さてこれはベルの提案なんだが、コッキーを頼ってリネインの聖霊教会にサビーナ達を避難させるのはどうか?」
「それ私も賛成なのです、リネインに知っている人が沢山います、子供七人は多いですが、ダメならリネインで家を借りることだってできます」
パンを齧りながらコッキーが賛成した。
「若旦那さま私も賛成です、ハイネから一刻も早く彼らを逃がすべきです」
「ベルと俺は賛成だ、我らがサビーナ殿を守るどころか、このままでは巻き添えにしかねないからな、アアゼルが賛成なら後はサビーナ殿を説得するだけだ」
「今日中に馬車を借りる手配をする、そういう業者があるらしい、明日中にもサビーナ殿にはリネインに向かってもらう、我々は馬車を遠くから護衛する」
しばらくルディは二人の食事を見守っていた。
「さてアゼルとそしてコッキーに聞きたい事がある」
コッキーの顔色が急激に悪くなり、目をキロキロさせ始めた。
「あまりにも聞きたいことが多すぎてな、一つずつ話をして行こう、まずアゼルも見たはずだ昨日のベルの異変を」
「忘れられません、ベル嬢から巨大な精霊力を感じました、そして何かが彼女の肉体と精神に干渉しようとしていましたね」
「俺はあのベルを見たことがあるのだ」
「なんですって!!」
「俺とベルが二年前に黄昏の世界に落ちた時にな、ベルがあのように変わった」
深淵の森を生き生きと駆け抜けるベルの姿がルディの脳裏に蘇る、白い裸体を泥と苔と草まみれにして彼女は獣のように駆けていた。
「ベルさん前にも一度あの変な世界に行った事があると言っていました」
「若旦那様が言っていた深い暗い大森林の話ですね、思い出しました」
ルディはパンに齧り付くコッキーに目をやると決意した。
「お前と子供達を救出する前の事だ、聖霊教会で吸血鬼と戦ったと話しただろう、その時に…」
ルディはコッキーの目を見つめる、彼の瞳は今話しても良いかと彼女に問いかけていた。
「言っちゃって下さい、全然気にしませんよ、コッキーは平気なのです」
ルディの目が見開かれた、そしてコッキーの態度に僅かに不審な何かを感じたが振り払った、ベルは昨日の異変にあまり触れたく無い様子だった、二人のその差に当惑する。
「コッキーに大きな精霊力が集まり彼女の体が変異した、そして白い吸血鬼の子供を追い詰めキノコの様な何かに変えた、俺達はあの真紅の化け物との戦いで見逃してしまったがな」
ルディはコッキーの反応を観察してから更に話をすすめる。
「いったいあの時何が起きたのか?教えて欲しい」
コッキーは少し迷った様子だが口を開いた。
「ベルさんと変な世界から帰って来てから力がやってくる門の様なものを感じる様になったのですよ、その向こうは知らない世界なのです、その向こうから細い光の糸がやってくるのです」
「光の糸だと?」
「それを引き寄せると、凄くて素晴らしいモノがやってくるのです、それが来ればなんだってできるのですよ!」
コッキーは次第に興奮し頬を紅潮させて行く、そして彼女が発する精霊力が増大し始めた。
「コッキー!?落ち着いてくれ」
嫌な予感がしたルディは慌ててコッキーをなだめる。
「…大丈夫です、必要な時に呼べなくなったら大変なのです、でもなぜああなるのか私にも全然わからないのです」
「彼女もベル嬢と似た事になったのですね」
「ああそうだ、何かわかるかアゼル?」
「どこから話しましょうかね」
アゼルはしばらく悩んでいる様子だった。
「幽界からの帰還者に関する仮説に、大精霊との契約により眷属となる事により超常の力を授かるという仮説があります、魔術師でも聖霊拳の使い手でも無いのに、精霊力を自在に使う者がいたとされるからです」
「仮説なのかアゼル」
「事例が少ないのもそうですが、非常に政治的に著名な人物や聖霊教の大聖者などが該当しますので、真実が隠されてしまうのですよ」
「異界を旅して還ってくるというのは英雄伝の定番だったな」
ルディは神隠し伝説を持った過去の覇者や偉人の名を頭の中で並べていた。
「その仮説の一つですが、幽界からの帰還者は自らの肉体を依代に大精霊を召喚し凄まじい力を引き出せると言う説があるのです、伝説に出てくる奇跡とはそういった現象だと主張する一派がいます、私はベル嬢の変異を見てその仮説を思い出しました」
「それが肉体が変異する原因なのか、召喚とは精霊召喚と同じなのか?」
ルディはベル以上に人間離れして変容したコッキーの姿を思い出していた、嘲る様な恐ろしい笑みを浮かべたコッキーの姿を思い出す。
「殿下は精霊召喚術をご存知だと思いますが、幽界の精霊を現実界に召喚させる術は術者の命を削る程の犠牲を求められます。
この分野は非常に不人気で精霊召喚術士は非常に数が少ない、高位の精霊召喚術士ともなれば貴族並みの待遇で召し抱えられます」
アゼルは理解できたのか不安そうにコッキーを見ている、だがおとなしく聞いているようなので話を先に進める事にしたようだ。
「精霊召喚は物質界における仮初の肉体として依代を必要とします、上位の精霊になる程この依代が極めて貴重な物質であったり特殊な触媒を必要とする場合が多いのです、それが精霊召喚をより難しくしています、上位の精霊召喚ともなれば大組織の支援が絶対に必要になります。
グリンプフィエルの猟犬ならば火の精霊力を封じた結晶二つ、そして炎の精霊力を蓄える事ができる大きな紫水晶、これを揃えるのが最大の難関です、これは魔術と錬金術で生成する魔術道具に近いものです、いずれにしろ個人で用意できる代物ではありません、精霊召喚には時間と費用がかかるのです、普通はですが」
「ベルとコッキーは自らを依代に大精霊を召喚したと言うのか?」
「ほぼそれに近いと考えています、ですがまだ力の一部を借りているだけに見えました、そして私は死霊術に関する常識を総て疑うべきだと考えを改めました」
「どういう事だアゼル?」
「死霊術はこの世を彷徨う死霊を利用してそれを使役すると言われていましたが、それを根本的に変える必要があると、結論を言うと精霊術が幽界から力を導き術を駆使するように、死霊術は魔界から力を借りているのではと考えるにいたりました、精霊力とは異質な瘴気の発動、召喚精霊を使役する術があれほど容易に駆使できる、そしてバルログの名前で気が付きました」
「魔界だと?あの黒い小人共が魔界に触れていたような記憶があるぞ、神話では幽界と魔界の神々は激しく対立していたな」
「その通りです殿下」
ルディもコッキーも呆然として言葉が出ない、魔界は魔術師達には界の一つとして知られていたが、多くの人々にとって罪人が死後送り込まれる牢獄のイメージなのだ。
「アゼルよ大精霊の目的はそれか?」
アゼルはそれに頷いた。
「若旦那様とベル嬢は『暁の女神アグライア』コッキーはテレーゼの土地女神『大地母神メンヤ』が関係していると見て間違いないでしょう」
「俺もベルも黄昏の世界から還ってきてから話してな、その辺だろうと予想はしていた」
「お二人共メンヤ像を見たことがあると思いますが、女神が『大地のホルン』を持っているのをご存知だと思います」
「テレーゼの子供なら知っているのです、私もなんとなく関係有ると思ってました、ラッパですから」
コッキーの答えにまあそうだろうとルディもアゼルも頷いた。
「あのラッパはまだ良くわからないのですよ、不思議な力が無いと音がならないのです、始めは音を鳴らせるだけで楽しかったのですが、光の糸を引くと凄い事ができるのです、魔術を壊せるんですよ、でもテヘペロさんに神器だとばれてしまいました、そうだアゼルさんラッパは帰ってくるのでしょうか?」
「それは私には断言できませんが、盗人の思い通りになる器ではありません」
コッキーの表情は微妙なもので疑っているのは明らかだった。
「さて話を戻しますよ、大精霊の目的ですがゲーラで降臨したメンヤやアマリア様の話から、セザール=バシュレの作り出した死の結界の破壊が目的ではないでしょうか?コッキーのトランペットが神の器ならば、結界の破壊と関係があるのもわかります」
「魂の運行に関わるテレーゼの土地女神の役割から考えれば納得できるが、ならば俺とベルは何なのだ?」
ルディガーはまだ全ての疑問が解消していなかった、まだ暁の女神アグライアの目的が見えていない。
「わかりません、暁の女神アグライアは、エスタニア東方に睨みを効かせる東の守護神の性質をもっています、それと関係があるのかもしれませんが、これ以上はわかりかねます」
「サビーナ達をハイネから避難させてから本格的に奴らと戦う、もともと義母上の精霊宣託の中身を知りたいだけだったが、逃げても一生奴らの影に怯えて生きる事になる、戦い勝ち進めば真実に近づくことができるさ」
そのルディの強引な理論にアゼルもコッキーも呆れるしかなかったが、そうするしか無いとも理解していた。
「ルディさん本当に商人の若旦那様なのです?」
少し上目使いでコッキーがルディに顔を寄せてくる、ルディとアゼルは気まずそうに顔を見合わせた。
「エルニア人は荒々しい処があるのだ、商人であってもな」
ルディは莞爾と笑ったがどこか胡散臭い笑顔だ、コッキーは何か食べながらぶつぶつと呟いていた。
だがとっさに精霊力で強化したルディの耳はその呟きを見逃さない。
『ベルさんもルディさんも、商人の旦那様でも小間使でもありませんよね』
二人が食事を食べ終えた頃、ルディがベルからの用事を思い出す。
「忘れていた、ベルが買い出しに出るので、これに必要な物を書き出してくれ」
ルディは書き込まれた古い羊皮紙を取り出して裏返した、裏側にはまだ書き込む余白があった。
「そうですね、着るものから触媒まで必要な物を書き出します、ですが私は全財産を失いました」
「ルディさん私も全部盗られましたよ、服もボロボロなのです」
「ベルの帝国金貨の残りは12枚だ、しばらくは困らない」
ルディは懐から筆記用具を取り出す。
「これはサビーナ殿から借りてきたものだ丁寧に使ってくれ、おれはこの後一度向こうに戻る、ベルから物を受け取ってからここに戻ってくる、面倒だがサビーナ殿の処にも護衛が必要なのだ誰かがいなければならん」
「若旦那様、お手数をおかけします」
そう言いながらアゼルは必要な物を容赦無く書き込み始めた、それはローブから触媒から精霊通信盤まで多岐にわたる。
それを覗き見ていたコッキーが呆れたようにつぶやいた。
「男の人の下着までベルさんに買わせるのですか?でもしょうがないですよね…私もサイズを知られたくないのです」
「ベルはなおしたドレスを受け取りにハイネに行きたいそうだ、それにベルの金だからな」
「旦那様、しばらくはベル嬢のお金に頼る事になりそうですね」
「ベルの尻に敷かれるのはまずいな」
ルディは苦笑いをしたがどこかそれを楽しんでいる風情があった。