小さな旅立ち
エルニア公国の南に広大な湖沼地帯が広がっている、エドナ山塊から流れ出る水が湖と沼と湿原を生み、東方絶海にいたる広大な大湿原を作り出していた。
これが悪名高きクラビエ湖沼地帯と呼ばれる無主の土地だ、大湿原の南にクライルズ王国があるが、この地域は両国の緩衝地帯として協定が結ばれていた。
その湖沼地帯には自由開拓民の村が点在している、自由とは聞こえが良いがそれは庇護してくれる者がいない事を意味する、この地域の村は柵で村を囲い武装し半要塞化していた。
だがクラビエ湖沼地帯の北西部のエドナ山塊に近い地域はクラスタやエステーベが密かに支援して開いた村々がある、それらはテレーゼからの難民を使って開拓させた土地だ、クラスタやエステーベの領地はバーレムの森に接しており、運良くバーレムの森を抜けた難民が最初にたどり着く場所にあった。
今日もまたクラビエ湖沼地帯に日が登り始める、晴天だが雲が多く湿度が高いせいか靄が一面にかかり爽やかな朝とは言い難い、その開拓村の畑の間を縫うように伸びる狭い道を二頭の驢馬がポクポクと進んでいく。
先頭の驢馬の上で小柄な女性が横座りで揺られていた、彼女は上等な旅行ドレスと日よけ用のツバ広の帽子を頭に乗せて、その帽子から燃えるような赤毛がこぼれている。
彼女の瞳は薄いエメラルド色ですこしタレ目で色白の丸顔のかわいらしい女性だ。
彼女はエステーベ家の次女カルメラ=エステーベその人だった、ベルサーレの又従姉妹にあたる。
その後ろの驢馬は荷物を幾つも乗せ、初老の侍従が先頭を進み、二人の少年従者が手綱を引き老兵が二人ほど護衛に付いていた。
「カルメラ様すでにクラスタ家の方々がお集まりですぞ」
クラスタ家支配の村の入り口を老いた侍従が指し示す。
砦の城門が開かれ門の近くに二頭立ての馬車が三台待機していた、二台は幌付きの荷馬車で一台は上等な旅客用の馬車だ。
その周囲には護衛の騎兵が10騎以上待機しているのが見えた。
今日はクラスタ家の領主一家がアラセナへ引っ越しする予定だった、カルメラがクラスタ家の引っ越しに便乗する事に急に予定が変わったのだ。
カルメラの父と兄はすでにアラセナの新領地の把握にいそがしく、アマンダは相変わらずでクラビエの館に残ってたのはカルメラだけ、精霊通信を支える貴重な人材なのでグラビエから簡単に動けなかった事情があった。
「少し遅れたかしら?」
カルメラは驢馬の上で呟いた。
小柄な妖精じみた美しい女性がこちらに向かって手を振っている、彼女はクラスタ家のアナベル夫人で近くにミゲルとセリアらしき子供の姿も見える。
カルメラはアナベルが少し苦手だった、嫌いと言うわけではないが、言動が予測不能でなぜか気押されてしまう。
やがて驢馬はクラスタの村にたどり着いた、クラスタ家の使用人がカルメラを手助けする為に踏み台を運んで来る。
少年従者達は荷を降ろしてクラスタ家が用意した荷馬車に荷物を積み替え始める。
「アナベル様よろしくお願いいたしますわ」
驢馬から降りたカルメラがクラスタ家の者達に一礼するとアナベルがそれに応じた。
「おひさしぶりねカルメラちゃん、ベルちゃんが帰って来た時だから二ヶ月ぶりかしら?」
「アナベル様たしかそのとおりですわ」
相変わらずのカルメラちゃん呼ばわりに僅かに眉が震えた、ベルはちゃん呼ばわりされても既に諦めているのか、死んだような目をしていた事を思い出した。
「奥様、おひさしぶりでございます」
出迎えたアナベルにエステーベの老侍従が一礼した。
「あらハンスお久ぶりね、気を使わないでいいわよみんな家族みたいな者じゃない、うふふ」
「この大事で引退した私まで狩り出される始末でして、お見苦しい所をお見せします」
「家も同じよ、先代の執事長も引っ張りだされて大変な目にあったのよ」
「大層なお手柄だそうで、あやつも死花を咲かせましたな」
「いやね、まだ生きているわよ?おほほほほ」
アナベルは花の妖精の様に笑った。
カルメラは顔見知りの先代執事長がオルビア王国の偽公爵の役割をさせられた話を思い出して同情した、もっともカルメラが知ったのはアラセナが陥落した後の話だ、外聞が悪いため今だに公にはできない話だが。
「奥様、そろそろ出発いたしませんと…」
そこで護衛騎兵の指揮官らしき男が困った顔をしながら忠告した。
「あらあら、じゃあね行くわよ」
「カルメラお嬢様をお願いいたします」
老侍従は最後に一礼する、いつのまにかカルメラの荷物はとっくに荷馬車に収められていた。
カルメラは上等な馬車の車上の人になった、クラスタ家のアナベル夫人と長子のミゲルと末娘のセリアも乗り合わせている。
やがて馬車の車列は西に向かって動き出す、一行はエドナ山塊のウルム峠を抜けてテレーゼのアラセナ城下を目指す小さな旅だ。
後ろの窓からクラスタの使用人達と老侍従が手をふっているのが見える、その姿はどんどん遠くなっていった。
馬車が走り出してから早々にセリアは少し不安げに俯いている。
ベルの妹のセリアは大層な美少女だ、クルミ色の薄いブラウンの髪と蒼い瞳が美しい、髪の色と瞳の色は父ブラス譲りだが顔の造作は母のアナベルによく似ていた。
「ねえエルバは?」
セリア専属の小太りな使用人娘のエルバの姿が見えないので不安になったようだ。
「心配しなくてもいいわ、後始末をしてから追いかけてくるわよ」
アナベル夫人が幼い娘を宥める。
「カルメラお姉さま、ベル姉さまが何をしているか詳しい事を知りませんか?」
クラスタ家の長子のミゲルがカルメラに話かけてきた、魔術師のカルメラが逃亡中のルディガー達との連絡役をはたしている事は知る人ぞ知るところだった。
彼は繊細な美少年で髪の色はアナベル譲りの黒髪でミゲルが一番母親似と言われている、光の当たり方で金色にも見える瞳がカルメラの瞳を覗き込んでいた、カルメラはつい動揺してしまうがそれを押し隠して応える。
「ごめんなさいねミゲル様、秘密にしなければいけない事が多くて」
カルメラの反応を予測していたのか諦めた様に頷いた、ルディガー公子とそれなりに身分のある者達の安全に関わる問題なので厳しく情報が管理されているのだ。
「ベルちゃんもなんとか捕獲したいわね、クラスタ家の長女なんですもの、もう追放令とか関係ないわよね?」
この会話でアナベルがルディガーと行動を共にしてる娘の事を思い出した様だ。
カルメラはどう答えたら良いのかわからない、アナベルは万事が万事この調子なのだ、表にでる時は貴族の夫人の責務をちゃんと果たしている人なのだが。
「アナベル様、ミゲル様、いずれ姉がテレーゼに向かうと思います、そこで近況が詳しくわかるかもしれませんわ」
「またお一人で行くのでしょ?アマンダちゃん一人で大丈夫なのかしら?」
この人はアマンダすらちゃん呼ばわりだ、だが驚くべき事にアマンダはまったく気にもしていない、不思議とアマンダとアナベルは気が合うらしい。
アナベルとアマンダが並ぶと、カルメラにはアナベルがアマンダの可憐な妹にしか見えない、それでも姉は平気だった。
「連れがいたのでは姉の足枷にしかなりませんの、姉が突破できる状況でも人類が突破できるとは限りませんのよ」
アマンダの規格外を見たことのないミゲルの目が見開かれた、セリアは窓の外の景色に夢中になっていて我関せずだ。
最近カルメラはセリアは将来大物になる予感がしていた、兄や姉よりも自分の世界で生きている気がする。
「もしかしたらアマンダちゃんが貴方のお嫁さんになるかもしれないのよ?」
アナベルが突然驚くべき事をミゲルに向かって言いだす。
年の差がある姉さん女房になってしまうが、クラスタ家の長子とエステーベ家の長女同士で政略的には無いとは言い切れない。
それを言うならカルメラとミゲルもあり得るではないか。
カルメラは当惑してしまった、この人は冗談なのか本気なのかわからない言動が多すぎる、どう返そうか悩んでいると。
馬車の揺れが急に激しくなり始めた、カルメラが窓の外を見るといつのまにかエドナ山塊の山道に入り始めていた。
「まあ山越えの路に入りましたかしら?セリア様もしっかりとおつかまりになった方がよろしいですわ」
カルメラは難しい会話を打ち切りにできて胸を撫で下ろす、乗客達はしばらく会話をする余裕が無くなった、馬車の揺れが激しく騒音がいよいよ酷くなったからだ。
山道を二時間程進むとやがて目の前にウルム砦の石壁が見えてきた。
「ウルム砦に着きましたわ、ここで小休止しますのよ」
アナベルがカルメラに久しぶりに話しかけてきた、セリアは外に出られると聞きはしゃぎだす。
砦の門をくぐると兵舎の前で大きな金属の塊を叩く音がする、だが馬車の車列を見ると兵士達が作業を止めて馬車のまわりに集まって来た。
アナベルとカルメラは砦の守備隊の挨拶を受けた、守備隊の徽章からクラスタ家の兵だとわかる。
領主一家の為に木陰の下にテーブルと椅子が用意され、持参した茶とちょっとしたお茶請けが出される。
カルメラが見たところ砦には大体20名程度の兵が詰めている様だ。
「ところであの大きな金属の塊はなんですの?」
カルメラは好奇心に負けて責任者に問いかけた、カルメラを見た守備隊長は複雑な顔をして僅かに悩んだ様子だったが口を開いた。
「えー、あれはこの砦の警鐘でして、この前の戦で潰されて谷底に落とされてしまったのです、あの様に叩き直してまた鐘楼台にかける予定です」
「まあ、ここは皆様方の活躍であっさりと落城したと聞きましたが、戦の爪痕があるのですね」
「そうですな、まったく無傷ではなかったようです、ははは」
カルメラは城門の上にある鐘の無い鐘楼台を見上げて小首を傾げた。
(あの鐘楼台からどうやって鐘が谷底に落ちたのかしら?あんなに潰れるんですものよほど深い谷ね)
小休止の後再び車列はアラセナを目指す。
峠を越えると眼下に美しいアラセナ盆地の景色が広がる、美しい豊かな田園と村落と森が点在していた、その遥か西にアラセナ城らしき影が霞の向こうに透けて見える。
街道はエドナ山塊の山腹を蛇行しながら下界に降りていく。
「美しいですわねアナベル様」
「ええ、素敵な処ね気に入ったわ」
「あそこに見える小さな町がクラスタの本拠になる予定ですの」
アナベルが地図を広げて西に伸びる街道上の小さな町を指差す。
新しいアラセナの支配者達が新しい領地を感慨深げに見下ろしていた。
ハイネの南セナ村から西二キロ程の森の中に見捨てられた古い農家の屋敷があった、その屋敷の周囲の畑は耕作が放棄され、畑があった場所は荒れ果てて森に埋もれようとしていた。
その朽ちかけた屋敷の中から子供達のすすり泣きが聞こえてくる。
その屋敷から少し離れた林の中でルディとベルと修道女のファンニの三人が集まっていた。
「ファンニ殿、サビーナ殿は相変わらずか?」
「はい、サビーナは魂が抜けたみたいになって、それにこれから私達どうしましょう?こればかりはサビーナが頼りなの」
「コッキーとなんとなく話していて出てきた話しだけど、リネインに逃げたらどうかって、その時にはリネインの司祭様に話をするって」
ルディとファンニが驚きベルを見返した。
「ああ!!コッキーさんはリネインの聖霊教会の孤児院の育ちでしたわね、せめて子供達だけでも頼れないかしら?」
「ベルお前は賛成なんだな?」
「うん」
「たしかに、奴らの狙いは俺達だ、奴らは子供を誘拐してきたがサビーナ殿の孤児院の子達でなければならない理由はない、ハイネからサビーナ達を逃がした方が良いかもしれんな、アゼル達と相談するか」
「じゃあルディ行ってきて、僕はここを守る」
「そうだな、アゼル達の処に行ってくる、何か伝える事はあるか?」
「今日ハイネに買い出しに行く、必要な物があったら教えて、二人共何も持っていないはずだ」
「わかった!かならず伝える」
ルディはアゼルとコッキーが潜んでいる炭焼小屋に向かう、小屋はセナ村の東側にありここからかなり距離が離れていた。
ハイネ城市の東門を一台の幌馬車が旅立っていく、城門が開かれてから一時間経っており人の往来が最も盛んな時間だった。
平凡で何の特徴も無い幌馬車だがそれはジンバー商会の特殊任務部隊、通称雑用係の馬車だった。
新市街の東にはなだらかな丘が連なりそれを越えると街道は二つに分かれる、真っ直ぐ進むとゲーラ・リネイン街道、北東に伸びる街道はベントレーを経てラーゼに至る。
馬車は真っ直ぐリネインへ至る街道を進んでいく。
「バートの奴もうね寝やがった」
馬車の中から低い男の声がする、大男のドミトリーの口調には徹夜明けの同僚をどこか憐れむ様な響きがあった。
「お前達できるだけ休んで体力を蓄えておけ」
それは御者台に座ったローワンの声だ。
「ジム、あんたは眠れたの?」
馬車の中のハンモックの上で寛ぎ始めたラミラが御者台のジムに話しかけた。
昨日はセナ村の襲撃で変異に遭遇し、その後ジンバー商会が彼らに襲撃され魔術師と子供達を奪われたのだ、その騒ぎのせいで寝るのが遅くなった、そのうえ早朝の会議で調査部との引き継ぎを行いすぐに馬車で街を出たのだ。
同じく御者台の上からジムの声が聞こえてきた。
「きついっすね、でも頑張りますよ」
「御者を交代しながら休ませる、馬車の中のものはできるだけ休むように、これは命令だ」
ローワンの命令が終わるまでもなくラミラは眠りに堕ちていた。