神隠し帰り
その薄汚い安宿の一室に新市街の歓楽街の猥雑な喧騒が流れ込む、夜の女が最後の客を呼び込む自棄気味な声がここまで聞こえて来る。
その狭い部屋の中で30歳前後の背の高い男がすこし呆れた様子でベッドの上の女の姿を眺めていた、見方によっては美形に見えるかもしれないその男はマティアス=エローだ。
ベッドの上に地味な魔術師のローブをまとった女が頭だけ布団の中に隠して伏せている、彼女が痛々しいほど痩せているのがローブ越しからでも良くわかった。
男女のキワドイ関係を感じさせる絵だが、残念すぎる事に実情はそんな甘い話からかけ離れていた。
「なあリズ一人で家に帰れないのか?」
「怖くてだめ、もう無理」
布団に頭を突っ込んでいたのは新市街の魔術ギルド『死靈のダンス』の死霊術師のリズだった、セナ村の包囲戦に赤髭団と共に参加した彼らはすでにハイネに引き上げていた。
「だからなぜなんだ?幽霊でもでるのか?」
マティアスは死霊術士が幽霊を怖がるのかと言った体で困惑するしかない。
「キ、キノコよ、キノコが生えているのよぉ!!」
「はっ?キノコ?」
しばらくマティアスは沈黙した、赤髭団の無法者が化け物にキノコに変えられた、キノコを見たくないのも理解できなくはないが、なぜリズの家にキノコが生えているのか理解できない。
「古いアパートだからキノコが生えているのさ、床や柱とか…」
彼の疑問はすぐさま氷解したが、その変わりにいたくマティスを驚かせると同時に脱力させた。
「そんなひでーところに住んでいるのか?リズ」
「家賃が安いんだよ!それに大家も最近姿を見ないし、半年家賃払ってないんだ、エへへ」
「いやいや、そっちの方が怖えーよ!」
「あたし死霊術師だから、怖く無いんだわ」
マティアスは頭を抱えて呆れた様にリズを見つめた、その姿を照らすランプの灯が揺らめいて消えた。
「油が切れたか、どこだ?」
暗闇の中でマティアスが油を探す音がする、すると布団をはねのけてもぞもぞと動く音がした。
「『道征く鬼火』あなたはリーベ世界を照らす光よ!」
リズが魔術の灯火を呼び出すと部屋が鬼火の青白い光で満たされた。
その光の下でいつのまにかリズは布団をはねのけベッドに腰をかけていた、そして熱に浮かされた様な目つきで鬼火を見上げている。
「かなりいい感じの艶が出たわね」
マティアスは鬼火の艶など理解できないし理解したくもなかった。
「部屋の中で使って大丈夫なのか?」
「これには熱が無いからね、死者の炎なのさ」
「そうか」
リズは相変わらず不健康に痩せ、髪の毛は手入れがされていなかった、だが最近は栄養が良いのか顔色が良くなり、頬に艶が僅かにでている、睡眠不足が解消されたのか目のまわりの隈も今はおとなしい。
そして魔術に関する事になると目をギラギラと輝かせるのは変わらない、昼間の太陽の光よりも墓場の鬼火の光が良く似合う女性だった。
だがマティアスは死霊のダンスで行われた魂の呼び寄せの実験の時に見た彼女の姿に密かに魅了されていた。
「なあリズ、セナ村で見たアレは何なんだ?」
マティアスはあれが今だに現実に起きた事なのか信じられなかった。
「正直わからないんだよ、人が化け物になるなんてね、ただ」
「ただ?」
「魔術に詳しくないと聞いてもわからないかもしれないからねー」
「とりあえず話してくれないか」
マティアスは小さな三脚丸椅子に腰を降ろした。
「精霊召喚って知ってるかな?」
「ああ、それができる魔術師がいるのは知っているぞ、手紙を運ばせたり行方不明の人や物を探す商売をしてるな」
「なら話しは速いか、異界の存在をこの世に下ろすには依代が必要なんだ、この世界での実体を与える為に」
「精霊には実体が無いのか?」
「私達のいる世界で実存するには物質の実体が必要なんだよ、精霊召喚はそうやって依代を用意して行われるの」
「まさかあの化け物娘は召喚精霊なのか?」
「違うわ、それ以外にも私達のいる世界に精霊が顕現する方法があるらしいと言われているのよ、異界の上位存在の眷属ならば神降ろしができるのよ、上位精霊がこちらの世界に現れたり干渉する事ができる」
「良くわからんがあいつは精霊の依代って奴なのか?」
「神を自分自身に降ろせるのよ、事例が少なすぎてほとんどわかっていないけどね、神々の様な上位の大精霊達が関わる事だからね、まあ伝説に近いね」
「アレはそういった伝説並のバケ物なのか?」
「人を植物にかえたりキノコに変えるなんて奇跡だとしか言えないでしょ?」
「そうだな、俺たちはそういうのと戦わされたって事なのかリズ?」
「うん、ヘクターもアイツにはとても敵わなかったよ」
腕を砕かれ最後に全身が植物に食い尽くされていくヘクターの姿をマティアスも思い出した。
「赤髭団から何人も死人が出た、くだらん連中だがあんな形で死なれると気分が悪い」
「マティアス復讐したい?」
「まさか、あいつら金を積まれてさっそく懐柔されたわ、腹の底はわからんが俺が怒る理由はないさ、俺達にも口止め料がでる」
「え、えっ?お金が貰えるの?ならいくらでも懐柔されるよ、エヘヘ」
そのリズの笑いは妙に彼女を幼く見せた、彼女の話では収入を魔術研究に総て投資してしまい、衣食住に事欠いていたはずだ、少しは食事や衣服にも回させようとマティアスは決意する。
「だがな嫌でも家に帰らなきゃならないんだろ?」
「うん、本やら道具とかあるから、明るくなれば大丈夫」
「いやまて、朝までどうするんだ?ここにいる気か」
「おねがい、いいじゃないさ」
アティアスを拝むかのようにヘラヘラと頼み込む。
「男と女が同じ部屋で朝まで一緒にいるんだぞ?」
「へっ!?ああっ!!」
マティアスが狼狽するリズを見て頭を抱えた。
こいついったい何歳なのか?男を知らないのか?などと内心で激しく懊悩していると。
「アイツ神隠し帰りかもしれないんだ」
突然リズが口を開いた、その真面目な口調でどうかしたのかとマティアスが身構える。
「神隠し帰り?」
「幽界に落ちて生きて帰って来る事」
「なんだ幽界って?」
リズはそこから説明しなきゃならない事に気づき、苦笑を浮かべた。
「どう説明しようかな、この世を『現実界』と呼ぶ、それ以外に『幽界』『霊界』『神界』『魔界』があるんだよ、魔術師はそれらをプレーンとも呼んでいる」
マティアスが理解できているかはわからない、だがおとなしく聞いているようなのでリズは先を進める。
「神隠し帰りはね、異界に行って帰って来た者をそう呼ぶんだ」
「なぜアイツがそれだとわかるんだ?」
「そうね、あの蛇女みたいな化け物で気づいたんだ、狂戦士とかそんな話じゃないってね」
「狂戦士か、エッペとか言う逝かれた野郎を知っているぜ」
「んん?聞いたことがある名だね…」
何かを思い出そうとリズが思案顔になった。
「なあリズ、他の奴らもそれに気づいたのか?」
「あれを見たら魔術師でよほど馬鹿じゃない限りその可能性も考えるよ」
「神隠し帰りはああなるのか?」
「詳しいことは全然わかっていないんだよ、幽界に招かれて凄い力を授かったって言う伝説の話だから、凄い力って上位精霊との契約で得られるものなんだよ」
「なるほどな、だがなぜそんなのが現れたんだ?」
「全然分からないよ、でもなんとなく心当たりが無いわけじゃあないんだ」
「それはなんだ?」
「はっきりとは説明できない、できても言えないよ危険すぎる」
「リズは興味はあるのか?」
「物凄くあるけど、下手に頭を突っ込むのは考えものだね、コステロ商会やら『魔導師の塔』が動くだろうし、今は昇格試験に専念したいんだよ、それもどうなるか」
マティアスは今夜の任務がリズの実地試験だった事を思い出す、死霊のダンスも中位の術師を二人失い人材不足だ、リズは口止めも兼ねて中位に昇進できるんじゃないかとマティアスは密かに計算していた。
「まあしょうがない、お前はベッドで寝ろ俺は床でねる、明日の朝お前のアパートまで送っていってやる」
「どもありがと、じゃあもう寝るわ疲れた」
リズはそのまま布団にくるまって寝てしまった。
セザール=バシュレ記念魔術研究所所長のバルタザールは黒檀の執務机を挟んで豪奢な椅子に腰掛けたローブの男と対峙していた。
豪奢な部屋の窓はすべて漆喰の様なもので封じられ魔術道具の薄暗い光に照らされていた、その部屋をかざる旗の徽章がここが『魔導師の塔』である事を示している。
その人物のローブは銀糸で古代文明の神聖文字が象られていたが、その容貌は深いローブに隠されバルタザールからは見えない、だがそのようなローブを纏うことができるのはこの部屋の主人であるセザール=バシュレただ一人だった。
そして執務室の扉の近くに同じく黒いローブの男が二人ほど待機している、寒いのか威圧されているのか僅かにローブが震えていた。
「お前たちが引いたとはな、このアオい娘とこの黒い娘が幽界帰りだとイウのか?」
ミイラの様な手の指が肖像画を指し示す。
「私はそう判断します、今の時点ではまだ調査段階ですが」
「奴らが干渉してくる可能性は考慮していたがまさか二人とは」
「予想されていたのですか?」
「これだけ大掛かりな結界ヲ作ったのだ、いわんや死霊術がからむとなるとな、奴らがどこまでこちらの目的に気づいているのか解らぬ」
セーザルはしばらく指で肖像画を叩きながら考えにふけっていた。
「バルタザール、まさか残りの二人も幽界帰りではなかろうな?」
バルタザールは口を閉ざし熟考した後で口を開いた。
「可能性は否定できません」
「まあ良い、対応方法は考えてあるが計画をいそグ必要がある、今のままでも数年で準備が終わるが、いそがねばならぬ、その為には多くの生贄がすぐに必要になる」
「きまぐれ姫は我らの目的を察しておろう、だがコステロ商会は現世の利益に生きる輩だ、機密の維持に意を払えヨ」
バルタザールは一礼するとセザールの執務室から退去して行った。
ふとセザールが目をやった魔術道具の告時機は深夜を回る時間を示していた。
セザールは静かに立ち上がりそして扉に向かう、扉の前に持していた二人の魔術師は慌てて左右両脇にどいて扉を彼の為に開く。
そのままセザールは螺旋階段を降って行く、階段は魔術の灯に青白く照らされ、魔導師の塔の中心の巨大な柱のまわりを巡りながらどこまでも下に伸びていく。
セザールの後ろを二人の魔導師が音もなく追従する。
深夜なのか誰とも行き違わない、やがて城の基部を通り抜けその下に到達すると、周囲の湿度が上がり不快な臭いが立ち込めた。
やがて水平な廊下を進んでいく、その階層の責任者らしき男がセザールを出迎えた、そしてある扉の前に停まると責任者がその扉を解錠する。
その部屋の中は薄暗かったが、それでも異様な光景が広がっていた、天井から何か丸い物体が細いロープでぶら下げられ、その物体にはうごめく蛇の様な物が付属している、セーザルが室内に入ると魔術道具の光で室内が照らし出されてその異常さがあからさまになった。
干からびた無数の髑髏が細い金属のロープで天井から吊るされていた、その蠢く蛇の様な物体は背骨だった、肩の骨も腰骨もなく背骨だけが髑髏からぶら下がり蛇の様に蠢いている。
気の弱いものなら見ただけで失神しかねないおぞましい光景だった。
床には無数の魔術術式が書き込まれていた。
もしここにベル達がいたならば、髑髏が大量の瘴気を発生させている事に即座に気がついただろう、その瘴気は床の魔術術式に吸い込まれて行く。
セーザルは部屋の隅の籠の中で緩慢に蠢く屍鬼に目をやる。
「失敗作はこうして役ニ立つが、さてきまぐれ姫ノ眷属ならばどれほど力を招き入れる事ができるものか、実験がたのしみだな」
そしてローブの中からかさついた声で一人ごとを漏らした。
側に侍る物達は賢明にも彼が何を言っているかその意味を問い直そうとする者はいなかった。