聖霊教会炎上
「バルログが殺られただと?何が起きた!?」
バルタザールは敵味方見境の無いバルログの攻撃から逃れるため走った、だが背中に精霊力の奔流を感じて振り返った時には瘴気の嵐が霧散していくところだった、そこに上空からバルログの残骸が降って来たのだから。
「所長!赤毛の修道女にバルログが殺られました」
遅れて反応したオスカーの言葉からは動揺が隠せない、彼の言葉だけでは何が起きたのかまったく理解できなかった。
そして右手の森から強大な精霊力の圧力を感じた、森の中から人の形をした何かが歩み出てくる、優美な肢体をくねらせて獣の王の様に悠然と現れた。
それは道端で伏せると寛ぎ始める、その灼熱の黄金の輝きに満たされた瞳がこちらを静かに見つめていた。
その瞳に全身から怖気が走った、瞳から何の知性も感情も感じられないのであればまだ良かった、そこには異質な知性と感情の揺らめきが確かに存在していた。
その時左手から声無き絶叫が上がる、衝撃を感じそちらを素早く見ると街道から外れた野原で膨大な瘴気が拡散し霧散して行く。
「まずいドラゴンもやられた!」
叫ぶオスカーの声が切迫している。
あの大柄な黒い剣を持った男がドラゴンを倒したに違いない、ドラゴンが元の世界に還り依代が崩れ去っていく。
その直後にキールが奇妙な仕草をした、両手で耳を抑えた後で何かを懐から取り出し地面に叩きつけた。
「精霊欺瞞弾をつかいました!」
キールの姿が緑の煙幕にたちまち包まれた、それと同時に激しい耳鳴りと共にバルタザールの視界が歪み始めた。
バルタザールはそれが何かすぐに理解した、万が一の時の切り札の使い捨ての高価な魔術道具だった。
精霊術と錬金術を融合させた傑作品、大量の煙幕と精霊力による音波を発生させ、荒れ狂う精霊力の嵐を同時に発生させて戦場を混乱させる魔術道具だった。
「おっさん、先に言ってよ!」
オスカーが怒りに満ちた叫びを上げる。
今までバルタザール達がこれを使った事は無かった、それをあのキールが躊躇無く使用に踏み切ったのだ。
バルターザールも時間を無駄にはしない、耳に専用の小さな魔術道具をはめ込んだ、そして自分の肉体に強化術をかけ、そして懐から同じ精霊欺瞞弾を取り出すと地面に叩きつける。
ふたたび煙幕と神経に障る音波が生まれ精霊力が足元から荒れ狂い始めた。
「骨どもよ奴らを止めろ!」
オスカーが叫ぶと同じく耳栓をする、そして身体強化術を自身に付与する、その間にもオスカーが展開していたかなりの数の骸骨達が道路を塞ぎ始めた。
「ヨーナス君いそぎなさぁい」
だがオスカーには聞こえない、そして3人は北に向かって走り始める、彼らの行き先には馬が留めてあるのだ。
途中でオスカーがふりかえり爆弾を石畳に叩きつけた、再び大量の煙幕と音波と精霊力の嵐が生じた。
キールはその実力をいかんなく発揮し疾走すると、残る二人も強化した体で馬の元に必死に駆けた。
バルタザールが後ろを振り返ると、青いワンピースの娘が煙幕から飛び出して両耳を抑えてそのままうずくまっていた。
そのまわりに数体の骨が群がっている。
三人はそのまま馬を駆るとハイネに向かって馬で駆け出していた。
「ベル返事をしてくれ、どこだ?」
緑色の煙幕が視覚を防ぎ騒音が聴覚を狂わせた、気の嵐に乱され精霊力の探知が効かない。
おまけに目と喉に刺激まであるのだ、小さな道具から出るとは思えない程の大量の煙幕。
光る泥人形と彼らとの戦いで精霊力の過信は危険だと学んでいた。
「耳が痛い喉も痛い涙も出るのです!」
コッキーの半泣きの声が訴える、そして咳き込んでいる、それと同時に何か乾いた物が壊れる音が聞こえてきた。
「えいぃ!!」
コッキーの叫びが上がりまた何かが壊れる音がする。
ルディも目の前に現れた骸骨を殴り壊した、この煙幕の中で剣を使うと味方に当たる怖れがある。
やがて音が静まり気の乱れも収まり緑の煙も風に流されゆっくりと晴れていった。
「若旦那様、私と子供達は無事です」
アゼルの声が聞こえてきた、声のする方向から彼らは街道の脇にいつのまにか移動していたようだ。
煙幕を透して囚人服のアゼルの姿がうっすらと見える。
ルディが最後にベルを見た場所にたどりついたがそこに彼女はいなかった、
どこにいるんだ?ルディは周囲を見渡すが姿が見えない、だが煙幕が晴れ気の嵐が収まるにつれ強い精霊力を感じ始めた。
ベルは煙幕を避けて森の縁で横たわっていた、頭をもたげルディを黄金色の瞳で見つめている、ルディの足が止まった。
二年前の狩猟感謝祭の夜に光る池に落ちた後の記憶が蘇った、そこから始まる黄昏の世界の冒険を思い出したのだ、あの大森林の暗闇を案内してくれた獣に変わり果てたベルの姿が目の前にあった。
その黄金の瞳はそこに知性や感情がある事を物語っている。
ベルがふと微笑んだ様な気がする、その直後に彼女はゆっくりと目を閉じて頭を伏せた、ルディはベルに全力で駆け寄る。
「ベル!?」
慌てて駆け寄り膝をつき彼女の息を確認したが息はあるようだ。
コッキーが真紅の怪物達と戦った後で気を失った事、敵の結界を破壊後に呆けた様に立ちすくんでいた事を思い出した。
ベルもまた同じなのだろうか?
「幽界帰りはこうなるのか?ならば俺は…」
その疑念を感じながらベルの頬を軽く叩く。
「若旦那さま、子供達が目を覚ましました」
アゼルの声が聞こえてきた、ルディのいる処にコッキーがやってきた。
「ベルさん凄かったですよ!!…大丈夫です?」
コッキーの反応に僅かな違和感を感じた、だが心配げにベルを見下ろすコッキーの顔を見たとたんそれは消え去る。
「気を失っているだけだと思う」
「とくに変わっていませんね?」
「ああ?わからない事が多すぎる」
ルディがベルの頬を少し強く叩くと彼女が僅かに身じろぎをした。
「動きました」
コッキーも腰を降ろしてベルをゆすり始めた。
「ベル早く起きてくれ、ここも長くはいられない」
しだいにルディは焦り初めていた、何か深刻な異常が彼女の身に起きているのかもしれない、それにベルが動けなければここから動く速度が遅くなる。
ベルがまた身じろぎをして何か呟いた。
そしてベルはゆっくりと目を見開きルディを見上げる、その瞳からは焼け付くような光が去り、薄い青い瞳が戻っていた。
「おはよう?」
ベルは周囲を見渡すと破壊された路面に目を止めた。
「ルディ話がある」
「コッキーも話があるのですよ」
「まて、すぐにサビーナ殿と合流しなければ、はやくここから動かねばならん、必ずここに人が送り込まれてくる」
ルディが指差す方向に子供達とアゼルの姿が見えた。
「そうだ、とりあえずここから早く動こう」
ベルはよろよろと立ち上がり石畳の上に落ちていたグラディウスを回収する、だが何かに気づいて両手でお尻を触ってから慌てた。
「無い!?」
「ベル何かなくしたのか?」
「ううん、なんでもない」
顔を赤らめてベルは顔を横に振った、ルディとコッキーはそれを訝しんだが深く追求する暇は無かった。
「とにかく急ごう」
三人はアゼルと子供達の処に急いで向かう。
だがアゼルは深刻な顔で彼らを迎えた。
「若旦那様、このままサビーナさんのところに向かうのは危険です」
「それはどういう意味だアゼル」
「最初に遭遇した怪物が追跡型の召喚精霊だとすると、没収された私とコッキーの私物が精霊への命令に使われた可能性があります」
ルディはバーレムの森で戦ったグリンプフィエルの猟犬の事を思い出す。
「あの猟犬と同じかもしれないのだな」
「はい、死霊術は詳しくは知りませんが、持ち主を追跡させた可能性があります」
「まてよ、ならば子供達はどうなのだ?」
「奴らは子供達の私物には興味を持ちませんでした、それに子供達の私物は聖霊教会にあるはずです」
そこでベルの顔色が変わる。
「サビーナ達は荷物を新しい隠れ家に持って行ったけど、聖霊教会にはまだ残っている物が沢山あるんだ」
「まずいな、俺とベルの私物はサビーナ達に持っていってもらったが」
「ねえアゼル燃やせば精霊への命令に利用できないの?」
そのベルの言葉にルディとアゼルの顔が豹変した、ベルが何を言おうとしているか察したのだ。
アゼルはそれに頷くだけで肯定した。
「言うと怒られるかもしれないけど聖霊教会を焼くしかない、聖霊教会もたぶん見張られている、残った物を全部運び出すなんて無理だ」
コッキーは先程から口を開けたまま言葉が出ないようだ、そして半泣きに顔が崩れていく。
「それはサビーナ殿に話してからだ、まず俺とベルで子供達を新しい隠れ家に運ぶ、アゼルとコッキーは一度どこかに隠れていてもらう」
「…私も同じ意見です」
アゼルもそれに同意するしかなかった。
コッキーが嗚咽をはじめる、三人は驚いてコッキーを見つめた。
ルディは彼女がリネインの聖霊教会の孤児院で育った事を思い出した、そして10年前の戦火で両親を失っている事も。
「皆んなあの人達のせいじゃないですか!!燃えちゃうんですか、今度は孤児院が燃えちゃうんですか!!ゆるしません、絶対に許しません!!」
コッキーが憎しみのこもった声で呻いてから泣き出した、白い小さな手を強く握りしめて。
その夜半の事だった、ハイネの新市街の小さな新しい聖霊教会が突如炎上した、礼拝堂、修道女館、孤児院、調理場から食堂まですべて燃え上がり灰燼に帰した。
翌朝になって畑に大きな穴が空き、二人の正体不明な男達が縛られたまま転がっているのが発見された、だが修道女と孤児をふくめて全員行方不明になった。
街の人々は世を騒がせている誘拐団の仕業だと噂したと言う。
ハイネの東方に徒歩で一日の距離に古都ゲーラがあった、この街は一度も戦火に焼かれず古い時代の建物を良く残している。
幸運なのか領主が優れていたのか、たまたまハイネに近かっただけだと言われるが、一度も焼けずにいたのは間違いなかった。
そのゲーラの安宿『真珠の首飾り』の酒場の片隅で、何かに怯える様に深酒をしている男がいた、ずいぶん遅い時間に宿に飛び込み部屋を契約した職人風の男だった。
見慣れない顔だが深く詮索する者などこの宿にはいない。
この男は道具箱を身から話さずに一人で酒を飲んでいた、知っている者ならばこの男がテオ=ブルースだと言う名の流れ者だとわかった事だろう、それと同時に驚いたはずだ、彼は疲労と恐怖に憔悴しきった顔をしていたからだ。
「マルセラに向かいアラセナ経由でオルビアに行くか、馬があればドルージュを一気に抜けてマルセラまで2日かからずに行ける」
テオはぼそぼそと独り言を呟いていた。
道具箱の中でコトリと何かが動いた。