コッキー=フローテンを探れ
ベルは屋根の上の見張りを音もなく倒すと、獲物を完璧に仕留めた満足感から口のまわりをペロリと舐めた、まだ真紅の怪物との戦いの興奮の余韻が今だに体から消えていない。
気を鎮めると屋根の上を這い進みながら怪しい倉庫に接近していく。
倉庫の外側に変わらず見張りが二人いる、だがその倉庫の屋根の上に小さな生き物の存在を感じた、驚いて良く見直すとそれは小さな白い猿のエリザだった。
「あれはエリザじゃないか!?エリザも一緒に捕まってた?」
これであの倉庫の中にアゼルが囚えられている可能性が高くなった、だが倉庫の前に二人の見張りがいる、さらに周囲にも数人の警備員が巡回しており、区画全体が篝火に明々と照らし出されていた。
倉庫に扉があるが木製には見えない、ただの鉄製ならルディの魔剣で破壊できる、だが何か特別な扉なら破壊できないかもしれない、そうなると鍵が必要になる。
二人の見張りが鍵を持っているかはわからなかった。
ふたたび屋根の上を見たときにはエリザの姿が消えていた、エリザの姿を探すがどこにも見つからなかった、いったいいつ姿を消したのだろうか?
ベルは小首をかしげた。
また倉庫に目を戻すと屋根に近い場所に細長い窓があった、片側にしか無かったので大きく回り込むまで見えなかったわけだ、まさかエリザは倉庫の中に入ったのだろうか?
さらに屋根の上を柔らかい身のこなしでするすると動く、まるで自分の筋肉や骨が猫にでもなったような気分になり、このような状況なのにベルは楽しくなってきた。
屋根の上を這っていると、夜の暗闇の向こうから何かがベルを呼んでいるようなそんな不思議な感覚に囚われた、どこまでも闇に向かって駆けて行けたらどんなに楽しいだろう、狩りをして食べて寝てそして…そして?
「何を考えている、今は集中しないと」
雑念を振り払い気を引き締めて音もなく倉庫の屋根に着地した、まるで背中に目があるかのように周囲の総てを把握できる。
そしてその細い窓から中を覗いた、中は薄暗いランプの照明で照らされている、窓から二人の人の気配を感じる、視界の片隅に僅かに見える人影がアゼルだろう、彼はベッドで寝ていた、もうひとりは姿が見えないが見張りに違いない。
アゼルに声をかけたいが発見される危険は避ける。
ふとベルは屋根に触れた指の先に僅かな虚脱感を感じたので意識を集中する、指先から僅かに力が奪われていた。
(なんだこれは?力がどこかに流れている)
手のひらで屋根や壁に何度も触れて確かめた、精霊力が散ってどこかに流れて消えて行くのだ。
ベルは精霊力の探知で建物の中を探れなかった理由がなんとなく理解できた、結界ではなく建物そのものが探知を妨害していたからだ。
ならば窓からアゼルに向かって精霊力を放てば届くかもしれないと思いつく、アゼルは魔術師なので力が届きさえすれば気がつく可能性は高い、もう一度窓から覗いて精霊力の網を頭の中で紡いでそれでアゼルを軽く叩いてみた。
アゼルがうめき声を上げてベッドから飛び起きた。
そして窓を仰ぎ見てベルを見つけて驚いていたが、アゼルは口に指を立てて声を出すなと仕草で示す、入り口を指差しているので見張がいる事を教えているのだろう。
アゼルは声を出さずに口を動かした、その動きから『いつでもでられます』そうベルは読み取った。
理由はわからないが脱出の準備ができているらしい。
すでに子供達の居場所は把握できている、だがこのままでは彼らが別々の場所に移動させられる危険があった、バラバラになる前に急いで奪還すべきとベルは判断した。
ふと建物の中にエリザがいなかったと思い出したが、頭の中からエリザの事を追い出す、今は子供達とアゼルの救出に専念しなければ。
ベルはそのとき誰かの視線を背中に感じる、誰かが倉庫の屋根を遠くから見ていると直感した、その視線の元をたどると特別区画の南門の守衛小屋からこちらを見ている男がいた。
今騒がれるとルディ達が強行突入してくるかもしれない。
その男の気がそがれるように強く念じる、すると男は突然興味を失ったかの様に別の方向を観察しはじめた。
「たすかった」
ベルは小さなため息をつく、だがベルはなぜ気がそがれる様に念じたのか、なぜ男が興味を失ったのかそれに何の疑問も感じなかった。
一度商館の外に出て最後の打ち合わせをしようと決めると、屋根の上を流麗に動き始めた。
誰かがそれを観ることができたならば、美しい獣が屋根の上を進んでいるかのように見えた事だろう、その華麗な流れるような動きはとても人には見えなかった。
ベルが屋根の上を徘徊していた頃、彼女が意識を刈り取った見張りがいた建物の東の端、通称雑用係の会議室に全メンバーが集まっていた。
掴みどころの無い飄々としたトップのローワン、紅一点の変装の名人のラミラ、染め物屋の様な扮装をしている厳つい男のドミトリー、なんでも屋の特徴の無いバート、新人の童顔の大男の少年ジムだ。
こうしてみるとジムは不思議とこの場に相応しく馴染んでいた。
まず夕刻に行われたセナ村の屋敷の攻撃が失敗した事、魔術師一人を捕虜にしたが会頭の甥のオーバンは今だに行方不明である事がローワンから語られた。
そしてラミラが赤髭団が青いワンピースの少女コッキー=フローテンと戦い異変に見舞われた状況を説明する。
バートやドミトリーは半信半疑だったが、執事長のフリッツも確認した事だとローワンが説明すると彼らも信じるしか無かった。
そしてここに来てまた急遽任務の再編が行われ、そんな時にはしわ寄せが雑用係にやってくるものだが、ローワンの班がコッキー=フローテンの調査に専従する事になったのだ。
もともと緊急任務の対応部隊なのでそれが仕事と言われたらそれまでだ。
「よって我々の持つ例の四人に関連する情報を調査部へ引き継ぐ、そして調査部の把握している彼女の情報はこちらに総て引き継がれる、俺たちはコッキー=フローテンの調査に専念する事になった」
そう宣告したのは通称雑用係のトップのローワン=アトキンソンだ、30代前半ほどの痩せた背の高い男で刈揃えた黒い髪と黒い目と浅黒い肌の乾燥地帯出身の男だ、どこか愛嬌のある美男にも見える精悍な容姿の男だ。
書記のバートがうんざりした態度で文句を行った。
「ローワンさん朝までに用意するのですか?もうこの時間ですよ」
「朝までに纏めてもらう」
無慈悲にローワンは宣告した、どこが親しげに見える男だが仕事には情け容赦の無い処がある。
バートは最前線にでる事はまず無い、事務処理を担当し情報の分析や簡単な暗号などは彼が解いてしまう、ジムの聞き取りから四人の肖像画を作成したのも彼だった。
非常に便利な人材でそのせいで酷使されやすい。
「我々全員でリネインに移動し、コッキー=フローテンの調査に専念する」
会議室にいた全員が息を飲んだ今までそんな事は無かったからだ。
「馬車を借り受けた、これでリネインまで一日で行ける」
染物屋の衣装をしたままのドミトリーが口を開いた。
「そこまでその娘を重視しているという事なのか?」
ジムとラミアはあの赤髭団の惨状を直接見ているからその重要性は理解できた、だが他のメンバーはまだ理解しきれていない処がある。
「彼女の家族や背景を含めて調べる事になった、それもできるだけ早く調べる様に要請されている、これは会頭命令なんだ」
また会議室にいた全員が息を飲む。
ドミトリーが厳つい顔をしかめながらジムを睨んで更に言葉を継いだ。
「その娘、オーバンさんの護衛を切ったんだったな、たしかお前見ていたな」
「そうっす、ガラス玉のような死んだような目をしてました」
ジムはその時の恐怖を思い出して震える。
「初めからあの娘普通じゃなかったんだね」
ラミラが感慨深げに呟く。
それをローワンが打ち消した。
「いや、二年前から商会の運び人をやっていた平凡な孤児の小娘だ、その思い込みで足をすくわれた結果になった、しばらく姿を消していたし他の三人に関心が集まっていた」
「我々は明日早朝に調査部に引き継ぎを行いリネインに向かう、それまでにバートは資料を整理しておくように」
うんざりした顔でバートがうなずいた。
「やれやれ俺は馬車の中で眠りますよ」
「何か質問は?」
ローワンの言葉に全員沈黙を守っていた、今までも緊急任務に投入されてきたのでこんな事はラミラは慣れっこらしい、ジムは化け物が徘徊するハイネから逃げられると喜んでいた。
(アイツらから離れられるなら俺はうれしいっすよ)
「では解散だ、早く眠るように」
ローワンが立ち上がる、やれやれと全員が立ち上がった。
「ラミラさん俺はもう眠りますよ、今日はいろいろありましたから、眠れる気があまりしませんが」
ラミラは肩をすくめただけだった、メンバーは疲れたようにそれぞれの部屋に向かう、ただ徹夜仕事のバートを除いて。
自分の部屋に向かうジムはとても大切な事を思い出した。
「ピッポさん達…どんどん遠くなっちまう」
二年ほど彼らと仲間として世界を旅をしてきた、特に不満もなくそれなりに愉快な後ろ暗い旅だった、だがなぜかここが旅の終わりなのかもしれない、そんな感慨にふける。
「ジムどうしたんだい?」
「ラミラさん考え事してました、おやすみっす」
ジムはラミラに別れを告げて己の部屋のドアを開けた。
そのころ雑用係の会議室の隣の調査部の一室で繊細な鈴の音が鳴り響いた、そしてそれは小さな騒動を巻き起こした、やがてそれは大きな嵐の予兆だったと皆が知る事になる。
『おい、精霊通信が入信したぞ!』
『これは捕虜の精霊通信板だったな解析を急げ』
『いいぞ単純な平文だ、よくある三文形式だ』
『なんて書いてある?』
『アラセナに移動、だな』
『アラセナだと?アラセナ伯爵領のことか?』
『それ以外にあるのか?とにかく班長に報告を』
ハイネの旧市街の東北部を占める地区はハイネの上層の人々の邸宅が集まる高級住宅街になっている、その住宅街の一角に古風な旧テレーゼ様式の美しい邸宅があった、その邸宅こそテレーゼの裏世界を支配するコステロファミリーの首領エルヴィス=コステロの本邸だ。
その二階の私室でコステロは仕事を終えて一息つきながらジンバー商会からの報告を熟考していた。
部屋を照らす魔術道具がオレンジ色の優しい光を部屋に投げかけていた。
その中でも彼は頑なに金縁の遮光眼鏡を外さない。
ふと部屋に風が流れカーテンがゆっくりとはためく、バルコニーにつながる扉がいつのまにか半開きになっていた。
「ドロシーかちょうど良かった聞きたいことがあったぜ、奴らと聖霊教会で戦ったそうだな」
バルコニーに顔を向ける事すらせずにコステロは口を開いた。
「そう」
カーテンの向こうから答えが返ってきた。
「何が起きたんだ、ずいぶん報告を省略したな?」
ドロシーは真紅の色彩と共にバルコニーから部屋に入ってきた、いつもと変わることの無い真紅のドレスとボンネットに身を包んでいる。
「ゆうかいのかみのけんぞくがあらわれた、テレーゼのメンヤのけんぞく、ひとがだいちのヘビ、はくぎんのだいじゃ、だいちのホルンのけしんとよぶばけモノ」
「それは報告書には書けないか、お前は土地女神のメンヤが動くかもしれないと言っていたな、あの黒い長い髪の女か?」
「ちがうあおいワンピースの小さな子」
コステロの顔が流石に驚きに歪む。
「なんだと!そいつも幽界帰りか!?」
「そうていがい」
コステロが告刻機を見るとすでに深夜を示していた、まもなく今日も終わろうとしている。
「ジンバーからの報告で異常事態が起きたと急報があったが、明日の会議で詳しい報告があるか…」
「あいつはめざめたばかりでみじゅく、でもひとの手におえるあいてではない、エルマがやられた」
「あの娘が?お前の高位の眷属だろ?」
「やっつけられた、あいしょうがわるい」
「奴を倒したいか?」
「わたしたちのえいえんのてき」
「なるほどな」
ドロシーはボンネットを外すとせいせいした様な顔を露わにした、そして部屋の壁際の剣立てに収められていた二本の剣に視線を移した。
「エルヴィスけんをかして」
その剣は彼の愛剣で二刀流で使う二振りの直剣で豪奢な鞘に収められて立て掛けてあった。
「なんだと精霊変性物質の剣が必要なのか?」
「やつらがもっていた」
「それも報告になかったぞ?」
それをドロシーは自然に無視して話を続ける。
「ないとやつらのぶきをうけられない」
精霊変性物質は幽界の精霊が物質界に顕現した時に、依代が変質して生まれる物質でとてつもなく希少で多くの魔術道具の素材として使われている。
エルニアがルディガー公子の追討でグリンプフィエルの猟犬を召喚し、大量の精霊変性物質を手に入れ首脳達を驚かせたのも最近の事だ。
高位の精霊召喚士を召し抱えた費用を全て回収してお釣りが帰って来るほどの利益を出したのだ。
だが全てが武器になるわけではない。
切れぬものが切れると言われるが、切れる物を切れるとは限らない、武器として使えるのは奇跡的な変性の偶然により生まれた物質だけだ、その加工技術すら現在では失われ古代の遺跡からしか発掘されない、精霊変性物質の武器は極めて高価な代物だった。
物によっては庶民が七代先まで遊んで暮らせる程の値段がつく事がある、強力だが戦争で使うには数が無いため多くが特権階級の宝物として秘蔵されていた。
ステイタスシンボルなので戦いに使われる事はまずありえない。
ドロシーはそれを貸せと言い出したのだ。
「お前の為に精霊変性物質の武器を手に入れる、それまで一本貸そう」
「ありがとう」
ドロシーはコステロに歩み寄るとその氷の様な表情を溶かす、彼女の肌の色が血のワインを滴らしたかのように薄紅色に染まりはじめると、コステロはそれを楽しげに眺めやった。
ドロシーは真紅のドレスのホックに手をかけた、そのとき告刻機が午前ゼロ時を刻み時を告げる。