真紅の怪物
ルディとベルはドロシーが展開した防護魔術の結界に攻撃を加え続けた、この世ならざる物に加害する事ができる精霊変性物質の武器は確実に結界を消耗させて行く。
二人は魔術の深い知識があるわけではない、だがそうなる事を初めから知っていた。
ドロシーが展開した結界は打撃を受けるたびに青白い光を放ち揺らめいた。
「『ペイオンズの死光の盾』」
ドロシーがエルマに防護の術を付与する、エルマの全身が儚げな青白い光に包まれた。
「5…4…」
エルマはそのままどこか楽しげにカウントダウンを進めていた。
「これ強いけど扱い難い!!」
鞭で結界に攻撃を加えていたベルがついに泣き言をこぼした、精霊力で強化しているとは言え長さ6メートルを越える重い鞭は使いにくかった。
「ベル少し休め!!」
ベルが攻撃を止めて鞭を構え直した瞬間ドロシーが動いた。
結界を自ら解除するとエルマを抱えたまま横に跳んだ、攻撃しようと振りかぶるルディの動作の空きを突く動きだった。
聖霊教会の方角に横に滑る様に跳ぶと疾走りエルマを礼拝堂の前に無造作に立てる。
「まずい教会に近い!!」
ルディの叫びと共に二人はすかさずドロシーを追撃した、ドロシーはそれを一瞥すると口を僅かに動かす。
「『ナンガ=エボカの藪蚊』」
黒い瘴気の礫の雨が二人に向かって飛来する、今度は瘴気の礫の後を追うようにドロシーが疾走る、恐るべき加速で先行する攻撃魔術に追いついた。
これにはルディとベルも驚き目を見開いたがすべては一瞬のできごとだ、瘴気の散弾を盾に突入してくる真紅の怪物を真横に回避した、二人は武器を使うタイミングを逸していた。
黒い瘴気の礫は経験済みだ、これは致命傷を与える術ではないが、その後からやって来る怪物を礫を浴びた状態で迎え撃つのはまっぴらだった。
「ドロシーくっついたわ!!」
エルマの喜びに満たされた声がここまで聞こえてきた、彼女は左右に飛び跳ねて体を確かめている。
すかさず大きな力がドロシーに集まり始めた。
「詠唱が異常に早いぞ!!」
ルディの叫びからベルは彼の焦りを感じた、魔術師ならば術の間に攻撃を加えれば制圧できる、だがこの敵は人外の身体能力を有しながらも、魔術による攻撃を加えてくる、それも常識外れの速さと威力で。
「『砂塵の冥王塵に還りしラバトの宣告』!!」
その直後ルディに向かって目に見えない力の波動が迸る、ドロシーの前方が広い範囲にわたって陽炎の様に歪みその濃密な瘴気の力場がルディに向かって押し寄せる。
「ルディよけろ!!」
ベルが叫んだ直後に目の前が真紅の色彩の洪水で溢れた、ドロシーが一気に間合いを詰めベルに襲いかかってきたのだ。
赤いボンネットの奥に赤く輝く宝石の様な瞳を見る、その直後に電光の速度で右手の手刀がベルの喉を狙って突きこまれる。
それをベルは反射的に左手でドロシーの手首を掴み取る、だがその剛力に押される、全力でそれを食い止めるが鋭く赤い長い爪がベルの喉の皮膚を浅く切り裂いた。
「ぐっ!!」
そのベルの視界の端でルディがいた場所で暗黒の砂嵐が荒れ狂っている。
ベルは敵の手首の冷たさと細さを感じた、ドロシーの左手がベルの腕を掴み取ろうと動く、そのしなやかな指の動きは妖しくも冒涜的な生き物のようだった、ベルの全身に戦慄が奔った。
ベルの右手は鞭を掴んでふさがっていた、ドロシーの手首を離し左足で彼女の左手を蹴り上げて後ろに回転しながら飛び下がった、だが無理な体勢から着地に失敗し後ろに倒れ込んでしまう。
そして鞭を引っ張るが動かない、ドロシーの足元をすばやく見ると片足で鞭を踏みしめている。
接近した時に鞭を踏みベルの動きを封じていたのだ、重くて長すぎる鞭がベルの足手まといとなっていた。
「せっきんせんにむかない」
そのドロシーの言葉も終わらぬうちに砂嵐の背後から影が飛び出し彼女の斜め後ろから斬りかかった。
「ルディ!?」
ルディの魔剣の斬撃をドロシーは体をわずかにひねり素手で受けとめた、何かが軋む不気味な音が聞こえてくる。
「なんだこいつ!?」
思わずベルの口からこぼれた。
ドロシーは片手でルディの魔剣を剣の背の方向からつかみ取って斬撃を止めていたのだ。
人間にはそんな真似は困難だ、さらに精霊力に習熟しつつあるルディの斬撃を止めるなどありえない事だった。
その鳴り響く嫌な音はドロシーの右腕から聞こえていた、それは彼女の骨と筋肉が軋む音だった。
ルディは渾身の力をふりしぼり剣を握りしめている、ふと彼は剣を奪われないように耐えているのではないかとベルの頭に閃いた。
ベルは素早く立ち上がると鞭を思い切りよく手放しグラディウスで抜き打ちざまに切りつけた。
斬撃はベルの方を向き直ったドロシーのボンネットを横に切り裂き宙に散らす。
現れたドロシーの顔は斜に大きく切り裂かれていた、だが血は一滴も流れてはいない、そしてその傷が見る間にふさがって行く。
彼女の容貌は一言で言うならただ美しかった、繊細な筋の通った鼻梁と切れ長の目に血塗られた様に滑るルビーの瞳、その肌は病的なまでに白く青味がかっている、その髪の色は黒で年齢は十代後半に見えた、そして何よりも目を引くのは長くて先が細く尖ったその両耳だった。
「ふつうのけん?」
ドロシーは小さくつぶやいた。
「お前やっぱり人間じゃあない!!」
ベルの声は震えその動きが一瞬だけ止まった。
「さすがにきつい『アウンズの蠅の群れ』」
ドロシーが再び詠唱を唱える、この状況で魔術を駆使できるとは信じられない。
黒い瘴気の粒をベルが至近距離からまともに食らう。
「ぐっ」
ベルは小さく呻くがその場で耐えた、精霊力で皮膚を支え攻撃を敢えてすべて受けたのだ、ベルは足元の鞭の柄を片足で強く踏みしめ動かなかった。
「ちっざんねん」
ドロシーは淑女らしからぬ舌打ちをした瞬間ベルの前から姿を消した、ルディの魔剣が畑をえぐる音がする。
だがあの圧倒的な存在感は消えては居ない、ドロシーがそのまま10メートル以上はなれた場所に横滑りに翔んだ事をはっきりと知覚していた。
ベルは改めて鞭を握り直したが、鞭が長すぎ重くて使い勝手が悪い、身長が3メートルほどあればちょうど良いのにと感じはじめていた。
ドロシーは右手の爪の先を舌で舐める、その爪の先はベルの血で濡れていた、彼女の舌は真紅のベルベットのような色と艶をしている、それが鋭い犬歯の間で軟体動物のように踊る。
ドロシーの顔色が僅かに血の色を帯びていた。
「おぼえた、のこりもすべてもらう」
ベルの背中に悪寒が走る、ドロシーが放つ威圧感がさらに高まりその瞳が赤く輝いた。
今までにない大きな力がドロシーに集まりそして詠唱が始まり終わる。
「『ティグリカの七人の死の捕縛人』!!」
身構えた二人の目の前に黒い小さな小鬼が七匹現れた。
「ベル見かけで油断するなよ!!」
黒い小鬼達は奇妙な武器をそれぞれ手にしていた、先が二股に割れた槍の様な武器、鎖の先に重りを付けた武器、鉄の鋲を打った棍棒など見慣れない武器をたずさえていた。
ベルはそれらの武器が敵を捕縛する為のものだと理解した、だがそれらの形状や紋様から淫猥な寓意を感じとり怒りを発した、半分は敵に対して半分はそれを理解できた自分自身に対して。
「わたしのちいさなこびとたち、やつらをしのほうていにれんこうしなさい」
ドロシーの命令に従い小鬼達が動き始める。
エルマは聖霊教会の礼拝堂近くで大人しく観戦していた、距離があろうと暗闇の中であろうとエルマの視力は戦いを正確に見ていた。
ドロシーは普段はたいがい誰を相手にしても鷹揚で丁寧な態度だが逆らうものには容赦はしない。
だからエルマもここから動かないのだ。
「召喚したわ、あまり好きじゃないって言ってたのに」
「ねえあなた、もしかしてエルマちゃんなの?」
急に後ろから声をかけられたエルマは驚いて声の主を振り返る、そこに修道女服の若い女性が立っていた。
「なぜ貴女起きているの?それに私を知っている?」
「私はここの修道女のサビーナ、みんな寝てしまって私だけ起きたのよ、皆んなまだ眠ったまま起きないの、あなたエルマちゃんよね?貴女ここに礼拝にきた事あるよね、マフダが貴方の事良く話していたから覚えているわ」
エルマは先日ハイネの小さな宿屋で住み込みで働くマフダの姿を久しぶりに見に行ったのだ、その時宿屋に放火しようとしていたオーバンに制裁を加えた、その酔っぱらいがオーバンだとは彼女も知らなかったわけだが。
「そうだマフダは良く礼拝していたっけ、思い出したわマフダが好きな修道女の名前がサビーナだったわね」
「良かったわ誘拐されたと思っていたけど無事だったのね、マフダが心配していたわ今までどうしていたの?」
サビーナが数歩エルマに近づき僅かに眉をひそめて足を止めた。
「その白いドレス破れているけど何があったの、ずいぶん良い仕立てのドレスなのに、大丈夫かしら怪我は無い見たいだけど」
その時のことだ畑の先の闇の向こ側から地を揺らす重い轟音が聞こえてくる。
「忘れていたわ!!私達いつのまにか眠っていたのよ、ベルさん達が悪い人たちと闘っているのかしら?」
サビーナは少し狼狽えて闇の向こうを見透かそうとする。
「エルマちゃん礼拝堂の中にはいりましょう、悪い人たちが来ているの」
サビーナが更にエルマに近づこうとして足を止めた、何かを感じたようにサビーナの顔がこわばる。
「エルマちゃん?」
サビーナは1歩だけ後ろに下がった、エルマが眉を寄せたがサビーナも自分に困惑している様子だ。
「サビーナあなた少しだけ魔術師の才能があるのね」
エルマは鈴を鳴らすような声で笑う、それは無邪気で邪悪な響きだ、サビーナはさらに二歩後ろに下がる。
白い小さな天使の様に美しいエルマにサビーナは怯えてた。
そしてサビーナの目からなぜか涙があふれ出る。
「エルマちゃん、貴方は死んでしまったのね」
「あなた凄いわ!!でもマフダの大切な人だから許してあげる、礼拝堂からでてこない事ね」
エルマは微笑んだ、その笑みにサビーナは怯えて震え上がった。