嵐の前
野暮ったい服に強烈な赤毛の少女が疲れた様に椅子に腰かけた、その仕草はかなり行儀が悪い。
「手紙渡してきた」
ベルはすいっと木皿の上に手を伸ばし素朴なお菓子を一つつまむと口に放り込んだ。
「ベルお前ばかりこき使ってすまんな」
「ふーん自覚あったんだ?」
ルディをジト目で見て、懐から小さな白いハンカチの包を取り出し机の上に置いて開いた、中から両断された黄金虫があらわれる。
「なんだこれは!?」
「まっ、なんですのこの虫!?」
サビーナがあからさまな嫌悪の表情を浮かべた、ベルは彼女のそんな表情を見るのが始めてだったのでしばらく顔を見つめてしまう。
「あのベルさん?」
サビーナは少し狼狽えて顔を少しだけ赤らめた。
「ベルこれが何か説明してくれないか」
ルディが黄金虫の残骸を指差した。
「ルディまずこれに意識を集中してみて」
ルディは無言で頷くとその残骸に手をかざし目を閉ざして精神集中を始める、しばらくすると目を見開いた。
「これは!!あの瘴気に似ている」
「瘴気?私は何も感じませんわ、でも何か嫌な感じがしますわね」
サビーナは少し困惑気味の表情をしながら、こわごわと黄金虫の残骸に顔を近づけた。
「これが礼拝堂の天窓に付いていた、何か不自然で黒い穢を感じたんだ、どうしても始末しなきゃいけない気分になって」
「そうか、アゼルなら何か解かるかもしれないな」
「まあ!?アゼル様がこちらに来られるのでしょうか?」
「サビーナ殿、アゼルはコッキーと向こうの守りだ、今夜の敵をしのいだらアゼルに調べてもらおう」
サビーナの表情にわずかな落胆の色が浮かんだが、ルディもベルもその意味を取り違えたようだ。
「うんそれがいいよ、あと僕はこれから工作しなきゃいけない、サビーナごめん手伝えなくて」
ベルが思い出した様に急に落ち着きがなくなった。
「いいのよファンニもいるから、でも工作ってなにかしら?」
「武器を作るんだ、道具も材料も用意してある」
ベルはまた手を伸ばしてお菓子を一つ掴むと口に放り込んで立ち上がる。
「僕は部屋に行くよ、あとはよろしく」
二人が頷くとベルは控室から中庭に出て行く、開かれた扉から差し込む日差しはすでに傾き始めていた。
残された二人はハンカチの上の黄金虫の残骸をしばらく見つめていた。
ハイネの南のセナ村に聖霊教会の子供たちが隠されている大きな屋敷がある、その屋敷は午後から急に静かになっていた、トランペットを奪われたコッキーは落胆したまま子供達が何をやっても反応しなくなってしまった。
彼女は自分の部屋のベッドに潜り込み布団に包まり寝ている、まるでピッポ達に幽閉されていた頃の様に。
子供たちも反応の薄いコッキーの相手をするのを諦めて二階の大部屋で遊びだしている。
「だいぶ静かになりましたね」
アゼルは天井を見上げながら体をほぐしながら呟いた。
机の上にはベルが奪い取って来た使用済み触媒の小さな山がある、だがアゼルはその分析を中断し、代わりに魔術街で買った本の一冊を再び開いていた。
その本は本格的な学術書ではない、エスタニア各地の神話や民話を集めた本で、テレーゼの土地女神のメンヤと神の器に関して調べる為にとりあえず買ったものだ。
さすがのアゼルも各地の民話や神話に深い知識があるわけではない。
エスタニア大陸各地に広がる著名な神々の知識のほうが彼にとって重要だった、二年前の神隠し事件や大公妃の精霊宣託と深く関わる問題だった。
アゼルは二年前のルディガー公子とクエスタ家の令嬢ベルサーレの神隠し事件が女神アグライアと深く関係していると確信している。
聖霊教圏における幽界の秩序とは、精霊王が幽界の頂点に位置しその下に幽界の有力な大精霊達がいるとされる、聖霊教が大きな勢力を持つようになり大精霊と称される様になったが、もとはエスタニア各地で信仰されていた神々だった。
聖霊教自体がいろいろ緩いせいで、神々と大精霊が共存しているが厳密には土地女神と言う表現そのものが教義に反している。
だが大陸西部のパルティア十二神教圏では今でも大精霊達は神々の扱いだ。
今でこそエルニアの守護女神と信仰されている女神アグライアは元々パルティア十二神教の一柱『暁の女神』とされ東方世界の守護神であり、夜明けと光を招く神として有名な女神だ、エスタニア大陸の東の果に住まうとされていた女神は、いつの間にか古いエルニアの大森林の狩猟の女神の神格と融合して現在に至っている。
エルニアでは精霊王よりも女神アグライアの方が人気が高かった。
アゼルは女神メンヤがハイネの大聖霊教会の東の礼拝堂に祀られている事を思い出していた、今でも彼女はテレーゼの人々の素朴な信仰心を集めていたが、メンヤは大地母神としての性格を強くもち、こうした大地母神は世界各地に存在している。
もちろんそれぞれ個性があるが、共通した神話や伝承のテーマをもっていた。
研究者の中にはこれらの大地母神を姉妹とみなし、共通の上位精霊が更にいるのではないかと仮説を立てている。
メンヤの特徴は礼拝堂の像に具現化されている通り『大地のホルン』を抱え下半身は大地に融合している、そして女神の大眷属に『大地の蛇』がいた、この蛇は大地のホルンの化身と言い伝えられ、それは始まりと終わりの蛇とも言われ、魂の輪廻を意味する無限の循環を象徴する蛇とされていた。
メンヤの奏でる音楽は命の息吹を讃えそして死と破壊を招く、生まれ出る魂を導き死せる魂を送り出す、天と地と魂の運行を司ると言い伝えられている。
「女神メンヤとあの娘のトランペットには深い関係があると思います、だがこの本からはこれ以上の知識は得られませんね」
アゼルは本を閉じた。
大精霊の数は数十と言われ強大な力を持つが、人々と交わることは殆ど無かった、上位精霊として纏めて扱われているが彼らの力を借りる事ができる術士は極めて限られていた。
それを可能とした術者は魔術師としてその名を残している。
そうした偉大な術者の頂点に輝く『偉大なる精霊魔女アマリア』は精霊王と契約を交わした史上唯一の魔術師と今でも讃えられていた。
アゼルは狭間の世界で見た玉虫色の服をまとった幼い少女の姿を思い出していた。
アゼルは立ち上がり居間に出た、天井が時々きしみ歓声が聞こえてくる、子供たちは二回の大部屋で遊んでいるようだ。
ベッドの下で寝ていたエリザが気がついて慌ててアゼルの肩にかけあがって来た。
そのまま一人と一匹はコッキーの部屋に向かう、彼女の部屋はベルとコッキーに割り当てられた部屋だがベルは聖霊教会を護るために出ていて今は居ない。
アゼルは遠慮がちに扉を叩く。
ベルが部屋に居たらもっとぞんざいな扱いだったろう、アゼルはコッキーとの距離感がまだ掴めていなかった。
ラーゼからリネインに向かう旅で偶然知り合った少女、10年前の戦災で孤児となった少女が何者なのか改めて疑問を感じ始めていた。
だが部屋から反応がない、寝ているのかと思ったが僅かな不安を感じて扉を押してみた。
予想に反して鍵がかかっていない、防護結界に守られた屋敷の中とは言えその不用心さに怒りがこみ上げる、万が一外部から敵が侵入してきた場合、鍵があれば僅かながら時間をかせぐ事ができるのだ。
扉を押し開くとベッドの一つの上にもりあがった塊があった、そこに近づくと彼女の寝息が聞こえてくる、アゼルはとりあえず安心する。
エリザがベッドに飛び移り布団をめくるとコッキーの顔が現れた。
改めて見ると年齢の割に幼い美貌にアゼルは密かに讃嘆せざるをえなかった、薄色合いの金髪と長い睫毛が改めて目を引く、そして閉じられた肉感的な小さな唇。
ふとアゼルは思ったこの幼いが繊細な美貌はとても庶民とは思えない。
「起きるまでこのままにしておきましょう、おいでエリザベス」
コッキーの顔を覗き込んでいたエリザがアゼルの肩に飛び乗る、アゼルは自分の研究室に戻るべく扉に向かった。
「アゼルさんラッパが遠くに離れていく夢を見ました」
後ろのベッドからコッキーの力なき声がする、アゼルは驚いたコッキーが起きていた事に。
「もしやトランペットの場所がわかりましたか?」
コッキーは布団から頭を出すと首を横に振った。
「でも心が翔んでいきそうなのですよ」
彼女の眉毛が八の字になる、こうして見ると寝ていた時の方が遥かに美しかった。
「聖霊教会が落ち着いたら若旦那様やベル嬢の助けをかりてトランペットを探しましょう」
「すみませんアゼルさん、私がうっかりしなければ」
「私も油断していました、貴女が無事だった事を喜びましょう」
白い粉をぶつけられた事を思い出したのかコッキーの顔が歪んだ、無事だったとは思って居ない事は明らかだ。
この時アゼルは屋敷の周囲に不審な生命反応が増えている事に気づいていた。
時間をかけて強化した魔術の警戒網が屋敷を取り囲む見張りの数が増えている事を捉えている。
(聖霊教会襲撃に合わせて監視を強化しているのでしょうか?)
「アゼルさん?」
「コッキーいいですか?絶対に屋敷から出ない様にしてください、子供達にも言い聞かせてください、何か身を護る武器になるものを用意してください」
「わかりました、何か変なのです?」
「屋敷を見張る不審な者達の数が増えています」
「子供達をさらった悪い人達ですよねアゼルさん」
「そうですね彼らは人攫の方でしょう」
コッキーはベッドから這い出た。
「まだ掃除も夕ご飯の用意も初めていませんでした!!」
窓の外の陽射しも傾きかけ夕刻までそう遠く無い事を示している。
「できるだけ普通に振る舞っていてください、お願いします」
アゼルの真剣な顔に何かを感じたのかおとなしくコッキーは頭を縦に降った。
「そうだ、かならず内側から鍵をかけてくださいね」
そう言い残すとアゼルは部屋から去っていった。
アゼルが部屋から去ったあとコッキーはまた部屋に一人取り残されていた。
「ラッパはどこにいるのですか?」
だがその問いに答える者はいない。
己の意識の底で彼方に通ずるあの門を感じていた、いつもその向こうからあの力がやって来る。
足を這い登り体の芯を突き抜け頭の上に抜ける熱い螺旋の力だ、体中が歓喜と快感に貫かれ満たされる、あの力さえあれば嫌な事もすべて忘れた。
やがて意識の底に白く輝くあの光の糸が見えて来た。
光の糸は門の遥か彼方からこの世に伸びる光の道、あとはこれに手を伸ばし引くだけであの力がやって来る。
コッキーの瞳の奥に黄金色の光が淡く灯る、にんまりと非人間的な笑みを彼女は浮かべた。