アマンダの帰還
青い空と傾きかけた午後の太陽の下、エドナの澄み切った大気を裂くように良く通る美しい声が響き渡る。
「みんなー」
断崖絶壁の大岩の上で思い思いの工具で岩を砕いていた男たちがその作業の手を休めて当たりを見渡す。
彼らはエドナ山塊で鉱石を採集していたエステーベ家の家臣達だった。
「今の声はお嬢様か?どこだ?」
「もうお戻りなのか、アラセナからアグライア山まで修験者の足でも往復4日の行程らしいが」
「みろあそこだ!!」
岩の壁をするすると降りてくる人の姿がある。
「間違いないあれはアマンダ様だ!!なんと恐るべき速さ」
断崖の上の狭い獣道まで降りて来た旅姿の人物がこちらに向かってくる。
「みんなご苦労さまね」
「アマンダ様もご無事で、ところでアグライア山頂の日の出はご覧になれましたか?」
「おかげさまで快晴だったわ、やっと長年の夢がかなった・・・」
アマンダは学業や武芸やルディガーの側仕えなどで多忙すぎて、長年の希望だったアグライア山の参拝ができなかった、今回は鉱床の案内ついでにアグライア山の参拝をしたのだ。
アマンダは足元に山となっている鉱石に目をやる、そのとなりに煌めく金属の粒がより分けられていたが、その独特の輝きに目を惹かれた。
「自然金がとれたのね」
「僅かながら、銀もあります」
こうした鉱床は純度の高い各種鉱物が採れる、残念なのは量が少ないためすぐに掘り尽くされてしまうことだ、地下の鉱脈を採掘するには本格的な開発が必要とされる。
「すこしここで休んでいくわ」
「我々も休憩をとります」
全員が作業を止めてアマンダの周りに集まって来た、アマンダは背嚢を下ろすと中から大きな革袋を取り出した、そこから芋アメを人数分取り出して配った。
「これはありがとうございます、甘味はありがたい!!」
取りまとめ役の男は率直にアマンダに感謝した、だが内心では家臣に配るほど芋アメを持ち歩く令嬢に感謝しつつも苦笑いをするしかなかった。
やはり話はアマンダの常人を越えた健脚の話題になった。
「ところでルディガー殿下と接触されたと噂が出ていますが、差し支え無い範囲で教えていただけませんか?」
つい気が緩んだのか纏め役の男が口を滑らせてしまった。
「殿下はお亡くなりになりました、それが全てですわ」
硬い表情のアマンダは乳母兄弟の死を悼んでいるとも、何かを秘めているともとれる。
ルディガーはエルニアでは公では死んだことにされた、公都の密偵からそれは伝えられている。
僅かな手がかりからハイネにいるはずのルディガー達を危険な目に合わせる可能性もあり得る、信用できる家臣達だが彼らの前でルディガーの生死に関して思わせぶりな態度を取ること自体危険だった。
豹変したアマンダの態度からまとめ役の男は自分の失敗を理解した、しばらく気まずい雰囲気になったが家臣の若い男が口を開く。
「アラセナ城下の館は整いましたが、新領地の館はどうなったかアマンダ様はご存知ですか?」
アマンダの態度が話題が変わった事で安心した様に纏め役の男には感じられた。
「私もまだ行った事は無いわ、私とカルメラはアラセナ城下の館に住むことになるわ、そちらはお兄様がいらして領地を管理なされる予定よ、それがどうかしたの?」
「いえ家族をいつこちらに呼び寄せられるか気になりまして」
「そうか、たしかに早くこちらに呼びたいわよね」
アマンダもいつになるか解らなかったが、こちらの情勢が安定したら徐々に引っ越しが始まるはずだ。
アマンダはふと眼下の緑の絨毯を見つめる、ここからはアラセナの新領地は見えない、だが眼下のバーレム大森林の彼方には懐かしいエステーベの旧領がある、はたしてそこに戻れる日が来るのだろうか?
「お嬢様?」
「あら、少し考え事をしていたわ、私は今日中にアラセナまで戻らなければなりません、そろそろ行きますわ」
家臣達の顔が驚きに変わった、だがアマンダならば日が沈むまでにアラセナまで降りられるだろう。
「お嬢様おきをつけて」
「おじゃましたわ、またあいましょう」
アマンダは荷物をまとめると別れを告げ断崖の上の獣道を去っていく、それをエステーベの家臣たちはしばらくの間見送っていた。
アラセナ伯爵領の中心アラセナ城市は盆地のほぼ中央にある、アラセナ城は城下町の郊外の小高い丘の上に聳え立っていた。
アラセナ城は軍事的な性質の強い山城で都市全体を城壁で囲い込んではいない、城下町は人口3000程の小都市でアラセナの行政や商工業の中心だった。
現在アラセナ城と城下町はクラスタとエステーベの共同統治になっていた。
そのアラセナ城市が連合軍の手に落ちてから数日目の夜が暮れようとしている。
エステーベ家の当主のエリセオは気怠げに新しい館の私室のソファーに腰をおろしていた。
彼は新領地の把握とブラスとの調整に日々忙しい、今日も城で今後の見通しに関してブラスと意見交換してきたばかりだ、新領地はいずれは長男のエミリオに委任するつもりだ。
新しい館は旧アラセナ伯の重臣の館で、旧領のエステーベ館と比べると手狭で粗末だが耐えるしかない、いずれは領地に見あった館を建てる事になるがそれは数年先の話になるだろう。
館の中は未だに落ち着かなかった、使用人達も徐々にグラビエからこちらに移って来ているが彼らにも疲労の色が濃い、エルニアからバーレムの森を突っ切ると言う奇策でグラビエに脱出してまだ日も浅い、落ち着く間も無くまた引っ越しの連続だった。
幸い荷物が少ないのが救いだった、そして接収した家具や調度品に頼る事ができた、その点は城下町が焼けなくて大いに助かっている。
アラセナ制圧時に無血開城させた事が大きい、エリセオ達は約束を守り残党が落ちるに任せたが、実情は追撃する余力が無かった事と無駄な損失を避けたかったからだ。
その時館の下階がにわかに騒がしくなる、エリセオはそれに何かを感じたのだろうか。
「アマンダか」
エリセオの口から漏れた。
そこに私室の扉を叩く者がいる。
「入れ!!」
エステーベの若い執事が部屋に入ってきた。
「お館様失礼いたします、アマンダお嬢様がお帰りになりました」
「やはりそうか、ここに来るように伝えよ」
「かしこまりました」
若い執事は去っていく、エリセオは更に深くソファーに身を委ねてくつろいだ。
そしてどれほど時間が経っただろうか。
ふたたび私室の扉を叩く音がする。
「私です父上」
「アマンダか入りなさい」
そこに部屋着に着替えたアマンダが入ってきた、簡素な貴族の婦人用の部屋着を纏っていた、だがそれは父親の目から見てもアマンダには似合わない。
だがベルの様に『何も身に付けないのが一番よく似合う』そんな達観の域にまでは到達していない。
彼女はエリセオの前まで進むと報告を始めた。
「ただいま戻りました、採掘隊を鉱脈まで案内し帰路その無事を確認いたしました」
「ごくろうだったね、アマンダとりあえず座りなさい」
まるで騎士の様な態度にいくぶんか苦笑するとエリセオはアマンダに席を勧めた。
そこに中年の使用人の夫人が茶を運んでくる。
「採掘隊の仕事はどうだったかね?」
「順調なようでしたわ、貴金属の採集に成功していましたが、量は期待できませんわね」
「まあそんなものだね、ところでアグライア山の日の出は見ることはできたかい?」
「はい、おかげさまで快晴に恵まれ美しい日の出を見る事ができました」
「それはお前の長年の夢だったね」
アマンダはそれに微笑んだ。
「すまないがお前にはもう一度殿下の処に行ってもらう事になる、我々の状況を伝えてアラセナに来ていただく」
「かしこまりました、ですが接触は難しいと思いますわ」
「すぐと言う訳ではないさ、カルメラをこちらに呼び寄せたよ、あの娘がこちらに来てから接触方法を決めてもらう」
「あの子が精霊通信を使えるのは大きいですわね」
「ああ、他家にやりたくないな、家臣の誰かに嫁がせて手元に置いておきたいよ」
魔術師の才能がある者は貴重で、本来爵位持ちの貴族の娘ともなれば婚姻の申込みは多いはずだ。
だがルディガー公子の乳母の家と言う関係でなかなか微妙な情勢が続いてその話は進んでいなかった。
「こうなるとその方が良いかもしれませんわね」
「お前はどうなんだい?殿下に仕えているからとその手の話を断ってきたからね」
「私は・・・」
「はは今となっては政略結婚どころではない、我らは行方不明扱いさ、エミリオの婚約も実質破棄に等しい」
「お兄様の婚約が、やはりそうでしたか」
「むしろ内側を固める時だ、エミリオはここの有力者の娘をもらう事になるだろうな、あとクラスタのベルサーレ嬢も候補に上がっているよ」
「お兄様とベルが!?」
考えてみるといかにもありそうな話だった、歳が若干離れているが許容範囲だった。
「でもあの娘が私の義理の姉になるの?」
アマンダはなぜかおかしそうに笑い始めた。
「ベルサーレちゃんが見たら気を悪くするよ?」
「あの娘は殿下が好きなのよ本人は認めなくても、勝手に婚姻の話を勧めたらきっとどこかに行ってしまうわ、ずっとエルニアやクラスタ家から追放されていたのですもの、家の為に働けと行っても縛りようがないわ」
「そう言うお前はどうなんだい?」
アマンダの顔が真っ赤に染まった、だが言葉は違う。
「わ、私はルディガー様に仕える身です、騎士の心構えで仕えてきましたの」
エリセオは内心で呆れてしまった、態度もセリフも殿下が好きだと白状しているに等しい。
(そう言うところはお前もベルサーレ嬢も大して変わらないな)
「追放されたはずのベルサーレ嬢は森にいただけで時々クラスタ家に帰っていたよね?」
「あの娘が悪いことをしたとはクラスタ家の人達は思っていないわ、去年の狩猟感謝祭に紛れていて驚いたわよ、紛れ込んで料理を堂々と食べて居るんですもの」
「彼女とクラスタ家の関係が悪いわけではない」
エミリオはベルがクラスタ家の為に動くと考えているようだった。
そこでふたたび私室の扉を叩く音がする。
「入れ」
ドアを開けた少女の様な若い使用人がアマンダの遅い夕食の準備がととのった事を伝える。
「お嬢様夕食の準備が整いました、お嬢様のお部屋の方にお運びいたします」
アマンダは立ち上がる。
「ではお父様、私は部屋に戻りますわ」
「うん、お前も疲れただろう、ゆっくりと休みなさい」
アラセナからエドナ山塊のウルム峠を越えた先のグラビエ湖沼地帯、そのエステーベ支配下の自由開拓村の館の一室でカルメラは引っ越しの準備で大忙しだった。
昨晩アラセナのエリセオからアラセナ城市に移るように指示が来たからだ。
「もーせっかく落ち着いたと思ったらまた引っ越しかしら、でも全部持って行く必要はないわねこのお屋敷もまだ使うもの」
片付ける荷物の厳選に頭を捻っていると、館の使用人頭の女性がカルメラの私室を訪れた。
「カルメラお嬢様、クエスタ家のご領主のお家族の方々が明日アラセナに移動する事になりました、お嬢様もご一緒する事になりましたのでご了承ください」
「え、ええ構いませんわ」
カルメラはクエスタ家の人々とは親しくしていたがアナベルが少し苦手だった。
「こちらからも折返し連絡いたします、具体的な手配はこちらで進めますので、お嬢様には動かす私物の整理をお願いします」
「わかりましたわ」
「これで失礼いたします」
館の使用人頭は部屋を出て行った。
カルメラは疲れた様にベッドの上に横になって天井を見上げた、やっと慣れたと思った部屋だがまた移動しなければならない。
その時小さな鈴の音が部屋の中でなり響いた、それは精霊通信盤の鈴の音だ。
「通信だわ!!」
カルメラは慌てて起き上がると部屋の片隅の豪華な精霊通信盤に向かって床の荷物をかいくぐりながらかけよった。
通信内容を整理すると短い分が現れる。
『セナ村にいる』
「どこかしら?」
カルメラはその聞き慣れない村の名前に小首をかしげた。