光の泉
温かい季節とは言え2000メートルを越える山の上ともなると夜は冷える、アマンダは肌を刺すような寒さで目が醒めた、だがそろそろ夜が明ける時刻のはずだが周囲の様子がどうもおかしい。
周囲は真っ暗で木々をざわめかせる風の音、木々の合間が霧で白く塗りつぶされている、思わず上を見上げると星空の代わりに黒々と茂る木の枝と葉が頭上を覆っていた。
アマンダは当惑して立ち上がった。
「ここはどこなの?」
昨晩はアグライア山の山頂で眠りについたはずだ、そこはゴツゴツした岩だらけの山頂で背の低い灌木しかない、だがここはまるで深い森の中だ。
ふと自分が入っていた寝袋も背嚢も近くに無い事に気がつく。
何が起きたか考えるが思いつかない、自分が寝ている間に遠くに運ぶ事など不可能だ。
だがその思いは突然に断ち切られる、彼女の鋭い感覚が人の気配を捉えた。
近くの茂みにすばやく身を隠しその気配の正体を探る。
すぐに森の霧の奥が明るくなりはじめた、賑やかに話す人の声と下草を踏みしめる足音が近づいてくる、その声は若い男女の二人だ、だがアマンダにはその声になぜか聞き覚えがあった。
「まさか殿下とベル?」
やがて輝く二つの光と共に二人の人影が霧の中から現れる、その二人の姿を見たアマンダは殴られた様な衝撃を受けた。
男は長身で鍛え抜かれた体と、日に焼けた整った精悍な顔つきで温厚で人の良さが滲み出ている、年齢は10代後半に見えた。
それはアマンダがよく知っている又従兄弟にして主君でも有るルディガーだった、だがアマンダの知るルディガーより若々しく見える。
それも彼の衣装は略式の正装だ。
となりのベルは決定的だった、黒くて長い美しい髪を背中に流し、体は細身で引き締まりその瞳は強い意思を感じさせる明るい青でそこまでは同じ。
だがその顔の色は白く透き通る様で頬が赤く染まっていた、どこか中性的で少年じみた体躯の美少女は追放される前のベルサーレだった、年齢も今より2~3才幼く見える。
彼女は名家の令嬢にふさわしい第二正装のドレスに身を包んでいた。
そして愛剣を鞘ごと手につかんでいた、鞘は新しい革張りで繊細な意匠を凝らした立派な物だ。
二人は魔術道具らしき小さな強い光を放つ照明をそれぞれ持っていた、それは非常に高価な道具とアマンダは即断する。
思わず二人の前に飛び出しそうになったがそれを理性でなんとか抑えた、この異常事態に冷静にならなければならない。
ベルは楽しそうに隣のルディガーと語り合いながら歩く、二人はいったいどこから来てどこに向かっているのだろう?
アマンダは過去の亡霊の追跡を開始した、何故かこの二人から離れるのが恐ろしかった。
過去の幻影を見ているのか、自分が過去に落ちてしまったのか何もわからない、これが夢なら醒めてくれと願った。
そしてアマンダの脳裏にある言葉が浮かんだ、それは『狩猟感謝祭』だ。
一年に一度クラスタ家が主催する『狩猟感謝祭』これにはエルニアの貴族が招かれる、先代の大公が参列した事もあった。
ベルが正装を纏うのは国事行事に参列する場合か『狩猟感謝祭』に参列する時ぐらいで、あとは親しい他家の冠婚葬祭ぐらいだろう。
正装でこんな森の中を出歩く状況など、クラスタ舘のあるマイア村に近い森の中で開かれる『狩猟感謝祭』ぐらいしかあり得ない。
すぐにベルが酒に酔っている事にアマンダは気がついた、ベルの声が妙に高くルディガーに馴れ馴れしい、ベルは男女の事では奥手で恥ずかしがり屋だったが、酔った彼女からは無意識な女の手練手管が顔を覗かせている。
アマンダはそれにイラつきを覚えた。
その間にも二人は仲良く小道を進んでいく、そして急に立ち止まった。
「あれ、ここどこ?」
「おいベル、俺は森には詳しくないんだぞ?しっかりしてくれ」
ベルの声からはさっきまでの軽薄で浮かれた響きが消えていた。
「ルディ、ここは僕の庭のような場所だ、お屋敷からも近いのにこんな場所知らない」
ベルは不安になったのか周囲を見回している、森は暗く白い霧もいよいよ濃くなっている、その霧を魔術道具の光が照らし出した。
「みて!!さっきまでなかった」
突然ベルが森の奥を指差す。
アマンダもつられてその方向を見て驚く、その先の森の奥が白く光り輝いていた。
「たしかに少し前まであのような光は無かったな」
ルディガーもそれにうなずく。
二人は顔を見合わせると、その光に向かって森に分け入って行く、アマンダは焦りながらも二人を静かに追いはじめた。
聖霊拳を極めたアマンダは音も立てず気配も完璧に消し去る優れた追跡者だった。
そしてアマンダはニ年前の『狩猟感謝祭』の日に二人が神隠しにあった事を思い出していた。
アマンダは不安を感じながらも二人を追跡するしかなかった。
やがて二人は小さな泉にたどりついていた。
小さな泉の水面が銀色に光り輝き周囲の木々を白く照らし出している、その水面は池の底からの光を解き放つかの様に光輝いていた。
「なんだこれは!?」
ルディガーの声からは恐れと好奇心がうかがえた。
「お屋敷の近くにこんな泉なんてないよ、ここはどこ?」
そしてベルの声からは不安と怖れがにじみ出る、ルディガーはベルの動揺を察して彼女の肩を抱き寄せた。
「ねえルディなにか見える」
「何だ!?あれは!?」
二人が光の泉に恐る恐る身を乗り出したその瞬間に泉は鋭い光を放つ。
その閃光でアマンダの視力は失われ何もかもが見えなくなった、遠くから二人の絶叫が聞こえる。
「殿下!!ベル!!」
アマンダも思わず叫ぶ。
アマンダの視力が戻った時、銀色に輝いていた泉はただの水面に変わり、二人の姿は消え失せていた、二人の魔術道具の照明も失われ、森は暗闇に閉ざされ、霧に覆われ僅かな月明かりしか光は残っていない。
アマンダは思わず泉にかけよるが二人の姿は無かった、それどころか泉の水面には波もたっていない、とても二人が泉に落ちたとは思えなかった。
それに二人が泉に落ちたなら魔術道具の光が泉の底から見えるはずだ。
「殿下!!殿下!!ベル~~~~!!」
アマンダはこの異常な出来事と森に一人取り残された不安で二人の名を呼び叫んだ。
「何が起きているの!?殿下!!ベル!!返事をしてお願い、お願い~~~!!」
それに答える声は無い。
アマンダは道に戻ろうと慌てて走り出した、少しでも泉から離れたかった、森からすぐに出なければと焦る。
先程の道に戻るとそこで一息つく、道ならばどこかに通じているはずだ、行き止まりなら逆に進めば良いのだから。
「そうだ木にのぼりましょう!!」
彼女は素晴らしい考えを思いつく、高い木に登れば遠くまで見通せる、アマンダは近くにある一際大きな大木に登りはじめた。
聖霊拳の上達者の彼女にとってそれは容易な事だ、しだいに幽界の通路から精霊力が流れ込んできた、それが彼女に力強さと安心感を与えてくれた、動揺と恐慌から抜け出ししだいに理性が戻ってくる。
そして見晴らしの良い太い枝の上に立つ。
月は満月に近く森と木々の間に低く立ち込めた霧を照らし出していた、だが今更満月に驚いたりはしない、だがアマンダの目は大きく見開かれ西の方角に釘付けになっていた。
エドナ山塊の影が目の前に迫っていたのだ、それをただ唖然として見上げるしかなかった、クラスタ家の『狩猟感謝祭』の会場からここまで徒歩で一日はかかるだろう。
あの二人はここまで歩いて来たのであろうか、それともあの二人は幻なのか、そもそもアマンダはエドナのアグライア山の最高峰にいたのではなかったか?
アマンダは木の幹に寄りかかり体を支えた、彼女の体は僅かに震えていた。
ふと何か目眩を感じたアマンダは思わず木の幹に強く抱きついた、だがそこには大木の木肌ではなく冷たい岩の感触があった。
我に帰ったアマンダが周りを見渡すと、そこはアグライア山の山頂だった。
それも昨夜野営をした岩場にいる。
彼女は思わず元に戻れたと歓喜したがそれは束の間の事だった、空に架かる月は満月でそして寝袋も背嚢も側にはない。
ふたたび絶望しかけた彼女はその背に冷たい何かを感じ鳥肌が立つ、思わず向き直ると岩の壁があるだけで何も見えない。
アマンダはその巨大な岩の上に登った、その上に立てば周囲をすべて見渡す事ができるはずだ。
岩の上のそこはエドナ山塊の最高地点になる、登りきったアマンダは呆けたように遥か西の彼方を見ている、西側はテレーゼの大平原が眼下に広がっている。
そのはるか奥地から巨大な黒い竜巻が立ち昇っていたのだ、距離感が麻痺してそこまでの距離が掴めない、大きさは考えたくも無かった。
地平線の彼方から立ち上る巨大な漆黒の竜巻、それが何なのかアマンダにはまるで見当がつかなかった。
そして再び彼女の背に冷たい悪寒を感じた。
思わず振り返るとそれはエルニアの方角だ、黒々としたバーレムの森の彼方の空が白み始めていた。
夜明けが近いのかと思ったが何かがおかしかった、白く冷たい白い色が地平線に広がって行く、だが空全体が暗く夜明けの明るさを感じる事ができなかった。
雲は朝焼けの色を帯びる事もなく、夜の闇が薄れ水色を帯びる事もない、静かに白く夜が明けようとしていた。
「ひっ!!」
アマンダが彼女らしくもなく悲鳴を上げた。
ついに日の出が始まったのだ、地平線の彼方から白い空を背景に漆黒の太陽が昇り始めた。
アマンダの足が震え出す。
やがて地平線の彼方が視界いっぱいに黒く盛り上がる、何が起きているのかアマンダの頭脳はそれを処理しきれなかった。
巨大な漆黒の津波が視界いっぱいに広がりながら押しよせてくる。
「ああっ!!」
アマンダは目を見開きそらす事ができなかった、足が萎えて岩の上に座り込む、その津波はエドナの山肌を駆け上り視界いっぱいに広がり総てを飲み込んでいった。
アマンダの意識はそこで失われた。
ふと眩しさを感じたアマンダは身じろいだ、寝袋に包まれ体は温かいが顔が冷たくこわばる。
目を開くと東の空が明るく輝いていた、それは明るくも美しい日の出の予兆だ、まもなく日の出が始まろうとしていた。
「いやな夢を見たような気がするわ」
何か重要な夢を見た様な気がするがなぜか思い出せない。
「運がいいわ海が見える!!良い一日になりそう」
地平線の彼方に細い青い筋が見える、それはエスタニア大陸の東に広がる大洋『東方絶海』の蒼だ。
ふと不快な汗を大量にかいていた事に気づき眉をよせる。
「今日一日の我慢よさあ始めましょう」
気分を切り替えると、アマンダは上機嫌でご来光を迎える儀式の準備に取り掛かった。