女神アグライアの聖域
エルニアのバーレムの森の西側を南北に走るエドナ山塊、ウルム峠からそう遠くない山中を数人の集団が北を目指して進んでいた、彼らは山中で活動するのに適した姿でツルハシやハンマーなどの工具を背嚢にくくり付けていた。
道なき道を進む彼らの呼吸は荒く疲労の色も濃い。
その集団を白いローブの一際目立つ長身の女性が先導する、その女性はアマンダだった、その白磁の様な肌と燃え立つような赤毛が一際目を惹く。
彼女は後から続く家臣達を励ましながら進んでいく、彼女には疲労の色も見えずその足取りも軽く力強かった。
「みんながんばってもう少し、あの岩場を越えた先よ」
「アマンダ様あれを越えるのですか?僕達は山猿ではないですよ?」
家臣の若い男が泣き言をこぼした。
彼らの行く手を黄みがかかった薄灰色の巨大な岩の壁が阻んでいたのだから。
「しかしお嬢様このような場所、地元の猟師も近づかないでしょうな」
家臣のまとめ役の男も半ば呆れた様にこぼす。
「この先は聖霊教の修験者しか踏み込まないわ」
アマンダはその男に振り返りもせずに答えた。
一行はやがてその岩場に挑み始める、手を滑らせたら下まで真っ逆さまだ、彼らはエステーベ家の中でも山に慣れた者を揃えていたが彼らにとっても難所だった。
それをアマンダは軽々と乗り越えていく、そして後から続く者達を支援していた。
一行は帰路を考えて岩に鉄くさびを打ち込みロープを張りながら昇っていく、そして1時間ほどで全員無事に乗り越える事ができた。
その崖の上からはエルニアのバーレム大森林を眼下に望む事ができた、地平線まで深緑の森が続き人の営みの痕跡すら見えない。
「これは雄大な眺めです」
まとめ役の男がおもわず感嘆の言葉を吐いた。
一行はしばらく休息を取るとアマンダの案内で再び進み始めた、今度は断崖の上の狭い獣道を進んでいくが、ここも足を踏み外せば命は無い。
「もうすぐよ、ほらあそこ」
アマンダの指し示す先に巨大な黄色い風化しかけた花崗岩の露頭が見えて来る。
「ほうあれですか?」
やがて一行はその露頭にたどり着いた、観察すると岩の割れ目に透明な水晶のような物質、鈍く黄金色に輝く物があるではないか。
「お嬢様!!まさか金!?」
「これは黄銅鉱よ、これが金なら大変な事になるわね、もちろん本物の金もあるわよ」
アマンダは苦笑いを浮かべた。
「今まで手つかずだったのですか?」
まとめ役の男がアマンダに疑問をぶつけた。
「エドナの古い火山の跡に普通にあるわ、純度が高いけど量が少ないからすぐ掘り尽くされてしまうのよ、ここは人が来にくいから今まで残っていたのね」
「今は僅かでもありがたいですな」
部下たちは工具を外し露頭の採掘に取り掛かっていた、かれらは3日程ここに居座り各種鉱物を採集する予定だった。
硫黄や黄銅鉱や黄鉄鉱を採集し金などの貴金属を採掘するのだ。
「私は先に進むのでここでお別れね、みんなまた会いましょう」
「お嬢様こそご無事で」
だが熊と遭遇しても熊が兎の様に逃げ去ると言われるお嬢様を本気で心配するものは少ない。
アマンダは家臣達と別れさらに奥深く踏み込んでいく、やがて小さな水の流れの音が前方から聞こえてきた。
その音は高さ30メートル程の岩肌を滝の様に水が流れ下っている場所から聞こえてくる。
アマンダは小さな灌木をかき分け踏みしめ断崖の下まで進むと、その流れに指をつけそして匂いを嗅いだ。
その水は生温くてほのかに硫黄の匂いがした。
「この上ね」
アマンダは断崖の上を見上げ心の底から嬉しそうに微笑む。
その引っ掛かりすら乏しい巨大な一枚板の巨岩の表面をアマンダはまるでイモリのように危なげ無く昇りはじめる、彼女は確実に揺るぎもなく昇っていく。
そしてあっという間に登りきってしまった。
その崖の上は少し開けていて、巨大な岩が屋根の様にせり出していた、その背後の岩の隙間から温泉が湧き出しそれが小さな池に溜まっている。
そこからあふれた湯が岩の表面を流れ落ちていたのだ。
「あったわ!!これが聖霊教修験道100秘湯の一つね」
アマンダはさっそくローブを脱ぎ丁寧にたたむと岩場の影に置いた、そして着衣を次から次へと脱ぎながら、一つずつ丁寧にたたんではローブの上に置いていく。
それは美しく折り目正しく彼女の几帳面な人柄が良く滲み出ていた。
全裸になったアマンダの肉体は聖霊拳の理想に従い鍛え抜かれ、それは調和を謳う肉体美を体現していた。
まずは静かに作法にのっとり汗と埃を流し清める、その姿には忘れられた古き教えの巫女のような厳粛さがあった。
彼女にとって秘湯は神聖なものでベルの様に秘湯に飛び込む者には情け容赦しないのだ。
湯船につかり雄大な風景をたのしむ、眼下のバーレムの濃緑の絨毯を眺めた、この森の尽きるその先に懐かしいエステーベの故郷があった。
ふと口が寂しくなったので、側に置いた背嚢の口を開き好物の芋飴を取り出すと口に含んで転がしはじめた。
芋飴はすべてにおいて例外事項なのだ。
湯に浸かり体を伸ばすと疲れがとれ心が安らいでいく、僅かな硫黄臭すら好ましいものに感じ始めた。
彼女は目をとじて心を休めていたが、とつぜん目を見開き誰に言うとも無く声をかけた。
「そこにいるのでしょ?」
「おそれ入りましたやはりお気づきでしたか?」
岩場の影から修験者らしき男が現れた、その男はアマンダから視線をそらしながら近づいてくる。
修験者と解ったのは聖霊教の修験者の道衣と身分を示す角笛を胸から下げていたからだ。
そして彼は乱雑に道具をつめこんだ巨大な背嚢を背負っていた。
アマンダは片手で見事な胸を隠し湯船に深く身を沈める、そして接近してくる修験者を見たアマンダは僅かに首を傾げた。
「女性の裸を見ていたとは思いませんが、失礼ですわ」
「まことに失礼いたしました、先客がおられるとは思わず、そしてつい出そびれました」
修験者は湯船の側まで来るとアマンダに背中を向けてしまった、失礼な態度だがアマンダの裸を見るよりはましと判断したのだろう。
そしてアマンダが岩場の影に畳んだ衣服を見て感嘆の表情を浮かべた。
「これは見事なお点前ですな」
アマンダが秘湯に入る作法を心得ている事をそこから見て取ったのだ。
だがアマンダの表情は厳しい、自分が脱いだ衣服を見られて愉快な気分になれる女性がいるはずも無い。
「あら?あなたとは前にお会いしましたね、たしか修道士ヴァスコ様」
「覚えておられましたか、たしか貴女様はアマンダ様でしたな」
アマンダは数日前に裏街道で出会った修道士と同一人物とさとっていたのだ、ヴァスコは一度アマンダを見やりすぐに目を逸した。
「ええそうよ、ところでアグライア山を参拝されたのかしら?私もこれから参拝するつもりですわ、この湯で清めてから向かう予定でした」
「なんと貴女様も、私は山頂で一晩を過ごし日の出を参拝いたしました、今日中に里に降りる予定です」
「降りるならアラセナ側は避けた方がいいわね、アラセナの傭兵団が滅んで支配者がかわったばかりだから」
「なんと!!オルビアに向かおうと思っていましたが」
「あの裏街道は厳しく監視されていたわ、使わないほうがいい」
「山中を抜けてテレーゼに抜けるしかありませんか、今夜も野宿とあいなります・・・さていつまでもお邪魔はできません、速やかに退去いたします、では縁がありますればいずれ」
恐縮しながらもヴァスコは巧みに断崖を降りて行った。
アマンダはため息をつき姿勢を楽に戻した。
「見事に気配を消していたわね、かなりの曲者」
アマンダは独り言をこぼした。
エドナ山塊はエルニアとテレーゼの国境をなしていたが、標高は2000メートル級の山々でそれほど高いわけではなかった、だが山頂付近が黒く硬い岩石の岩山で険しい事で知られていた。
またいつくか古い火山もあり温泉などが湧き出している事でも知られる、バーレムの大森林がある為にテレーゼ側からの方が登りやすい。
今アマンダはその最高峰アグライア山の頂きに立っていた、体を鍛える為に敢えて力を使わず、常人で二日の行程を僅か一日で駆けるように踏破してしまった。
「やっとここに来ることができましたわ」
彼女はこの2年程ルディガー公子を護るためアウデンリィート城から離れる事ができなかった、やっと長年の念願をかなえる事ができたのだ、だがアマンダはこの山頂で一泊してからすぐアラセナに戻らなければならない。
アグライア山の名前は暁の女神アグライアからとられている、女神アグライアの伝説はエスタニアに古くから続く神話で、夜の闇の終わりを告げ光を導く夜明けと希望の女神とされている。
大地で最初に日の光を見る事ができる場所に女神は住まうとされてきた。
かつて大陸周回を目指す探検家がいつまでも果てのない陸地に疲れ引き揚げを決意した時、彼らの目の前に大陸の端が姿を表した。
それがリエカの近く『希望の岬』と呼ばれるエスタニア大陸東端の岬だった。
その船の艦橋から遥か西に望める山脈の上に強く輝く光が見えたと伝えられている。
そこから暁の女神の名を付けられたのがエドナ山塊最高峰のアグライア山だ。
山頂には礼拝所や神殿があるわけではなかった、ただ岩の露頭が神殿の様な威容を誇りそびえ立っているだけだ。
だがアマンダはエスタニア大陸でも有数と言われるこの聖域に踏み込んだ時から、その力の存在を感じていた。
「強い力を感じるわね、誰かに見られている様な・・・」
その力からは邪悪な物は感じなかったが、どこか異質で人の理解を越えた精神の存在を感じさせた、それがアマンダを押し包む。
眼下のバーレムの森のさらに先に『希望の岬』があるはずだ、空気が澄み切っている時に海の青が見えると言われるが、アマンダには白く霞んで海の青を見ることはできなかった。
「残念ね」
アマンダはこの山頂で一泊してからすぐアラセナに戻らなければならい、アマンダは巨大な岩を神殿に見立てて礼拝すると野営の準備を始めた。